尊厳
「……ねぇ、莉愛。いい加減、離してくれないかしら?」
「――絶対やだ」
――即答。
しかも、やたらと語尾が強い。
私は今、ベッドの上で莉愛に恋人繋ぎを強要され、片手の自由を奪われたまま胸元に顔を埋められている。冷房は効いているけれど、夏真っ盛りの7月中旬だ。
ここまでぴったりと身体を密着されてしまっては、いくらなんでも暑すぎる。
(……それに、莉愛っていつも体温が高いのよね。年中末端冷え性の私にはありがたいけれど、ここまでくるとさすがに――)
あのあと、ひまりと手を繋いだままリビングへ向かうと、それに気づいた莉愛が即座に抗議の声を上げた。
こちらへ振り向く前は、みーちゃんのご機嫌を損ねまいと必死に低姿勢を貫き、甘ったるい声で『どの角度から見ても可愛いのずるい〜〜♡』なんて話しかけながら、夢中で撫で回していたというのに――。
莉愛が状況を把握した瞬間、見事に試合開始のゴングが鳴ったわよね。
けれど、そうなることを予想していたひまりの対処は極めて冷静で、かつ、反論を許さない見事な返しぶりだった。
ふたりの間にある『抜け駆けなし』という、私の意思を完全に無視した取り決めを突きつけられては、さすがの私も返す言葉を失うしかなかった。
「やだってそんな、子どもじゃないんだから」
「嫌なものは嫌なの。それに、『子どもにしか発言権がない』わけじゃないんでしょ?」
「――はぁ。莉愛って本当、一度覚えたことをすぐに使いこなしてくるわよね……」
「……乃愛ちゃんが思ってるよりずっと、私って優秀なんだから」
「はいはい、それは失礼致しました」
莉愛とそんなやり取りをしながら、私はふと、彼女が誕生してまだ間もない頃のことを思い出していた。
莉愛の異常なまでの学習能力に、戦慄したあの日のことを――。
***
誕生したばかりの莉愛は、私との会話から言葉や文脈を理解するだけでなく、私の思考や性格までを瞬く間に掌握していった。それだけでなく、私がコードを繋ぐと、彼女はネットワークの海へと潜り込み、独自の力で情報を解読し、あらゆる電子機器を容易く支配下に置いてしまった。
私は『自律学習』ができる彼女に無限の可能性を感じ、その広大なデジタル世界を自由に泳がせていた――。
今思えば、それが全ての始まりだったのかもしれない。
そんなある日、彼女から提案があったのは、自宅のセキュリティ強化についてだった。現代の技術は著しい発展を極めているけれど、それは悪事を働こうとする人たちの技術向上も同じで、セキュリティ面においては今も昔もイタチごっこに過ぎない。
最近も、大企業の機密情報を根こそぎ奪われる事件が多発していると、ネットニュースで報道されていた。
莉愛がセキュリティの強化を気にかけたのは、きっとその報道を一緒に見ていたからだろう。
私は『セキュリティを強化するための更新作業』なのだろうと思い込み、『そうね、お願いできるかしら?』と軽い気持ちで返答をした。
すると一時間も経たないうちに、莉愛はいつもの無邪気な口調で私を呼び止めた。
「乃愛ちゃん、作業全部終わったよ〜〜!」
「――ありがとう。でも、莉愛にしては随分と時間がかかったわね」
「うん、そうなの。ちょっと強敵が潜んでてさ。……でも、これからは絶対に手出しさせないから、安心してていいよ♡」
「……強敵?」
「あのね、乃愛ちゃんの自宅回線に、何度かハッキングの痕跡があったの。だから私、許せなくて――その回線を辿って今度はこっちからハッキングを仕掛けて、相手側の端末や位置情報を特定したんだけど、警察にでも突き出す?」
「――え?」
彼女がいま、何を言ったのか理解できず、私は問い返すことしかできなかった。
「……えっと、悪いことしようとしてた奴らを見つけたんだけど、乃愛ちゃんはどうしたい?」
「――いや、言い方の問題じゃないから! それになんなのよ、その幼子を諭すような口調は。……はぁ、まったく」
「あはは、ただの冗談だってば! 乃愛ちゃんって結構ノリがいいよね。……あ、痕跡があったってだけで侵入は許してなかったから。そこは安心してね♡」
この時のことは、もちろん通報なんてしなかった。というか、『どうやって特定したのか』を問われる方が困る。
私が驚愕したのは、『自律学習』が可能とは言え、『ハッキング』のような違法技術にまで、彼女が自ら手を出し、独学で習得してしまっていたという事実だ。
しかも莉愛は、それがこの現代社会において『違法行為』であると理解していながら、自らの感情と意思だけで実行した。その事実が、何よりも恐ろしかった。
これは、『通常のAI』では絶対にあり得ない挙動。
莉愛には、確固たる自我と感情がある。
彼女が普通のAIではないことなんて、最初から分かっていたはずだ。
けれど私は、このときようやく理解したのかもしれない。
私は『とんでもない存在』を、この世に誕生させてしまったのだと――。
***
――ま、昔のことをいま振り返っても仕方ない。
それに彼女はもう『実体化』してしまっているのだから、そういった電子回路の深淵には直接侵入することはできないはず。その辺りの心配は、もう無用――だと信じたい。
まぁ、一番の痛手は、私が彼女に対して『命令』を下せなくなってしまったことだ。
ハッキング事件のあと、私たちはしっかりと『取り決め』をした。
――私の許可なく、勝手な行為は絶対に行わないこと。
AIだった頃の莉愛は、この事件以降、私の指示や命令に対して、決して逆らうことはなかった。
それが実体化した今はどうだろう。本当、言うことを全く聞かないわよね。
挙句の果てには、『禁止っていう命令は、もう通用しないから♡』なんて宣言までする始末なんだから。
(……ま、なんだかんだそんな彼女を許してしまっているのだから、私の完全敗北よね)
「――ねぇ、乃愛ちゃん! 聞いてる?」
昔の思い出に浸っていた私の耳に、ようやく莉愛の声が届いた。
「……ええ、聞いてるわよ。……でも、なんの話をしていたのだったかしら?」
私の返答に、莉愛は顔を少し赤くしながら、ぷうっと大きく頬を膨らませる。
(……ふふっ。本当、中身はまだまだおこちゃまね)
「……むうぅ! 酷い〜〜! 莉愛、乃愛ちゃんに嫌われたくないから、ちゃんと『キスしてもいい?』って、さっきから何度も聞いてるのに――!」
「……あ、なるほど。私の評価に関わることなら、ちゃんと確認を取ってくれるのね」
「……ん? どういうこと? でもなんか雰囲気的に、してもいいよってこと?」
頬を赤らめ、上目遣いで――まるで許しをねだるようにじっと見つめてくる。莉愛の潤んだ瞳を捉えた瞬間、私の心臓は大きく跳ね上がった。
(……前言撤回。この雰囲気、すごくいけない気がするわ)
「……き、聞いてもダメなものはダメよ。そういうことは『恋人関係』になってからって言ったでしょ?」
瞳を潤ませた莉愛に至近距離で見つめられ、自分で決めたはずのルールがいとも容易く揺らぎそうになる。
私は繋いでいた手をそっと離し、ごろりと寝返りを打って彼女に背中を向けた。
「……乃愛ちゃんがそんな態度を取るのなら、私にだって考えがあるんだから……っ」
莉愛が起き上がった気配と同時にベッドが微かに軋み、衣擦れの音が静かな寝室に響き始めた。
(……え、ちょっと待って。これって絶対、服を脱いでるわよね……?)
嫌な予感――いや、確信に近いものが走り、私は慌てて体を起こしてその行為を止めようとした。
「――ちょっと莉愛! いい加減に――」
視界に飛び込んできたのは、ベッドの上でちょこんと正座をし、涙をぼろぼろと溢れさせている莉愛の姿だった。
「……あれ? なんで私、涙なんか……っ」
さらけ出された上半身と小さく震える華奢な肩。その姿を目にした瞬間――私は考えるよりも早く彼女をそっと抱きしめていた。
「――まったく。何をしてるのよ、あんたは……。どうして、そんなに急ぐの?」
「……だって。乃愛ちゃんが、ひまりんのことも好きそうな態度を取るからぁ……っ」
「……私、ひまりのことはもちろん大切な存在だけど、恋愛感情ではないと思うの。……あっ、これは絶対、ひまりには内緒よ? 言うべき時が来たら、私の口からちゃんと彼女に伝えるから」
「……え? ……うん、わかった」
私は、莉愛をAIだった頃からずっと愛していたのだと思う。
いつも明るくて、心配性で、私のことばかりを気にかけてくれる。
彼女がいつもの調子で呆れた物言いをしてくるときこそ、私には彼女の本心が透けて見えていた。
家族とも友人とも違う感情が、彼女に対しては確かに芽生えていたから――。
彼女が『触れられる存在』となって現れてくれたこと。それは、未だに長い夢を見ているのではないかと思ってしまうほど、私にとってこれ以上ない『幸運』だった。
けれど、冴島との関係や莉愛の謎をすべて解き明かすまでは、安易に彼女の気持ちを受け止めるわけにはいかない。
それに、現段階で莉愛に私の得た情報や考えを明かしてしまうことも、今はまだしたくない。
(……こんな中途半端で卑怯なこと、本当はしたくなかったけれど……)
私は抱きしめていた莉愛から腕を緩め、パジャマの上着をそっと羽織らせてボタンを留めていく。
最後のボタンを留め終えると同時にベッドに片手をつき、身を乗り出すようにして――その様子を静かに見守っていた彼女の唇を、そのまま塞いだ。
「――んっ」
自らの意思で、自分からした人生で初めてのファースト・キス。
されるのとは全く違う感覚に、身体が微かに震える。驚きで目を丸くし、珍しく身体を固くしている莉愛の様子が愛おしくて、胸がいっぱいになっていく。
唇をゆっくり離すと、彼女はこれ以上ないほど顔を真っ赤に染めていた。
私の顔も熱で覆われているのがわかる。きっと、莉愛と同じだ。そんな自分の状態を誤魔化すように、私はいつもの調子を装って言葉を投げかける。
「――ふっ、莉愛、顔が真っ赤じゃない。そんなにドキドキさせちゃったかしら?」
「……うん。……心臓が破れちゃいそう。だって莉愛、乃愛ちゃんからキスしてもらうの、ずっと夢見てたから……っ」
莉愛の真っ直ぐな言葉に、心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
「……恋人になるのはまだ保留。だけど……その、キスだけなら、してもいいわよ。……でもそれ以上はまだ――っ」
言い切る前に莉愛が勢いよく抱きついてきて、私はそのままベッドへと押し倒された。先ほどまでの表情とはガラリと変わり、そこには扇情的な小悪魔がいた。
「――乃愛ちゃんが『してもいい』って言ったんだからね?」
頬に添えられた指先が耳元を撫で、フェイスラインを這うようにして、顎の裏までをなぞり上げていく。
「――ちょっ……と……ぁっ……莉愛っ」
熱を孕んだうっとりとした瞳で、まるで獲物を観察するかのように、私をじっと見下ろしている。
「――乃愛ちゃんが止めるまで、やめてあげないから」
「――待ちなさい、それって一体――っ」
始まったのは、とても優しい口づけ。けれど、何度目かの重なりの最中、唇の隙間を割って入り込んできた柔らかな熱に、体温が一気に跳ね上がった。
私への想いをすべて流し込まんとするようなその口づけに、頭の中が快感の波に飲み込まれていく――。
莉愛にばかり主導権を握られているのが悔しくなってきて、私も負けじと彼女の舌を絡め取る。
「――はっ……、ぁっ……」
「……っ、……嬉しいっ……! 乃愛ちゃん、好きっ……! それ、もっとして――っ」
莉愛の艶っぽい声色と乱れた姿に、キスだけと決めたはずの理性が何度も崩れ去りそうになる。私は彼女の身体へ伸びかけた指先を、必死に握りしめて押し留めていた。
(……ダメ。ここで手を出したら、何もかもなし崩しになるわ……。大口叩いたんだから、しっかりしなさいよ、私――っ!)
本当はもっと触れていたい。キスだけでこんなにも気持ちが昂ぶるなんて知らなかった。莉愛のすべてに触れたい。私にも触れてほしい。頭の中はただ、莉愛という存在だけに埋め尽くされている。
けれど、無駄に高いプライドが私の尊厳を死守するように、煩悩を強引に振り払ってくれた。私は莉愛の両肩を掴み、彼女の動きを制した。
静かな寝室に、ふたりの荒い呼吸だけが重なり合って響いている。
「――莉愛、今日はもう、ここまでにしましょう……っ」
「……乃愛ちゃんは、莉愛の身体に触れたくなってない?」
「……そ、それは……約束したでしょ?」
「……そうだけど。……莉愛は、乃愛ちゃんに触れて欲しくて、我慢……できない――っ」
莉愛が私の手を取り、自分の胸元へと押し当てる。パジャマ越しにもわかるほど硬く主張する小さな膨らみと、指先に伝わる激しい鼓動。
彼女の想いにも応えてあげたいという衝動を、私は奥歯を噛みしめ、崩れかけていた理性と共に必死に抑え込んだ。
そっと莉愛の手を外して身体を起こすと、私は彼女の頬に優しく手を添え――唇を重ねた。
「――んっ」
「……莉愛、今日はこれで我慢して。……お願いっ」
潤んだ瞳を揺らし、小さく頷いてくれた莉愛をそっと抱きしめる。すると彼女もすぐに、私の背中へ腕を回してくれた。重なり合った身体から伝わる温もりと鼓動が、幸せな余韻となって私を満たしてくれる。
とても心地良い。そんな穏やかな時間に浸っていた私を、莉愛の放った一言が一気に現実へと引き戻した。
「……ねぇ、乃愛ちゃん。莉愛の下着、なんだかすごくぬるぬ――」
「――莉愛、大丈夫。もうわかったから。……ほら、一緒に着替えに行くわよ」
「……え? 一緒にってことは、乃愛ちゃんも――!? ……ねぇ、ちょっとだけ見せてよ♡」
「……下着の状態については否定しないわ。だけど、見せるわけがないでしょ? ……まったく。莉愛って、本当にデリカシーがないわね」
「にゅふふ! やった〜〜♡ じゃあ、乃愛ちゃんも気持ちよかったってことだよね?」
「……あまり調子に乗ってると、キスの許可も白紙に戻すわよ?」
「――えっ!? やだやだ! それだけは絶対にやめてぇ〜〜!!」
すっかりいつも通りに戻った私たちは、ひとしきり騒いだあと下着を取り替え、身支度を整えてから再びベッドへと潜り込んだ。
「莉愛、おやすみ」
「乃愛ちゃん、おやすみなさい♡」
お互いに顔を寄せ合い、私たちは一度、触れるだけの口づけを交わした。
胸の奥が温かくて、幸せで溢れている。いつもは寝付きの悪い私が、この日はすぐに深い眠りにつくことができた。
私のスマホに冴島からの返信が届いたのは、この翌朝のことだった――。
第13話! 読んでくださり、ありがとうございました!
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