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第五章 祖父の影

 舞台は大学の埃っぽい小スタジオから、秋山庄三郎の実家へと移る。

 土曜日の、ぎりぎり午前中といった時間、秋山庄三郎はひとり暮らしのアパートから実家に帰り、その玄関で靴を脱いだ。


 「あら庄ちゃん、おかえり。あんた今朝はちゃんとごはん食べた?」

 キッチンの方から母の声。

 「ただいま。食べた食べた」

 嘘である。大学生がひとり暮らしの休日の朝に、まともな朝食を摂っているわけがない。でも「食べてない」なんて答えると、ダイニングに拉致されて三十分は出てこられなくなるし。

 「ほんと? 冷蔵庫にプリン入ってるわよ」

 「いらない。ちょっとアトリエ見てくるだけだから」

 「アトリエ? 珍しいわね」


 庄三郎の実家は、ただの家とは言えない。伝説のグラビア写真家・秋山庄太郎のアトリエが、ほぼ生前のまま残されているという、写真オタクからすれば一種の聖地である。作者としても、ここは筆を研ぎ澄ませ、そのアトリエの四方隅々細々にわたって精緻なる描写を・・・聖地だけに・・・と言いたいところだが、当の孫である庄三郎にとっては、単なる「なんかいっつも微妙な匂いのする爺ちゃんの仕事部屋」だったりするわけなんだよなあ。ううむ。


 アトリエの重い扉を押し開けると、その特有の匂いが鼻をつく。少し埃っぽい匂いに、古い機械特有の匂い。印画紙の匂い。そして部屋の奥、暗室から今もかすかに漂う現像用薬品(酢酸とコレクトール)の匂い。


「さてと・・・」

 庄三郎は、天井からぶら下がるスタジオライトを見上げた。反射板を備えた、角ばったシルエットの照明機材。ライティングレールに残された灯体とその配置。

 いわゆる「秋山式」の痕跡だ。


 ここで、少しだけ技術的な話をさせてほしい。退屈だったら飛ばしてくれて構わない・・・と言いたいが、この物語を理解する上で、ちょっとだけ重要な所なのだ。ほんのちょっとだ。すぐ終わる。ちょこっとだけだから。天井のライト数えてたらすぐ終わるから。


 写真のスタジオライティングには、基本的に三つの要素がある。


 一、メインライト。主光源。被写体をどの方向から照らし出すのか。

   そのいちばん大事な光。

 二、フィルライト。補助光。メインライトが作った影を逆からやわらげる光。

 三、バックライト。背景光。輪郭を浮かび上がらせて、エッジに光を乗せたり、

   仕上げにアクセントをつける光。


 プロのスタジオでは、この三つを基本に、何灯もライトを足していく。十灯を超えることもある。写真は光画(フォト グラフ)。そうやって足していく光そのものを筆として、を描いていくのだ。

灯数が増えれば増えるほど、見え方をコントロールできる。影を消す。艶を足す。瞳にキャッチライトを入れる。いくらでも手を加えてゆける。


 秋山庄太郎は、基本的に一灯だった。


 秋山式ライティング。それは驚くほどシンプルだ。被写体の美しさを引き出すための、最も単純な仕掛け。

 メインライト一灯を、斜め上から、被写体に当てる。率直に。それだけ。

 補助もバックもあるにはあるが、最小限だ。ほとんど一灯の力だけで写真を成立させる。


 何もしないのではない。

 一灯だからこそ、光の当て方ひとつに全てがかかる。顔の造形がいちばん美しく見える角度を、たったひとつの光源で照らし出す。鼻梁の稜線。頬骨の角。目元の奥行き。すべてが一つの方向から、一貫した論理で照らされる。

 正攻法だ。小細工はない。

 そして小細工がないから、被写体の地力がそのまま写真になる。盛れないし、隠さない。ただただ被写体そのものの美しさが、一つの光の下に引き出される。


 ――引き出される。


 作者はようやく、庄三郎がなぜ今日この場所に来たのかを語ることができる。回り道をして申し訳ない。


 ・


 庄三郎は灯体のコントロールバーに手を伸ばした。

 ライティングレールの上、祖父の手が何十年も動かしたその(・・)灯体は今も滑らかに動く。金属がかすかに軋む音。油は切れているかもしれない。しかしガタツキはない。年季の入った機構。

 首を振ってみる。斜めから、水平に。水平から、また斜めに。その光の照らす方向を脳内でシミュレーションしてみる。

 庄三郎の瞳の奥に確信の眼差しが宿った。


 一灯。美しさを引き出すための一筋の光。

 ただ一筋の正解()がある。

 ならば・・・逆もある。


  蛍光灯の直下。ホラーライティング。ピンぼけ。変顔。煽りアングル。パリコレメイク。ここ数日の撮影を庄三郎は振り返った。でたらめに条件を悪くして、力任せにブスを作ろうとした。

 全敗。

 なぜか。条件を適当に、でたらめに崩したからだ。でたらめには正解がない。正解がないから、庄三郎の手が勝手に正解を探してしまう。何をどう崩しても、手が、つい「良い瞬間」を拾ってしまう。


 だがもし、

 「でたらめ」ではなく、「計算された逆方向の『正解』」を設計したら?

 祖父の一灯が「美しさを引き出す」方向に光を当てるものだとすれば、

 その逆方向から光を当てれば、美しさは「引っ込む」のではないか?

 物理的に逆方向ではないだろう。だが、「引き出す光」が厳然として一筋存在するなら、「押し込む光」もどこかに存在する道理だ。


 闇雲に照明を崩さず、澄の顔のどのパーツが、どの角度から、どの光で魅力的に見えるのかを分析した上で、その逆を正確に突く光を当てる。

 「ブスに撮る」のではなく、「美しさを隠す」。 見えなくする。


 封印の光。


 庄三郎は一人うなずいて灯体を元の位置に戻し、また天井を見上げた。この確信を得るために、こうやって実家まで帰ってきたのだ。


 爺ちゃんのやり方で、爺ちゃんの逆をやる。自分に受け継がれた何かがもしあるとして、その使い方としてはいかがなものか、という気がしないでもない。が、


 ――やってやるぜ。じっちゃんの名に賭けて!(←)


 庄三郎はスマホを取り出して、澄にメッセージを送った。


 『もう一回、撮影に付き合ってくれ。今度はちょっと違うやり方を試す』


 ・


 翌週の月曜、再び大学は写真学科棟の小スタジオ。


「というわけで、今日は綿密に計算しておまえをブスに撮る」

 庄三郎の宣言に、春日澄は腕を組んで小首を傾げた。

「計算してブスに? 前みたいに、変顔させたりするとかじゃなくて?」

「ああ。変な顔を単に撮ってもダメだ。そんなもの、そもそも使い物にならない。今回は光を使って、おまえの魅力を、影に追い込む」

「なにそれ。なんかカッコいいじゃない」

「光が、おまえの美しさを汚して組み敷き、汚辱にまみれた姿を照らし出すんだ」

「カッコよくなかった。なんかさいてー」

「ふははは! 己が美しさを封じられ、なすすべもなく潰されゆく、底知れぬ恐怖を味わうがいい。背筋を凍らせ、無様に怯え、その身を震わせるのだ!」

「震えないわよ。ってか、それができるんなら最初からやんなさいよ」

 澄はふん、と鼻を鳴らした。

「で、どうするの? 化粧は? またへの字眉にでもする?」

「いや違う。今日はメイクは普通でいい」

「普通?」

「普通っていうか、お見合い写真として成立する範囲の地味め。妙に頑張るな。頑張ると、たぶんそこを拾う」

「拾うって」

「俺の手が。勝手に。美しいものとして」

 庄三郎がそう言うと、澄は二秒ほど止まった。

 「・・・・・・わかった」

 そんな事ある?とは聞かない。

 澄は鏡の前に立ち、髪を少しだけ下ろした。額の出し方を変え、リップの色を落ち着かせ、イヤリングを外す。澄の容貌は、華やかではなく、野暮ったすぎもしない、絶妙に「先方のお母さまが、一目で眉をひそめるでもなく、かといって満足そうにうなずくでも無さそうなライン」へと着地していった。澄のそういう調整力は、やはり匠だ。


「これでどう」

「うん、いいな。普通だ」

「褒めてないわよね」

「いやいや、今日の目的としては最大級の賛辞だって」


 背景紙の前に澄を立たせる。庄三郎は、銀色のフードのレンズをつけたカメラを一旦机の上に置いた。そしてライトスタンドに近付くと、両手を伸ばしてしっかりとスタジオライトの灯体とマウントを掴み、きわめて慎重に方向を決め始めた。たとえばほんの僅か右に振る、その僅かがうまく振れないなら、灯体をかすかに左からコンコンと叩いてずらす、そんなことまでした。

 主光は正面に近い位置から弱めに当てた。輪郭を立てない。背景はグレー。服装も地味。澄には顎を少し引かせるのではなく、逆にほんのわずかだけ前へ出させる。首の線がきれいに見える一歩手前。目線はレンズの少し上。視線の芯を外す。口元は結ばせる。が、意志が見えるほど強くはさせない。


 ファインダーを覗いた。

 シャッターを切った。


 プレビュー画面を覗き込んだ二人は、揃って「うーん」と唸った。

「どうかしら、これ」

「・・・七割ブス、ってところか」

 写っているのは、なんだか少し印象の弱い女の子だった。美人だという感じの華はない。パッと見で惹きつけられる圧もない。鼻筋も頬の線もうまく埋もれている。写真館の見本アルバムの端っこに、何となーく紛れていそう的な。

 だが、

 目の端に、澄んだ光がある。唇の薄い線の中に、妙に品の良さが残っている。顔全体は鈍い感じなのに、その下に「本当はこの子、もっと綺麗なんだろうな」という気配が、しつこく、実にしつこく生き残っている。

 七割のブスの奥底から、三割の「拭い切れないなにか」が、こうジワリと滲み出しているのだ。わざと消さずに残したほんの少しの目の下のクマも、なんだか、メランコリックな陰りのように見えなくもない。


 ため息をついて、庄三郎は自分の右手に視線を落とした。

 狙いすました、最高の封じるライティングをもってきても、無意識のうちに「マシな」春日澄を探り当ててしまっている右手に。

 レンズが澄の瞳に微かな光を捉えるように。彼女の凛とした顎のラインが完全に崩れないように。ほんの数ミリ、体が勝手にアングルを修正してしまっている。そういうことなのだろう。

「・・・くそっ」

 それは被写体の美しさを引き出そうとする祖父の血なのか。まるで呪いのように庄三郎の体を蝕んでいる何かか。

「私の顔面偏差値が高すぎるせいかしらね?」

 澄が冗談めかして言う。庄三郎は何も反応出来なかった。


 落とした視線の先にある手を、あらためてじっと見つめる。

 頭はブスに撮れと命じていたのに、カメラを持ち、実際にシャッターを切るこの手は命令を拒んだ。計算ずくで逆方向を考えてライティングし、美しさを封じにかかって、それでもこの手は―――。

 指先に古い感触がよみがえる。

 小さな手を、大きな手が包む。カメラの持ち方を教わった時の記憶だ。ファインダーの覗き方、シャッターの押し方。祖父の手は温かくて、いつも少し印画紙の匂いがした。

 『ほら庄三郎、こうやって構えて、な?』

 十五年以上経った今も、この手はあの時教わった通りに動いている。

――きれいに撮れよ。美しいものをもっと美しくだ。

 あの温かい大きな手が、今もこの指に添えられている。

 「・・・やめてくれ爺ちゃん」

 今はその正しさが、邪魔なんだ。


 庄三郎はカメラを下ろして、またため息をついた。

「このやり方じゃ、完全には無理だ」

 庄三郎の敗北宣言に、澄は少し不安そうな目を向ける。

「じゃあ、どうするの。この七割ブスの写真じゃ、向こうが妥協してくるかもしれないわ。もっとこう、決定的にお断りされるようなやつが欲しいのよ」

「・・・奥の手を使うしかない」

「奥の手?」

 庄三郎は、スタジオの隅にあるPCのモニターに視線を移した。


 祖父・秋山庄太郎は、デジタル処理などというものは一切行わなかった。そもそも、そんなものが存在する時代の写真家ではない。

 ならば、シャッターを切った後の世界――マウスとスタイラスペンが支配するデジタルの領域ならば、祖父の血は届かないはずだ。

「レタッチだ」

 庄三郎は、これまで足を踏み入れようとしなかった禁断の扉を見つめていた。

「俺の腕で、おまえを完璧なブスに加工してやる」

 かくして、二人の共犯関係は、ある種の禁じ手へと足を踏み入れることとなるのである。


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