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第三章 春霞

 朝、目が覚めてまず鏡を見る。


 習慣というか、点検確認。目の腫れ、肌の状態、髪のうねり。前の夜にどれだけケアをしていても、朝の顔はいつも、寝ている間に自分を裏切っている可能性があるから、だから確認。修正の必要があるかどうか。今朝は目の下にほんのうっすらとクマがあるけど、コンシーラーで余裕で消せる。問題なし。


 そして顔を作る。


 洗顔する。化粧水をなじませる。下地を塗る。ファンデーション。コンシーラーを目の下にちょんちょん。アイブロウペンシルで眉を描く。今日はほんの少しだけ角度をつける。柔らかいだけの印象にはしたくない日だから、アイラインは目尻をかすかに跳ねさせて。マスカラは上まつ毛だけ。ハイライトを鼻筋と頬骨の上に入れて、リップはベージュピンク。主張しすぎず、でも「すっぴん?」とは思われない、上品なお嬢さんの色。最後にチークをほんの少し。

 この「ほんの少し」、実際にはどこを狙うのか、そして正確に、ぴったりそこに持っていけるか。その加減と実行が、私は完璧だ。うん。自分で言うのもなんだけど。


 鏡の中の自分の顔を見る。

 今日の春日澄は、なかなかよくできている。


 「顔を作る」と言うと大げさかもしれない。でも化粧なんて、多かれ少なかれそういうものだ。私はただ、もう少しツメ(・・)ているとは思う。このファンデの色味なら、教室の蛍光灯の下でも肌が沈まない。この眉なら、正面から見ても横顔でも、印象が崩れない。とかとか。そして、それをきちんとやる。今日の私は、どんな顔を誰に見せるのか考えて。

 パーツごとの計算がちゃんと積み上がると、全体としてひとつの「春日澄」の顔になる。

 私は毎朝、この鏡の前で、春日澄を組み立てる。


 嫌いな作業というわけじゃない。いやむしろ、

 料理の盛り付けとか、部屋の模様替えとか、たぶんそういうのに近い感覚がある。きちんと仕上がるとちょっとした達成感もあるし。今日はうまくいったな、と。まあ、上手くいかない事もそうないんだけど。小さな手応えで朝が始まるのは悪くないし。


 今日は淡いベージュのニットにピンクブラウンのプリーツスカート。靴はチャコールのローファー。

 全身鏡の前で最終チェック。

 大丈夫。今日の私も、ちゃんとしてる。


 ・


 「すみちゃーん!おはよー!」

  大学に入ったところで、真奈が、西棟の方から手を振りながら、小走りでやってきた。一年次のとき英語のクラスが一緒で仲良くなった子で、明るくてよく笑って、思ったことを何でも口に出す。私とはたぶん正反対のタイプ。

 「おはよう真奈。一限?」

 「そー。もうねむくってねむくって・・・なんで一限にあの先生の講義、入れちゃったんだろ私・・・」

 「ふふ。がんばんなさいよ」

 このときの「がんばんなさいよ」は、ちょっとお姉さんっぽくて、でも偉そうにはなっていないトーンを狙ってる。

 「すみちゃんに言われると頑張れる気がするう」

 真奈はそう言ってくれた。


 真奈と別れて、二限の教室に向かう。

 北棟脇のペーブメントを歩いていると、すれ違う何人かがこちらを見る。見られるのには慣れてる。かすかに口角を上げる。視線は流さない。


 二限は西洋美術史概説。

 教授がルネサンスの肖像画について話してる。スライドにホルバインの絵が映っている。

 「肖像画というのは、描かれる側と描く側の、いわば『共犯』なんだね。モデルは理想の自分を残したい、画家には表現したい物がある。そのせめぎ合いから、肖像画が生まれるわけです」

 ノートを取る手が、ほんの一瞬だけ止まった。


 昼は学食。真奈と向かい合って、日替わり定食。

 「ねえねえ、すみちゃん。昨日のインスタのストーリー見たんだけど、あれ何かフィルターかけてるの? すっごいきれいだった」

 「あれ? 普通に撮っただけだよ」

 もちろん嘘。アプリは三つ使っている。一つ目で全体の色味を調整して、二つ目で肌の質感を――加工とはばれない範囲で――均して、三つ目でハイライトの光り方だけを微調整する。ポイントは「スマホのカメラがたまたま良い感じに撮ってくれました」の線を越えないこと。越えた瞬間に「加工」に見える。加工と思われたら終わりで、それは只の「ああ、作ってるのね」になるし。

 「そっかー。すみちゃんはいいなー。何もしなくても写真映えするんだもん」

 「そんなことないよぉ」

 困ったように笑う。嫌がっているようには見せない。このやりとり、たぶんもう二桁はやっている。聞いているほうも、答えを求めているわけじゃない。

 「そんなことないよぉ」いつもの返事で、会話は完了する。

 そう、いつものやりとり。いつまでやるやりとりかな。


 ・


 午後の講義が終わって、キャンパスのベンチに座ってスマホを開いた。

 母からのLINEが来ていた。


 『澄ちゃん、お写真いつ頃お送りできそうかしら。先方のお母さまがお気にされてるみたいなの』


 お見合い写真。

 「先方のお母さま」。お相手ご本人ではなく、お母さまが気にするのが問題なんだ。なんだかな。

 お相手はひと回り以上年上だという。名前も、正確には覚えてない。覚えないことにしている。

 母は悪い人じゃない。悪い人じゃないけれど、「いいご縁だから」と言われると、その「いい」は誰にとってなのかな、とは思う。


 『もう少しだけ待って、今週中には送るから』


 短く返信して、スマホを鞄に入れた。


 春日の家は、地元ではそれなりに名前の通った家だ。祖父の代からの付き合い、父の代からの義理、そういうものが「縁談」という形になって私の前に置かれることになった。お相手はひと回り以上年上、父の親戚の紹介らしい。芸能関係の仕事をしている人だそうだ。覚えないことにしている相手について、なのに、こうして少しずつ、話せる事を持たされていく。


 結婚したくないのかと聞かれれば、したくないに決まっている。相手がどうこうではなく、自分の人生を、二十という歳で知らない人間に預ける気持ちになどなれない。

 でも家に、父に母に、正面から「嫌です」と言えはしない。だから搦手を使う。


 お見合い写真の第一印象で、終わらせるつもりだ。先方が「この女はないな」と思ってくれれば、話は自然に消える。直接断るより角が立たないし、誰も傷つかないし。


 あの男――秋山庄三郎に頼んだのは、正直なところ、「なんかまともな写真なんて撮れなさそう」と感じたからだ。安くつくし。暗室で授業をサボって寝転がって腹を掻いているような男が、きれいに撮れるわけがない。ちょうどいい。適当に撮ってもらって、「これが精一杯の写真です」と出せばいいだろう。そう考えたから、だったのに。


 まさか、「ブスに撮る」に、あんなに手間をかけるなんて。


 ・


 夕方。自分の部屋に帰って、着替えてベッドに腰を下ろす。

 今日のインスタを確認する。いいねが七十二。まずまず。ストーリーのビュー数もいつもどおり。友達から「かわいいー!」のコメントが並んでいる。ひとつずつ、ありがとう、と返す。ハートのスタンプを押す。


 カメラロールをスクロールした。

 昼に真奈と撮った写真。加工前のものと、インスタに載せた加工後のもの。加工後は色味が整って、肌がなめらかで、光がきれいに回っている。加工前は蛍光灯の光で少し肌が青緑っぽいし、目の下にうっすら影ができている。

 加工後のほうが「いい」。いい、というのは、つまり私が思う春日澄に近い。

 ふたつの写真を交互に見くらべてみる。


 ふと、昨日の、あの写真が頭をよぎった。

 写真学科の小さなスタジオ。カメラの小さな背面モニターに映っていた、最後の一枚。

 あれは、絶対に私の知っている私じゃなかった。あんな顔を、私は作ったことはない。眉の角度も、目の力も、口元の引き方も、全部あいつに言われるまま。その顔は素晴らしく透明で、でもとても強くて、凛として輝いていて――。

 あれは確かに私の顔だった。だけど、私が知っている、ありとあらゆる私の顔の、そのどれでもなかった。



 スマホの画面に目を戻す。加工後の、今日の私の顔。いつもの春日澄。うん。こっちがちゃんとした私の写真。

 アプリを閉じて、スマホを裏返しにして置き、天井を見上げる。


 まともな写真が、まだ手元にないことは問題かな。まともな・・・つまり、ちゃんとブスに撮れたお見合い写真が。母にはもう少し待ってと言ったけど、あまり引き延ばすわけにもいかない。「先方のお母さま」とやらがお待ちかねらしいし。

 昨日の撮影では結局、一枚も使えそうなものが撮れなかった。あの秋山くん、どうしてあんな、何枚撮ってもきれいに写してしまうんだろう。意外だった。暗室でお腹を掻いて寝転がっていたような人なのに。


 でも、とっとと、「ちゃんとしたやつ」を撮ってもらわなきゃ。

 方法を変えよう、と彼も言っていた。別のやり方を考えないと。

 明日、早速もう一度連絡してみよう。今度こそブスに撮ってもらう。今度こそ、ちゃんとブスに。もうブッスブスに。


 スマホの画面がぱっと光った。

 真奈からの通知。今日の写真のコメント欄に「すみちゃんかわいすぎて隣にいたくない笑」。

 少しだけ笑って、ほんの少し目を閉じる。本当の意味でかわいいのは、やっぱり真奈の方だ。何もしてないのに、そのままで。そして目を開けて、いつもの返事を返した。

 「そんなことないよぉ」


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