第二章 シャッター
翌日の午後。写真学科棟の三階、普段は使われていない小スタジオに、秋山庄三郎と春日澄は向かい合っていた。
小スタジオ、といっても、実態はただの空き教室に、背景紙のスタンドと照明機材がいくつか突っ込んであるだけのような部屋だ。正規のスタジオ撮影実習は、隣の大スタジオでやっていて、こちらには誰も来ない。まじめに授業をやっている音が聞こえてきて、サボりの庄三郎にとっては、なんだか少し居心地が悪い。
庄三郎は、カメラに、銀色のフードの付いた、大きな眼玉そのもののようなレンズをくっ付け、それをストラップで首からぶら下げたまま、脳内に、「ブス撮影計画(仮称)」を展開していた。
写真というのは、きれいに撮るためのセオリーが山ほどある。本音を言うとわりといらん程ある。で、あるならばそいつらを全部ひっくり返せば、理論上はブスに撮れるはずである。
ここで、我らが主人公が、いかにしてブス写真をモノしようとしているのか、撮る為の作戦について述べておこう。真摯に戦略目標を達成すること、だけが起こるべき事だ。出来ませんでは良心が無いからね。
一)被写体――要は女の子― を蛍光灯の直下に配置する。
上から落ちる光は目の下に影を作り、顔色を悪くする。
二)背景には雑多なものを入れる。背景紙ではなく、壁のシミとか
パネルの継ぎ目とか。ごちゃついて汚らしく見える。
三)表情は「真顔」を指定。笑顔は人を三割よく見せるので、当然封じておく。
――うーん完璧だ、実に完璧だ。と庄三郎は思った。セオリーの逆をやれば、セオリーと逆の結果が出る。それもまたセオリー。写真とは畢竟光学である。物理である。フィルムの時代には化学でもあった。つまり要するに科学だ。正しい手順を正しく展開すれば、正しい結果に至る。
ヨシ。
なお、この自信がおよそ十五分後に木っ端微塵コになることを、作者は知っている。読者のみなさまも今知った。庄三郎はまだ知らない。知らないほうが幸せ、という良く言うやつだ。何を見てヨシって言ったんですか。
一方、澄のほうは澄で、ちゃんと準備をしてきていた。頼んでおいて投げっぱなしなだけでは、やはり良心が無いからね。
服装は地っ味~なグレーのカーディガンに、何の変哲もない白いブラウス。髪も昨日の暗室とは違ってひとつに結んであって(おばちゃんくくり)、耳が出ている。化粧も薄い。薄いというか、わざと野暮ったくしてある。ファンデーションの色がなんか暗い。眉が微妙に太く描いてある。頬は、少女が照れたように染め・・られているわけもなく、田舎者の女の子が素朴でへったくそな化粧をしてるような・・・昔話の絵本に書かれた「丹波の園部のおもよどん」のほっぺみたいになっていた。アレだ、小さい子供が、母親の化粧道具をいたずらに持ち出して、失敗して両頬に赤い「の」の字を描いてしまう、アレの印象に近い。
澄なりの「ブスに写る努力」である。
「・・・それ、自分でやったの?」
「当たり前でしょう。こんなこと誰に頼むっていうのよ」
庄三郎は少し複雑な顔をした。がまあ、何も言わなかった。
二人とも正しく同じ方向を向き、同じ結果を目指している。作戦実施前は、つまりこんな感じであった。
にもかかわらず、結果は、二人の思惑とはまったく正反対のところに行ってしまうことになる。
では、そのプロセスを詳細に見てみよう。0.05秒よりはだいぶかかっている。
・
まず最初の数枚。
初っ端、まずは手堅い所から手を付ける。突いてから考える飛車先の歩というやつである。えいっ。庄三郎は計画通りに撮影を開始した。蛍光灯の真下、澄に「とりあえず真顔で、こっち向いて」と指示をする。背景は壁のシミが入る角度。ポートレートのセオリーを全部ひっくり返した、隙のない完璧な布陣。
シャッターを切った。
バシャリッ、ガコッ! シャッター幕が走り、ミラーレスではない一眼レフの、重いクイックリターンミラーが、捕まえた光を捩じる音が空気を震わせる。
そのまま数枚撮ってみる、そしておもむろに、庄三郎はカメラの背面モニターを確認した。
・・・庄三郎は三回瞬きをした。念のため一秒おいてもう一度目をつぶり、また開いてモニターを見る。
「・・・」
綺麗に撮れていた。
普通に。なんというか、まあ、どう見ても普通に綺麗に撮れていた。蛍光灯の下で、あの野暮ったい服で、なんの色気もない髪型で、真顔で。なのに、だからか、写真の中の春日澄はごくごく自然に端正だった。
「どう?」
澄がモニターを覗き込んで、眉をひそめた。
「きれいに撮れてるじゃない」
「うん、まあ、元がいいからな」
このとき、庄三郎は本気でそう思っていた。春日澄はどう見ても美人である。蛍光灯の下でド真顔でも美人に見えるのだ。まあ、単純に被写体の地力が高いからだろう。条件をもっと悪くすればいいっかー。
「もっとひどく撮って。これじゃ全然ダメ」
「わかってる。次はもっと条件を悪くする」
この時点の庄三郎は、まだ何も疑っていなかった。人間は、合理的な言葉で説明がつく限り、モノゴトをまずそれで処理しようとする。正常性バイアスというやつである。ちょっと何かが気になったからといって、一々引き返すようなのは、8番出口をプレイ中のプレイヤーくらいなのである。「被写体がおきれいだから」は、すっと腑に落ちる合理的な説明だった。
・
さて、ここから先が問題。
庄三郎は本気を出した。写真をちゃんと知っている人間だからこそ思いつく、ありとあらゆる「ブス条件」を投入し始めた。条件を投入して試行。なんだか作戦というより実験である。
ここからは、その条件と結果をずらずらと並べてみる。
実験その一。照明を真下から当てる。
ホラー映画でおなじみの、あるいは、諸学生達の、夏の嬉しはずかし肝試しでおなじみの、懐中電灯を顎の下から当てる、アレの照明版だ。人間の顔は上から光が当たる前提でできているので、下から照らすと目の上に影が落ちる。鼻が巨大に見え、全体的に「幽霊か悪魔か」という感じになる。そうなるはずである。普通はなるの。懐中電灯を手渡された時、みんな実際一回はやったことがあるでしょ。
シャッターを切る。モニターを見る。
・・・陰影が劇的になって、映画のワンシーンみたいな写真が撮れていた。頬骨のラインがくっきり出て、目元に深い影が落ちて、明暗のコントラストが強くビシリと強調され、それが妙に神秘的な雰囲気を醸し出している。何かヒトというより異界の女神像みたいな。
「・・・なんかフィルム・ノワールみたいな影だな」
庄三郎はモニターに向かってつぶやいた。澄が横から覗き込んで、首をかしげる。
「フィルム・ノワールって、何?」
「それか、必殺仕事人・・・いや、いい。次」
実験その二。わざとピントを外す。
ポートレートの基本は、ピントを目に、瞳に合わせること。逆にピントを微妙に外せば、ぼやけた印象の、なんだかしまりのない、だらしない感じの写真になるはずだ。
シャッターを切る。モニターを見る。
モニターに表れた画像はソフトフォーカスだった。ピントが甘くなった分、肌の質感がふわりと柔らかくなって、全体にうっすらと光のベールがかかったような写真になっている。八十年代のアイドル写真のような、懐かしい美しさ。「紗がかかっている」というやつだ。フィルターなんてつけてないぞ。
「これ、加工したでしょ」
「してないよ。撮ったそのまま」
「嘘」
「嘘じゃないって」
実験その三。澄に変な顔をさせる。
もはや使い物になる写真が撮れるとも思わないが、ヤケになってきた。
白目、アヒル口、頬をめいっぱい膨らませる。澄は真面目な顔で注文通り変な顔をやってくれた。それは一体真面目な顔なのか変な顔なのか。庄三郎は連射モードにして、とにかく撮りまくった。
結果としては、変な顔の写真は、たしかにブスだった。白目の写真は白目だし、アヒル口はアヒル口だ。成功、と言いたいところだけど、さすがにそんなに露骨なシロモノを、お見合い写真でござい、と相手方に届けるわけにもいかない。あっかんべー写真や中指写真を送りつけるようなものだ。そして問題は少し別のところに発生していた。
連射のコマの中に、変な顔をする「途中」と「戻る途中」の瞬間が、何枚もある。白目から普通の目に戻る途中の、半分笑っている瞬間。頬の空気を抜く直前、口元が緩んだ瞬間。
それがいい。
ふざけている最中の、ガードが落ちた素の表情が、妙に魅力的だった。いや、庄三郎が「こう撮ろう」と意図して画を決めた写真はちゃんとブスだ。変顔が、人の顔というより、笑える物体として写っている。だが、意図せず撮れてきたコマはちがう。何か、圧倒的にいい。
澄は、庄三郎の横へ来て撮れた自分の写真を見ていた。モニターをスクロールさせて変顔のコマを飛ばし、途中のコマで指を止める。
「・・・誰、この子」
それは春日澄だ。ただし、普段の春日澄ではなかった。普段の、澄の美しさをきちんと載せた顔ではなく、意図的に変顔を作った顔でもない。「何か」ではない一瞬の、素の春日澄だった。
このあたりで庄三郎は、状況を微妙に悟り始めた。
実験その四。最悪のアングルから撮る。
カメラの位置を下げて思いきり煽る。鼻の穴は見えるわ、二重顎になるわ、人間が最もブスに見えるアングルのひとつ。
シャッターを切る。モニターを見る。
顎のラインが下から際立って、むしろ凛として見えた。見上げる構図のせいで、不思議な威厳と重厚感と品格がある。
「・・・なんでぇ」
「なんだか、物理法則に反してない?」
・
庄三郎は手を止めた。
澄は椅子に座ってペットボトルの水を飲んでいた。実験撮影に付き合わされて、少し疲れた顔をしている。
庄三郎はカメラのモニターをもう一度、最初から見返した。
何十枚の写真がそこにある。蛍光灯の真下、ホラーライティング、ソフトフォーカス、変顔、煽りアングル。条件はバラバラ、庄三郎が適当に「悪い条件」に組んだ写真ばかりだ。
なのに、全部どこかいいのだ。
いや、いい、というのは語弊がある。条件は確かに悪い。照明は無茶苦茶だ。構図もハズしている。だが、写された画のほうが勝手に「正解」を見つけてしまっている。はっきり言おう。庄三郎の手が、頭の指示と違うことをしていた、その結果の記録だ。
シャッターを切るタイミング。ほんのわずかなアングルの差異。無意識のうちに「いい瞬間」を、庄三郎の指が、手が、腕が選んでいる。
庄三郎はライトスタンドに手をかけた。ライトの角度を変えようとして、手首が止まる。
脳裏に、声がよぎった。
子供の頃。祖父の仕事場。
祖父が、銀色のフードのレンズをつけたカメラでモデルを撮っている。横でアシスタントが、モデルの鼻の下にできた影を消そうとレフ板を持ち上げた。祖父がそれを手で制した。
「――消さないでいいよ。鼻の下に影があるのは自然だ。影があるから顔が顔に見えるんだから」
何気ない一言だった。庄三郎が四つか五つのときの記憶。意味などわかっていなかった。ただ爺ちゃんが何か言って、お兄さん(アシスタント)がレフ板を下げた。それだけの光景。
だが庄三郎の指は、その声を覚えていた。
照明を「悪く」しようとしているのに、ライトの角度を動かす手が、指が、意識の外で、特定の位置でするりと止まる。止まった位置が、正しい位置だ。鼻の下に自然な影が落ちる位置。頬骨のラインがいちばん綺麗に出る角度。そしていつの間にか、庄三郎の手振りが澄の立ち位置を誘導している。それが導くのは澄ではなく、あの灯だ。祖父がいつもモデルに当てていた、斜め上からの一灯のような。いつの間にか、そんな位置にある天井の蛍光灯。
指が、手が、腕が、脚が、体が、「正解」を知っている。それを辿っている。
庄三郎は照明のスタンドから手を離した。
「・・・いったい、なんだ。」
小さな声だった。澄には聞こえなかっただろう。
自分の撮影技術だ、あるいはひらめきだ、才能だ。と思えたなら、まだよかった。才能ならば自分の意志で使える。使わないこともできる。
だがこれは、意志に反している。そんなことをしたいとは露ほども思っていないのに、手が勝手に動き、そして勝手に止まる。頭がブスに撮ろうとしているのに、その指が綺麗に撮ってしまう。
庄三郎の中に、「これは俺がやったのか?」という感覚が、はっきりとした形で浮かぶ。
・
「・・・ちょっと方針変えるぞ」
庄三郎が言った。澄が水のペットボトルを置く。少し疲れてなんだかぽやっとしていた顔を上げる。
「変えるって、どう変えるの?」
「ブスに撮るのは・・・たぶん無理だ。少なくとも今日は」
正直にそう言った。理由は言わない。「俺の手が勝手に綺麗に撮ってしまう」他人に説明できるような事じゃない。
「なにそれ。じゃあ、どうするの?」
「逆に振るんだ。綺麗だけど嫌な女、を撮る。美しすぎて、高圧的で、近寄りがたくて、見た人間が『この女はちょっと・・・』と思うような写真」
澄は、少し首をかしげ、何やら考えていたが、
「悪役令嬢ってこと?」「ちがうわ!」
(・ω・)
「婚約破棄シーンになる前に、婚約自体を拒否したいトコだわね」
・
庄三郎はライティングを変えた。
今度は「悪い条件」にするのではなく、「ある種の美しさを十全に引き出す意図」をもって設定した。光をやや硬く、コントラストを強めに。少し首を上げた澄に顎を引かせ、視線をレンズのほんの少し下に向けさせる。見下ろすような角度。冷たい目線。氷のような、突き放すような表情。
「もう気持ちだけ顎をひいて、もうちょっと目を細めて。・・・少し睨むように。そう、口は閉じて。それだ!」
シャッターを切った。
―バシャリッ。
モニターを見た瞬間、庄三郎の思考が止まった。
綺麗だった。
澄んでいて、強くて、凛としていた。
見た人に「この女はちょっと」と思わせる、嫌な女の写真になるはずだった。高圧的な目線。突き放すような角度。近寄りがたい空気、役名はイザベラ、みたいな。
庄三郎が狙ったものは、確かに実際に全部そこにある。
だが。
その全部が「この女はすごい」になっていた。
冷たさが清冽さに変わっている。高圧的な目線が、凛とした意志の強さに見える。突き放すような角度が、媚びない品格に化けている。僅かに持ち上がって見える口角が、気高い微笑みさえ伝えていた。庄三郎が「嫌な女」を撮りにいって、レンズの向こうに現れたのは、嫌な女ではなく。―――ただただ、圧倒的に美しい女だった。透明な美しさが、世界を従えている。
今日いちばんいい写真だった。それまでの何十枚を、一枚で全部超えていた。余裕で。
澄が隣に立っていた。いつの間にか庄三郎のすぐ横まで来て、モニターの中の自分の姿を見ている。
数秒間、二人とも黙っていた。
庄三郎は、その数秒間の澄の横顔を、時が経った今も正確に思い出せない。ただ、息を呑む、って言うけど、あれは比喩じゃないんだ。ということだけを、その時に理解した。横にいた澄が、本当に息を止めている。
「・・・これは」
澄が口を開いた。
「・・・使えないわよ」
「・・・ああ。使えないな、これは」
庄三郎もそう返した。返しながら、モニターの中の写真から目が離せなかった。
・
それから三十分ほど、二人はもう少し粘ってみた。
だが、結局「使える」写真は一枚も撮れなかった。庄三郎がシャッターを切るたび、写真は何かしら良い方に転ぶ。もうライトを左から右から、後ろから前から照らしてみたり。とんでもないローアングルから撮ってみたり。いっそ、カメラをスカートの中に突っ込んで、盗撮写真でも撮ってやろうかなと思ったくらいである。無論、そんなものはお見合い写真でもなんでもない。いやその前におまわりさんこっちです。
澄は段々と無口になり、庄三郎は段々と不機嫌になった。不機嫌、というよりも、怖かったのかもしれない。
「・・・今日は一回やめよう」
「そうね」
澄はカーディガンの襟を整えると、スタジオ隅の机に置いてあった自分のトートバッグを手に取った。
「別の方法を考えなきゃ。これじゃ何枚撮ってもダメだもの」
「・・・ああ」
「じゃ。また連絡するわ」
澄はそれだけ言って、スタジオから出て行った。振り返らなかった。
ドアが閉まり、廊下を遠ざかる足音が消える。
庄三郎は一人、パイプ椅子に座ったまま、カメラのモニターをスクロールしていた。
今日撮った写真が全部入っている。蛍光灯の澄。ホラーライティングの澄。ソフトフォーカスの澄。変顔の澄。変顔の途中の澄。煽りアングルの澄。
全部消そうと思った。
今日の写真は全部失敗作だ。失敗作は消す。
親指が、画像削除ボタンに触れる。
一枚目から順に消していく。蛍光灯の下の、普通に綺麗な澄。消した。ホラーライティング、消した。ソフトフォーカス、消した。変顔、消した。途中の素の表情・・・少し迷って、消した。煽り顔、消した。
最後の一枚が残った。
凛として、世界を総べる澄。
嫌な女を撮ったはずの、今日いちばんいい写真。
庄三郎の親指が止まった。
消せなかった。
脳裏に祖父の声が聞こえたわけではない。今度は何も聞こえなかった。ただ指がそう動いた。そして動かなかった。
「・・・なんでぇ」
庄三郎はカメラの電源を切った。
モニターが消えて、暗い画面に自分の顔がうっすら映った。
消さなかった。
理由はわからない。




