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第一章 依頼

 写真部の暗室は、もう何年も暗室として使われていなかった。


 大学側が「デジタル移行に伴い暗室設備を段階的に廃止」という、お、ようやっと片付けか、といった感じのメールを全学に送信したのが三年前。以来、引き伸ばし機は埃をかぶり(いや、その前から被りがちだったが)、薬品棚は空っぽになり、イーゼルマスクは建築科の誰かが定規代わりにパクっていき、だがまあ、赤いセーフライトだけが球切れせずに、律儀に点灯し続けている。


 そして、その元暗室で、秋山庄三郎は今、腹を掻いていた。

 正確には、寝転がって腹を掻いていた。もっと正確に言えば、三限の「スタジオ撮影実習Ⅱ」をサボって寝転がって腹を掻いていた。ボリボリと。

 これだけ書くと、どうしようもない大学生のように見える。が、まあ実際どうしようもない大学生なので仕方ない。ただし、彼がどうしようもなくなった経緯には、少しだけ同情の余地がある。


 秋山庄三郎。写真芸術学科二年。

 伝説のグラビア写真家・秋山庄太郎の孫。


 ――これだ。この二行目がすべての元凶である。

 入学式の日から「秋山庄太郎のお孫さん?」と聞かれた回数は、もう数えていない。写真学科の教授陣は庄三郎の顔を見るたびに、少年のように目を輝かせて「きみのおじいさんのライティングはね」と語り始める。学生の中にも何人か、庄太郎のファンがいた。「花と女性の秋山庄太郎先生のお孫さんなんですよね」と言われるたびに、庄三郎は曖昧に笑った。

 いや、嫌いなわけじゃない。祖父のことは好きだ。

 アトリエに遺された、使い込まれた何十本ものレンズも、斜め上からズバリと光を当てる為の、あの率直なライティング機材も、何百枚ものコンタクトシート(ベタ焼き)もみんな、好きだった爺ちゃんの思い出として愛おしい。暗室にわけも分からず突入して、プリント中の印画紙をダメにして怒られたことも、停止液の酢酸の匂いが嫌でぐずったことも、幼い頃の記憶としては、なかなかかわいいものだ。


 ただ、「祖父の代わり」にされるのはまっぴら御免だった。

 秋山庄太郎は花と女性を撮った。庄三郎は廃線と古い駅舎を撮りたい。錆びた信号機、草に埋もれたホーム、誰もいない待合室の椅子。人間のいない風景に、人間がいた痕跡を見つけること。それが今の庄三郎にとっての写真だった。

 だから人を撮るのは・・・まあ、正直苦手だ。

 そして、スタジオ撮影実習Ⅱは人物ポートレートの授業だ。ってことは、サボる理由としては十分ってものだろう。庄三郎はそう思うことにしているわけだった。

 赤いセーフライトの下で、庄三郎はうっすら目を閉じた。今日の午後は大学の裏手にある廃倉庫を撮りに行こうと思っている。あの錆びたトタン屋根に傾き切った西日が当たると、ちょっとなかなか無い色が出る。そのことだけ考えていれば、今日は平和に終わるはずだった。


 ・


 暗室のドアが開いた。


 庄三郎が目を開けると、赤い光の中に女が一人、立っていた。

 ――いや。

 作者としてここは正直に書かなければならない。庄三郎の目に映ったのは、「女が立っていた」というなんでもない光景ではなかった。

 逆光だった。廊下の蛍光灯を背にして、暗室の赤い光の中に踏み込んできたその女は、輪郭だけが白く浮かんでいた。顔の造作は見えない。ただ姿勢がよかった。背筋がすっと伸びて、顎の角度が自然で、立っているだけで何か空間を支配するような佇まいがあった。

 写真をやっている人間には、こういう瞬間がある。ファインダーを覗いていなくても、「いま撮ったらいい画になる」と体が反応する瞬間。庄三郎の指が、そこに存在しないシャッター釦を押して、一瞬だけ動いた。

 一瞬だけだ。

 すぐに指を握りこんで、庄三郎は寝転がったまま言った。

「・・・ここ暗室なんだけど」

「知ってる。写真部の部室でしょう」

 声は涼しかった。高くもなく低くもなく、ちょうど人に聞かせることを意識した声。

「部室じゃなくて暗室。・・・元・暗室。まあ、いまはただの物置」

「じゃあ物置で寝てるのね、あなた」

 女が一歩踏み込んで後ろ手にドアを閉めると、赤い光が顔を照らした。

 端正な顔だった。いや、端正という言葉だと少し違う。整っているのはまあ、それはそうとして、その上に何層もの「意図」が乗っている顔だった。眉の形、肌の質感、唇の色、すべてに計算がある。だがその計算を感じさせないのが、またさらに、の凄さだ。自然に見える。しかし自然ではない。庄三郎はそういうことがわかった。人物写真は苦手とはいえ、これでも小さい頃から、光と陰影はずっと読んできている。

 たとえば、自然光に見える照明(ライティング)は、自然なのではなく、自然に見えるように組んだのだ。この女の顔は、そういう顔だった。

「秋山庄三郎くんでしょう。写真学科の」

「・・・誰から聞いた」

「学科事務室。『暗室で誰かサボってると思うわ。多分秋山くんとか』って」

 事務の山岸さんだ。余計なことを。庄三郎は腹を掻くのをやめて、のろのろと体を起こした。

「それで、何の用?」

 女は暗室の中を一瞥した。埃をかぶった引き伸ばし機、空の薬品棚、赤いセーフライト。それらを目に入れた上で、庄三郎を見下ろした。庄三郎はまだ床に座っている。

「お見合い写真を撮ってほしいの」

「・・・は?」

「お見合い写真」

「いや聞こえてる。なんで俺に」

「ここで撮って貰えば安いから」

 身も蓋もなかった。

「ここの部員に、練習台として撮って貰えば、殆どプリント代だけでいいんでしょ」

 庄三郎は一瞬、何か気の利いた返しを考えようとしてやめる。

「写真館行けよ。一万か二万だ。十分安いもんだよ」

「お金の問題だけじゃないの。あのね、正確に言うと、」

 女は暗室の壁に背をつけた。赤い光の中で、その横顔は妙に映画的である。庄三郎はまた、存在しないシャッター釦をピクリと指が押すのを感じた。

「お見合い写真を、ブスに撮ってほしいの」

 ・・秋山庄三郎は、自分が聞き間違えていないことを、三.八七秒程かけて確認した。


「・・・ブスに」

「ブスに」

「お見合い写真を」

「お見合い写真を」


 沈黙が降りた。赤いセーフライトがジリジリと微かな音を立てている。


「・・・ブスに?」

「ブスに。」

「お見合い写真を?」

「お見合い写真を!!」


 ・


――えーっとそうねぇ、カラスがだいたい3羽くらい飛んだと思いねぇ。


 ・


「・・・なんでぇ」

「結婚したくないから!」

 女はそう言って、庄三郎を睨んだ。

「家が決めた縁談なの。相手はひと回り以上年上。断れない事情があって、でも、そんな人と結婚するくらいなら――」

 そこで女は言葉を切って、少し笑った。笑ったが、目は全く、ぜんぜん笑っていなかった。

「写真館に頼んだら綺麗に撮られるでしょう。プロだもの。でも私は綺麗に撮られたくない。むしろ最悪に撮られたい。先方が写真を見て『この女はないわー』って思うくらい、ひどく撮られたい。でもそんなの写真館に頼めないし、知り合いのカメラマンに頼んだら話が漏れるし」

「それで、どこの馬の骨ともわからない写真学科の学生に」

「どこの馬の骨かは知ってる。秋山庄太郎のお孫さんでしょう」

「・・・それ関係ある?」

「ないかもしれない。でも写真のことがわかる人じゃないと、この依頼は引き受けられないと思って」


 それはそうだった。「わざと、ちゃんとブスに撮る」というのは、「綺麗に撮る」より実は結構難しい。ただ下手に撮ればいいわけじゃない。鼻の頭をつぶしてブタ鼻にして、目尻にセロテープでも貼って撮ったりすれば、それはブスに、というか奇妙な顔は撮れるだろう。が、そんなものを撮れと言う話ではないわけだ。お見合い写真として先方に提出するのだから、体裁は整っていなければならない。「ちゃんとしたその人の写真」でなければならない。その上で、見た人間が「この女はない」と思うように撮る。それはもう実に、技術がなければできない仕事だ。ううむ。

 庄三郎は頭をかいた。

「報酬は」

「いくら?」

「・・・五千円」

「いいわよ」

 即答だった。金の問題とか言った割に、金を出すことには躊躇がないようだ。いいとこの子なのだろうか。縁談だの何だのという話も、それならつじつまが合う。

 庄三郎は立ち上がった。赤い光の中で、女と向かい合う。

 近くで見ると、やはりこの女の顔は完璧に管理されていた。一分の隙もない。SNSで一万人のフォロワーがいると言われても驚かない顔だ。この顔をブスに撮る。もしや中々の難題かもしれん。

「一応聞くけど、名前は」

「春日 澄」

「カスガ」

「スミ。水清く澄み切って、の澄」

 ――春霞。

 そんな言葉が庄三郎の頭をよぎったが、深くは考えなかった。

 春日澄は暗室のドアに手をかけて、振り返った。

「明日、空いてる?」

「午後なら。三限サボるから」

「・・・それはサボらなくていいんじゃないの」

「どうせスタジオ撮影実習だ。人物ポートレート。やりたくない」

 春日澄は、少しだけ不思議そうな顔をした。

「人物ポートレート、撮りたくないのに、引き受けてくれるの?」

 庄三郎は小さくうなずいた。ブスに撮ってくれという依頼は、ある意味で庄三郎にとって理想的だった。綺麗に撮る必要がない。撮った写真を、祖父の写真と自動的に比べられたりもしない。ただ下手に撮ればいい。

 それは、人を撮っているのに人を撮っていないのと同じだ。

 少なくともこのときの庄三郎は、そう思っていた。

「まあ、三限が五千円になるなら」

 春日澄は小さく笑った。今度は目も笑っていた。ただし、その笑い方もまた完璧にコントロールされたもの、だったかも知れない。


 暗室のドアが閉まり、赤い光が戻ってくる。庄三郎は床にもう一度座り込んだ。

 明日の午後。お見合い写真を、ポートレートを撮る。

 ――いや、ブスに撮るんだから、ポートレートとも言えない。何だろう。逆ポートレート? アンチポートレート?

 くだらない言葉遊びを頭の中で転がしてみる。そして、庄三郎は再び腹を掻き始めた。

 明日は、廃倉庫のトタン屋根は撮れない。

 西日が、無い色を出す時間、俺はどこかの女をブスに撮っている。

 うん。ちょっとブンガクかもしれん。と庄三郎は思った。なんかこう中也っぽい、そうじゃない?


 そして、ちょっと面倒なことを引き受けちゃったかなあ。とも思うのだった。


 面倒だと思ったわりに、断ろうという考えが最初から頭になかったことに、庄三郎は気づいていなかった。


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