第八章 撤収
終演後のロビーは、人と花と声でいっぱいだった。
観客が出口へ向かってゆるゆる流れて、その両脇に、衣装から着替えた出演者たちが並んでいる。知り合いを見つけるたびに手を振り、頭を下げ、差し入れやプレゼントを受け取り、写真を撮られる。舞台の上では誠実な恋人を裏切っていた男が、いまは懇意らしい女性から愛だけを束ねたような花束など受け取っている。役というものはまあ、関係者扉の一枚裏側くらいのところに置いて出て来れるというものだ。
「すみちゃーん!」
人垣の向こうで、真奈が跳ねた。
澄と一緒に選んだ、ライトブルーのブラウスにレモンイエローのフレアスカート。小柄な真奈によく似合う、明るいけれど子供っぽくは見えない組み合わせである。本人は買う前からこの服を「お見送り勝負服」と呼んでいる。誰と勝負するのかは謎だ。
舞台化粧は落としている。それでも目元には名残があり、額には汗で張りついた幾本の髪。顔中に、舞台を終えたばかりの熱が残っている。
「見てくれた!? どうだった!? 最後までちゃんと見てた!?」
「見てたわよ」
「どうだった!?」
「すごくよかった」
「ほんと!?」
「ほんと。真奈、あんな顔できるようになったのね」
「えへへへー!」
真奈がぱあっと笑う。
ついさっきまで美影だった女とはもう全く思えない、屈託の無い笑顔。
そのまま、澄と並ぶ嶺と庄三郎にも声をかける。
「藤堂さん、ですよね! はじめまして! 小夏真奈です! いろいろ、教えて、手助けしてくださってありがとうございました! あと、ロビーのお花も! わたし、ああいうの初めてで、びっくりして! すごく嬉しかったです!」
「し、秋山くんも、今日は来てくれて、見てくれて、本当にありがとう!」
真奈はぴしっと頭を下げる。
「おう。よかったよ、真奈ちゃん」
「ほんと? ほんとによかった? どこがよかった!?」
「感想をいじわるな教師みたいに突っ込んで聞くなよ。ええと、最後、肩越しに顔を上げるところだな。やっぱり」
「最後の顔! そっか、あれって、どんな顔してた? わたし」
「って、自分でわかってないのか」
「わかんない。あの時、日向ちゃんの肩しか見えてなかったもん」
真奈はけろりとそんなことを言う。
ずっと見つからなかった「最後の顔」。それを本番でやっておいて、本人だけがどんな顔だったのか知らない。
役者というのは、なかなかに不思議な商売である。観客全員に見せる顔を、自分だけは決して見ることができない。
「藤堂さんは、あの、どうでしたか?」
「驚いたよ」
嶺が言う。
「写真で見て、面白い表情をする子だとは思ってた。けど、舞台の上で、あれだけ空気を変えられる役者さんだとは思ってなかったよ。最後、客席が完全に静まってたでしょう?」
「はい。あの、すごく静かだなーって。あの、あれ、みんな退屈してたとか・・・じゃないですよね?」
「そこでそんな心配するの」
嶺は笑う。
「真逆だよ。客全員がきみを見逃したくなくて、息をするのも忘れてたんだ」
「わ」
真奈の顔が、みるみる赤くなった。褒め言葉が自律神経に直通する、たいへん交通の便のいい子である。
嶺はゆっくり首を振る。
「良い芝居だったよ。掛け値なしに」
「すごい。プロの人に褒められた。どうしようすみちゃん、今日、人生で一番いい日かもしれない!」
「まだ明日もあるでしょ。明日のほうがいい日にしなさい」
「はーい!」
澄はそこで、胸に抱えていたロルバーンを差し出した。
表紙に丸い字で、「まなのひきだし」。
「はい、お守り」
「あっ、ありがと!」
「ちゃんと預かってたわよ」
「うん! なんかね、すみちゃんに預けるしかないと思って! それで今日は安心して出られた!」
真奈はノートを両手で受け取ると、大事そうに胸に抱いた。
「・・・なくしたりしないようにね」
「なくさないよぉ。大事なお守りだもん」
そのままホールエントランスの混雑から離れようとする澄たち三人に、去り際、真奈が続ける。
「あ、すみちゃん! このあと集合とダメ出しがあるんだけど、その後でまたね! 連絡するから! 藤堂さんにちゃんとお礼もしたいからできれば・・・」
「わかったわ、じゃあ後でね」
・
で、夜七時。最寄り駅前のガード下、あまり大きいというわけでもない、某芸学生達御用達の小料理屋風居酒屋である。
壁のメニュー札は年季で飴色になっていて、店の奥の小上がりには「芸術関連学科の若者たちが数十年来宴会をやり続けてきた」という感じの、独特の年輪が刻まれている。芸能プロの社長を連れてくるに相応しい店か?というとなかなかにYesともNoとも微妙なところだが、当の社長は暖簾をくぐるなり「いい店だねえ」と嬉しそうだった。
奥のテーブル席に四人。おしぼりが行き渡ったところで、嶺が一応確認をする。
「みんな、飲める歳だっけ」
「二十歳です! でも明日も本番なのでジンジャーエールで!」
「僕も二十です。ウーロンハイを」
「・・・私は、梅酒のソーダ割を」
「うん。じゃあ僕は生で」
ほどなく届いたグラスを、四人はテーブルの真ん中で軽く合わせた。
「では、小夏真奈さんの初日成功を祝して」
嶺がグラスを上げる。
「かんぱーい!」
「ありがとうございまーす!!」
乾杯のあとの真奈は、まあ、よくしゃべった。
カーテンコールで足が震えたこと。袖に戻った瞬間、日向ちゃんが抱きついてきて、「美影こわかったぁ」と半泣きで笑ったこと。客席の前から三列目に、身に覚えのないおじさまの熱烈な固定ファンがいた気がすること。それから、この間受かったオーディションの本番が秋に控えていて、そっちの稽古も始まること。
嶺は聞き上手だった。相槌を打ち、笑うところで笑い、ときどきちょいっと質問を挟む。
「小夏さんは、卒業しても、役者を続けるつもり?」
「もちろんです!」
「となると、舞台の他は? 映像の芝居なんかは興味ある?」
「うーん、わかんないです! 舞台は見てくれる人がそこにいるから好きなので、でも映像もやってはみたくて、ドラマとか映画とか!」
「映像は、舞台とはだいぶ勝手が違うよ」
「きっとそうなんですよね・・・」
「カメラが寄るからね。舞台なら客席の最後列まで届ける表情を、レンズのすぐ向こうへ見せなきゃいけない。大きすぎれば嘘にしか見えない、でも小さすぎれば何も映らない」
「むずかしそう・・・でもやりたいかも!」
そういう質問が、世間話の顔をして、とんとんと続いていたが、
「ところで、聞いていいかな。あの、最後の場面」
嶺がグラスを置いた。
「親友を抱きしめて、肩越しに、少しだけ笑うだろう。あれは、演出の指定?」
「あっそうそれ! それがですね!」
真奈は身を乗り出した。
「わかんないんです!」
「わからない?」
「大瀧先輩・・・演出の先輩と、ずーっと探してたんです。ずーっと。あそこの顔、宿題だったんです。でもどういう顔したらいいのか、結局見つからないまま本番になっちゃって。そしたら、あれが本番でふっと出てきて!
終わったあと大瀧先輩が飛んできて、『あれだ、俺が言葉にできなかったのはあれだった、明日も頼む』って言うんだけど、わたし、明日もあの顔出るかわかんない!」
そう言って、真奈は自分で「あははは」と笑っている。
嶺は笑わなかった。ただゆっくり二度、うなずいた。
「・・・そう。そういうのが出る人が、たまにいるんだよね」
それきり、その話は大事そうにしまい込まれた。
料理が届き始めた。小鉢、刺し盛り、だし巻き、そして唐揚げ。
唐揚げの皿が着地した瞬間、真奈の目つきが変わる。
箸がすっと伸びる。一個を取り、ぱかりと二つに割って皿の縁に置く。断面を検める。
「・・・よし。入ってる」
「・・・何をしてるの?」
嶺がさすがに聞いた。
「検査です。この子と唐揚げには、深い因縁があるんですよ」
庄三郎が言い、あとを真奈が引き取った。かくして藤堂嶺は、世界の不条理と衣だけの唐揚げの物語を、フルコースで聞かされることとなった。齧ったら空洞だったことと、虚無と絶望と、学食のオバチャンへの、孫の代まで続く恨みを。
「――でも! それが今のわたしの原点なんです! その話を撮影のときにしてたら、庄三郎くんが、しゃべってるわたしを、そのまま撮ってくれてて――」
「・・・庄三郎、くん?」
嶺の眉が、ぴくりと動いた。
「あ、秋山くんのことです! わたし、普段は庄三郎くんって呼んでて!」
真奈はあっけらかんとそう言って、唐揚げの後半を口に放り込んだ。
嶺は、生ビールのグラスを、コースターの上にことりと置く。
「庄三郎くんか」
静かに繰り返す。
「そういえば、秋山くんの下の名前は初めて聞いたな。秋山、庄三郎くん。・・・今どき、ずいぶん古風で堂々とした名前だね」
藤堂嶺の頭の中で、何枚かの札がぱたぱたと裏返り、一列に揃って光った。
秋山。写真。人は撮りたくないと言うくせに、撮らせれば単なる宣材レベル以上の写真を何枚も、平然と撮ってくる腕。素材の良さを完璧に把握した上で、わざと逆さに落とすことができる緻密さ。そして、撮られて化ける女の子。
秋山、庄三郎。
秋庄。
嶺の視線が、ぴしりと庄三郎に向く。
「秋山くん。つかぬことを聞くけど」
嶺の声は、穏やかなままだったが、
「もしかして君は、秋山庄太郎先生の――故・秋山庄太郎先生の血縁・・・お孫さんだったりしないかな?」
澄がわずかに身じろぎをする。
庄三郎は、ウーロンハイのグラスから口を離した。
視線が逃げ道を探すように小さく一往復し、それから観念したように答える。
「・・・はい」
「そうか・・・なるほど。そうか」
「・・・? あれ?」
一人だけ、なんだかよくわかっていなかった子が、首をかしげる。
「庄三郎くんのお爺さんって、ゆうめいな人なの?」
真奈は秋山庄太郎を知らない。まあ、二十歳の演劇学科生が知らなくても無理はない名前だ。
「有名なんてもんじゃない人だったんだよ」
嶺が答えた。
「『秋山庄太郎に撮ってもらうことが、スター女優への登龍門』なんて言葉があったくらいさ。秋庄先生に写真を撮られた女の子は、スター女優になれる。本当にそう言われていたんだ。新人女優のマネージャーさんたちは、うちの子の写真を撮ってくださいって、先生のところへ詣でたそうだよ。僕らの業界からすれば――なにか、神様みたいな写真家だったんだ」
真奈は、ぽかんと口を開けて聞いていた。
その目の輝きが、一段明るさを増す。
「・・・わかる」
「うん?」
「わかる。だってそうだもん」
心の底からの実感を伴った声で真奈が言う。
「庄三郎くんの写真があれば、わたし、どんどん良い女優になれるもん」
庄三郎はあわてて口を開く。
「それは写真の手柄なんかじゃないよ、真奈ちゃんの力だ」
嶺は、何も言わずに、そういう庄三郎の横顔を見ていた。
そして澄は、黙ってその様子ぜんぶを眺めながら、梅酒のソーダ割のグラスを傾けていた。
今日の澄は口数がやや少ない。
「あれ? すみちゃん、なんか元気ない?」
真奈が首をかしげる。
澄は顔を上げる。口角、目もと、首の角度を整える
「そう? ちょっと疲れたのかも。朝から暑かったし、人も多かったでしょう。舞台を見てただけなのに、なんだか力が入っちゃって」
「そっかぁ。ごめんね、終わったあとまで付き合わせちゃって」
「違うわよ。私がそうしたかったんだから。真奈の初日だもの」
「あーん、すみちゃん! 好き!」
「真奈も疲れてるでしょ。明日もあるんだから、真奈のほうこそ早く帰って寝なさいよ」
「はーい!」
真奈は素直に返事をした。
澄は笑う。
朝、鏡の前でどうしても作れなかったはずの「ちゃんとした春日澄」で。
・
お開きは九時前だった。明日千秋楽の女優様を、夜更かしさせるわけにはいかないのである。
会計は、さらっと嶺が持った。学生たちが恐縮すると、「なに、こういうのは大人の道楽なの」と笑う。この男は花を出すときも同じようなことを言っていた。まったく道楽の多い男である。
駅前でまず、真奈が改札へ消える。
「明日も来ていいんだよ!? チケットあるよ!?」
「・・・考えとくわ」
「絶対だよ! 庄三郎くんもね! 藤堂さん、今日はごちそうさまでした! お花もほんとうに、ありがとうございました!」
ぺこりと頭を下げる。そして改札の向こうで一回転して手を振ると、跳ねるように消えていった。
次に嶺がタクシー乗り場へ歩み去ろうとする。その前に振り返る。
「今日は誘ってくれてありがとう。いいものを二つも見せてもらったよ。じゃ、また連絡するね。おやすみ」
残されたのは、庄三郎と澄である。
「・・・じゃ、私、こっちだから」
澄はそれだけ言うと、返事を待たずに歩き出した。
・
夜の商店街を、澄が一人で歩く。
シャッターの下り始めた店先。自動販売機の灯り。昼間の熱をようやく手放した歩道に、夏の夜の風が通っていく。夕涼み、という言葉のほんとうの時間は、公演の看板が言っていた午後二時なんかではなくて、たぶん、いまごろのことなのだろう。
後ろから、急ぎ足のスニーカーの音が近づいて来た。
澄は立ち止まって振り返る。
街灯の下、少し息を切らした庄三郎が追いかけてきていた。




