第七章 夕涼み
朝、目が覚めてまず鏡を見る。
習慣というか、点検確認。目の腫れ、肌の状態、髪のうねり。今朝は目の下に、うっすらとクマ。ゆうべの寝つきを考えれば想定内。コンシーラーで消せる。問題なし。
そして顔を作る。
洗顔。化粧水。下地。ファンデーション。ここまでは手が勝手に進めてくれる。指が覚えている仕事。
アイブロウペンシルを取って、眉を描く。
・・・決まらない。
いつもの角度のはずなのに、左の眉尻が少し落ちているような気がする。拭って描き直す。今度は上がりすぎた。これじゃあ「今日の春日さん、なんか怒ってない?」の眉になってしまう。拭う。描く。まだ何か違う。
眉ひとつにこんなに手こずるのは、いつ以来だろう。
とりあえずペンシルを置く。鏡に向かって口角を上げてみる。
目もとは柔らかく。口角は上げすぎず。首はほんの少しだけ傾けて。工程は全部わかっている。設計図は頭に入っている。当然だ。私が引いた設計図なんだから。
なのに、鏡の中の私の顔は、笑顔と呼びたくない何かだった。
口角は上がっている。目も細まっている。部品はぜんぶ、指示通りの位置にある。あるのに全体として歪んでいる。楽しくないのに笑わされている人の顔。
私は口角を戻した。鏡の中の女の子も、すっと真顔に戻る。
・・・そっちのほうが、まだ見られる顔だった。
今日が何の日かは、もちろんわかっている。
『旭丘夕涼み巡業・夏季公演』その初日。十四時開演。真ん中へんの、いちばん見やすい席。隣には秋山くん。そのまた隣の席に藤堂さん。
いちばんいい真奈を、ちゃんと見る日。だから、いちばんちゃんとした春日澄で行く日。
ちゃんとした春日澄を組み立てなければ。だが私は、組み立て途中で部品を取り付け忘れ、取り違え、サイズを間違え・・・
結局、組み立て終わるのにいつもの三倍の時間がかかった。仕上がりは・・・及第点ぎりぎり。採点は甘いかもしれない。
ちなみに『夕涼み』なんて名前がついているくせに、開演は真っ昼間の午後二時だ。終演して、お客が外へ出るころに、ちょうど夕方の風が吹き始める。そういう勘定らしい。うまいのだかずるいのだか。
・
北棟中ホールの前は、白い日差しと人で埋まっていた。
手描きの立て看板。おそろいのTシャツの学生たち。当日券の短い列。開場を待つ人たちのざわめき。
秋山くんと待ち合わせて、二人で藤堂さんを待つ。
途中、ふと彼が「光葉さんがいる」と言った。
事務の山岸さん、下の名前は光葉さんというらしい。学生が、事務の職員さんを下の名前で・・・? ――などなどと考えかけて、いや今はとりあえず棚に上げることにしよう、と思ったあたりで藤堂さんが現れる。
藤堂さんと秋山くんが真奈に贈ったお花の話をしている間、私はずっと何食わぬ顔をしていた。我ながら上出来の「何食わぬ顔」だ。朝はあんなに笑顔が作れなかったくせに、こういう顔はさらっと一発で出てくるのだから、自分のことがちょっと嫌になる。
ロビーの奥に、藤堂さんの花籠が据えられている。近くを通り過ぎる時、札の文字が読めた。祝御出演、小夏真奈様。その脇に、藤堂嶺の名前と会社名。
芸能プロの名前が、真奈の名前のすぐ横に、きれいに筆書きされて並んでいる。
それが何を意味するのかは――これも棚の上に上げる。今日の私の心の棚は、朝からだいぶ混み合っている。
・
真奈が取ってくれた席は、本当に、憎らしいくらい見やすい席だった。
センターブロックのちょうど中ほど。舞台全体が、視線を上げも下げもせず、まっすぐ収まる高さ。いい席すぎる。
その座面に、何かが置いてあった。
見覚えのあるロルバーン。表紙に丸っこい字で「まなのひきだし」。そして黄色い付箋が一枚。
『すみちゃんへ お守りあずかってて!』
それだけ。本人は姿を見せない。それはそうだ、本番前なのだから。
「ん? なんだそれ」
隣に腰を下ろした秋山くんが、ノートを見て言う。
「・・・お守り。預かってだって」
「お守り?」
「そういうことになってるの」
彼は「そうか」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。
開演前の明るい客席で、私は膝の上に置いたそのノートを開いた。見ていいのかはわからない。でも、見ないで預かれというのも、無理な相談だと思う。
ノートには、私が見たことのなかった写真とページが増えていた。
新しい写真の横には、いちいち丸っこい字のメモ。
『これ? じゃないなぁ』
『んー、ちがう』
『おしい気がする! けどちがうかも』
――見つからなかったの・・・。
演出の大瀧さんの宿題の、『最後の顔』。引き出しは増えていたけれど、それでもその最後の顔は見つけられず、このノートのどこにもないようだった。
ノートを閉じて、膝の上に置き直す。
稽古を見に行った日、この膝の上には差し入れの袋があった。今日はこのノート。あの子のお守り。
真奈はどうして、これを私に預けて舞台に立とうとしているのだろう。
開演のブザーが鳴った。
客電が、ゆっくりと落ちていく。
暗くなる寸前、隣の横顔をちらりと見た。彼はまっすぐ舞台を見ていた。カメラを持ってはいない。だが写真家の眼で。
・
芝居の筋を細かく語る気力は、今日の私にはない。
ヒロインがいて、その恋人の圭君がいて、ヒロインの親友の美影がいる。それだけわかっていれば、十分だと思う。
美影――真奈は、明るい役として登場した。よく笑い、よく回り、ヒロインの隣でくるくると動いて、客席をあっという間に味方につける。前から三列目あたりのおじさまが、早々に「自慢の孫娘を見る顔」になっているのが、暗がりでもわかった。
そこから、物語がゆっくり傾いていく。
美影の笑顔の底に、一枚ずつ、薄い翳りが挟まっていく。台詞で説明されるわけではなくて、ただ笑い方の角度が、幕が進むごとに少しずつ変わっていく。真奈、こんなことができるんだ、と思う。思いながら、自分の呼吸が浅くなっていくのがわかる。
親友の恋人を、こっそり寝取ってしまう女。
この戯曲を書いた人は、真奈と客席の私のことなんて、何ひとつ知らないはずだ。なのに物語というのは、ときどきこういう狙い撃ちをしてくる。舞台の上で、真奈は親友を裏切る女を演じていて、それを、親友の私が客席から見ている。
・
その場面は、終盤にあった。
「・・・ねえ美影。土曜の夜、圭君の車に乗ってたよね、二人で、どこに行ってたの?」
ヒロインの声が震えている。稽古場で聞いた台詞。あの日の稽古は、いちばん最後の、真奈が顔を上げるところで止められた。だから、私はまだこの先の本当の結末を知らない。
「なに言ってるの。そんなわけないじゃない?」
だがヒロインが問い詰める。美影が躱す。いなす。躱しきれなくなる。積み上げていた小さな嘘が、ひとつずつ、別の光で照らされていく。ひとつずつ、本当の姿が見えるようになっていく。
そして決壊。
ヒロインが泣き崩れる。客席に背中を向けて、肩を震わせて。
美影がゆっくりと歩み寄る。膝をつく。泣きじゃくる親友を、そっと抱きしめる。
ホールが、静まり返っている。
誰も咳をしない。パンフレットをめくる音すらしない。
そして美影は、親友の肩越しに、ゆっくりと顔を上げた。
微笑んだ。
ほんの少しだけ。
勝ち誇ってはいなかった。悪意でもなかった。もちろん後悔でも、涙でもなかった。
――ああ、私、こうなっちゃったんだね。
自分を離れ、自分を眺めて、そして静かに認めてしまった人の微笑み。誰にも向けられてはいない、誰かに見せるためのものでもない、なのに客席の全員が受け取ってしまう、そういう微笑みだった。
どこかの席で、誰かが小さく息を呑んだ。私だったかもしれない。
私は両手で、強く、膝の上のノートを握っていた。
あの顔は、このノートの、どのページにもない。
ぜんぶ見たからわかる。めくって、めくって、めくって。あの子の「ひきだし」、それはぜんぶこの膝の上にある。
でもあの微笑みは、その中にはなかった。
彼のカメラにも、あの銀色の大きな眼玉にも、引き出せなかった顔。あの写真たちが、どうしても見つけられなかった最後の一葉が。いま舞台の上にある。
ある。
私にはわかった。
写真はひきだし、ただそれだけなのだ。引き出しの中身は、最初からぜんぶ真奈のもの。
舞台の上では、芝居が最後のいくつかの場面を進んでいる。ちゃんと見なければと思う。見ているつもりだけど、でも私の中で考えが止まらない。
真奈は、お守りを手放して、丸腰であそこへ行った。
――それなら――じゃあそれなら、私の、あのたった一枚の、布に包んで、引き出しの底にしまい込んで、開くのにふた月かかって、開いて、揺さぶられて、また閉じた。
――あの一枚は?
真奈のひきだしは、真奈のもの。
私には、私のものは?
私は、あの写真の中の私に会いたい。世界そのものから愛されている、あの女の子に。彼の眼差しの向こう側にしか、いない女の子に。
わかっている。長いこと「春日澄」を設計してきた人間は、その中身についてだって、それなりに正確に把握しているはずなのだ。正確だから、なお質が悪い。
真奈が羨ましい。
踏みとどまらなかった真奈が。怖がることなどないまま、まっすぐに受け止めて、いま、舞台の上で光っている真奈が。
自分の力で「撮られた私」以上になれる彼女が。
羨ましい。それがみっともない。
我ながら、ほんとうに、みっともない。
でも、みっともなくても、それはそういうことなのだ。
・
幕が下りた。
一拍の静寂のあと、拍手が起こる。
波みたいに客席の後ろから来て、前へ、横へ、あっという間にホールぜんぶが拍手になった。
カーテンコール。並んで出てきた役者たちの、真ん中より少し横に真奈がいる。
私は立ち上がった。立ち上がるとき、膝の上のノートが滑り落ちかけて、私はそれを掴んだ。左腕で胸に強く押さえる。それから拍手をする。
春日澄の笑顔は、最後まで作れなかった。
頬が痙攣しそうになって、奥歯を静かに噛む。笑えないなら、笑えないままでいい。それでも、手だけは打ち続ける。
少し横を見る。
彼も拍手をしていた。
まっすぐ舞台を見て、何も言わずに、ただ手を打っている。その横顔は誇らしげに見え、そして少しだけ痛そうにも、しかし安心しているようにも見えた。そして何より、はっきりとそれが分かっている写真家の顔をしていた。
――あの顔は、俺は撮ってない。
その向こうの席では、藤堂さんも拍手をしているのが見えた。ゆっくりした、大きな拍手。その目がいま、どんな色をしているのかまでは、ここからは見えない。
舞台の上で、真奈がお辞儀をする。顔を上げる。
照明の中で、汗がきらきら光っている。客席を見渡し、あの破壊力のある「ぱあっ」で笑う。美影はもうどこにもいない。いちばんいい真奈が、世界でいちばん明るい場所に立っている。
私のいちばんかわいい親友。
私の胸には、あの子のお守り。
拍手は鳴りやまない。




