第六章 観客
七月に入った。梅雨はまだ尻尾のあたりが残って、鬱陶しくも真っ白な空模様。演劇学科の稽古場は、湿気と熱気とで、たいへん立派な蒸し風呂になっている。
床には夏の公演用のバミリのテープが増えて、壁際の箱馬は仮組みの舞台のかたちに積み直され、部屋の隅の置き忘れペットボトルは、いつの間にかラベルがポカリスエットからアクエリアスに変わっている。もっとも相変わらず誰の忘れ物かわからないままである。青春の成分は継続的に安定供給されているようだ。
『旭丘夕涼み巡業・夏季公演』。
演劇学科の夏の本公演である。今年の演目は数年前に学生が書いた書き下ろしのオリジナル戯曲だ。タイトルなどなど細かい説明は一旦端折らせてもらって、大事なのは真奈の役どころである。
――ヒロインの親友で、ヒロインの恋人を、こっそり寝取ってしまう女。
主役ではない。だが、この芝居でいちばん難しい。まあ、ワンラインで説明されるだけでも、まあそりゃ難しかろうなぁ、という感じの役。
ちなみにヒロインを演るのは一年生の日向ちゃんという子で、これまた小柄で丸顔でよく笑う、無邪気でかわいらしいタイプだ。つまりひと月ほど前までの、小夏真奈の指定席だった路線の子である。配役表というのは、ときどき妙に性格が悪い。
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その日稽古は、話のポイントのNTR発覚場面の抜き稽古で、春日澄は壁際のパイプ椅子に座ってそれを見ていた。真奈に「通しじゃないけど、いちばん大事なとこやるから見に来て! ね!」とおねがいされたのだ。膝の上には差し入れのスポーツドリンク(ポカリでもアクエリでもなくてアミノバリューなのが澄らしい)が入った袋。見学者というか、要は観客役である。
稽古場の中央で、日向ちゃんが、震える声を絞り出した。
「・・・ねえ美影。土曜の夜、圭君の車に乗ってたよね、二人で、どこに行ってたの?」
真奈が、ゆっくりと顔を上げる。
「なに言ってるの。そんなわけないじゃない?」
澄は、膝の上の袋を、少しだけ強く握った。
うまいのである。何がどううまいのか、演劇の素人である澄には言葉にできない。できないのだがとにかく、嘘をつき慣れている女が、嘘をつき慣れていない女の「ふり」をして言う「ないじゃない?」に聞こえた。嘘の膜が一枚、台詞の上に薄く張っている、その薄さたるや膜の下が透けて見えそう、なのに膜は決して破れそうにない。そういう「ないじゃない?」だった。
かつての真奈なら、こうはいかなかっただろう。「明るくてかわいい良い子が、悪い女のフリをして頑張っている」でしかなかった。だが、今目の前の真奈は、しっかり強度のある後ろ暗い女に見える。
芝居は進む。日向ちゃんが問い詰め、真奈が躱し、いなし、そしていなされているのに、なお真実を悟らされて日向ちゃんが泣き崩れる。真奈が歩み寄り、膝をついて、泣きじゃくる親友をそっと抱きしめる。
そして、親友の肩越しに顔を上げて――
「はい、止め!」
パン、と手が鳴った。演出の大瀧である。今日も夏の稽古場で上から下まで黒ずくめだ。見るだけで暑い。本人は暑くないのかとだいたい全員が思っているが、まあおいといて。
「小夏。九割それでいい。九割いいんだが」
「最後の顔ですか」
「最後の顔だ」
大瀧は眼鏡の縁を押し上げて、うなった。
「肩越しに顔を上げるだろ。あそこで客に一発、顔を見せることになる。台詞はなくて、顔だけだ。で、今のお前の顔は・・・なんだろうな、ちょっと勝ってた」
「勝ってました?」
「ああ勝ってた。勝ち誇られると、ただの悪い女になるだろ。かといって泣いてみせるは無いし・・・もっとこう・・・ええと、なんだろ」
大瀧は腕を組む。天井を仰ぎ、しばらく唸ってから、潔く白旗を揚げた。
「・・・すまん、演出がまだ言葉にできてない。俺の宿題だ。お前も探しといてくれ」
「はーい! 探しときまーす!」
真奈は元気よく返事をした。悪い女の顔はもうどこにもない。切り替えの早さに、稽古場の何人かが感心とも呆れともつかない息を吐く。
壁際で、共演者のささやき声がする。
「小夏の演技、ほんと変わったよね」
「だよねえ。なんか掴んだってやつなのかなぁ」
澄は、それを聞いていた。
聞きながら、さっきの「ないじゃない?」の質感を、胸の中で転がしていた。
あの質感に、澄は見覚えがある。翳りと哀しみを含んで、しかし一筋の光と鋭さも湛えているような。ふだんの真奈からは逆立ちしても出てこないはずの質感。
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休憩に入ると、真奈は澄のところへ一直線に飛んできた。
「すみちゃーん! ありがと来てくれて! 見た!? 見てくれた!?」
「見てたわよ。すごかったじゃない」
「えへへへー!」
差し入れの袋を覗き込んで「塩タブレットまである! 三ツ矢のおいしいやつだ! さすがすみちゃん、好き!」とひとしきり騒いだあと、真奈は澄の隣のパイプ椅子に腰を下ろし、リュックから一冊のロルバーンを引っ張り出した。
表紙に、丸っこい字で「まなのひきだし」と書いてある。
例のノートである。
開かれたページには、写真が几帳面に貼ってあった。物憂げに宙を睨む真奈。目だけ笑っていない真奈。傲然と顎を上げた真奈。ぱっと晴れた小動物の真奈。写真の脇には、いちいち丸っこい字のメモが添えてある。
「虚無唐揚げ」だの。
「あんこなしたい焼き」だの。
「絶品プリン」だの。
「きのこの山」だの。
エニグマの暗号表あたりのほうがまだ読解しやすいと思われるが、真奈自身はこれで完全に把握できているのである。どの顔が、どの引き出しからどのキーフレーズで出てくるか、全部書いてある。
新しめのページには、撮ったばかりらしい写真が並んでいた。メモの字が言う。「庄三郎くんお勧め、美影の顔!」
「これはね、こないだ撮ってもらったとき、庄三郎くんがね、『この役は、こういう顔の真奈ちゃんが合ってそうだ』って言ってくれて」
「・・・そう」
「でね、稽古の前に見るの。そうすると、入りやすいんだ。お守りっていうか、ジンクスっていうか、ルーティンっていうか、そんな感じ!」
お守り。
澄は、ノートに並ぶ写真の列を見た。一枚、二枚ではない。ページをめくってもめくっても、写真とメモは続いている。めくっても、めくっても、めくっても。
依存、という単語が、澄の頭の中できちんとした活字の形になったのは、たぶんこの時が最初だった。
「でもねー、見つかんないんだよね、『最後の顔』」
真奈はノートをぱらぱらとめくりながら、唇を尖らせた。
「大瀧先輩の言うやつ。このノートのどこにもないの。だからさ」
真奈は、実にあっけらかんと言った。
「今度また、庄三郎くんに撮ってもらうんだ。そしたら見つかるかも?」
澄の口が、考えるより先に動いた。
「・・・真奈。もう、十分じゃないの?」
「ん? なにが?」
「撮ってもらうの。写真、もうこんなにあるじゃない」
「えー?」
真奈は、心底不思議そうな顔をした。
「もっと新しいわたしの顔、見たくなるじゃん。引き出しが、どんどん増えるんだよ? 役者として、こんないいことないんだもん」
正論である。
写真はよく撮れている。芝居はどんどん良くなっている。役者としての真奈の層も、さらに厚くなっていく。それだけ、悪いことなど何一つ起きてない。
でも、それでいいの? 真奈。そんな一言を、
「・・・そうね」
澄は口にできなかった。そしていつもの春日澄の微笑みに戻ってそれだけ言った。
「あ、そうだすみちゃん、聞いて聞いて。本番の日ね、終演後にロビーでお客さんのお見送りするんだけど、そのときの服どうしよう! 衣装のままはダメなんだって! ね、今度一緒に選んで!」
「・・・うん、いいわよ」
「やった! あとね、庄三郎くんがね――」
・
数日後の昼下がり、澄は写真学科棟の前で庄三郎を捕まえた。
「ねえ」
「お、春日。どした」
「あの子・・・真奈のことなんだけど」
「うん?」
「あれね、その、もう、十分じゃない?」
庄三郎は、カメラバッグのストラップを担ぎ直して、しばらく黙った。
この男が黙るのは、聞いていないからではない。むしろ逆で、ちゃんと考えているときほど黙る。
「・・・俺も、考えなくはないんだよ。いろいろ、さ」
「考えなくはない? いろいろ? って?」
「でもさ。真奈ちゃんは幸せそうだし、芝居は良くなってるっていうし、オーディションも受かった。大瀧先輩とやらには褒められて、本人は毎日楽しげで」
庄三郎は、頭を掻いた。
「断る理由がさ、どこにもないし」
誰も困ってない。
「それとも、なんかあるのか。真奈ちゃん、なんかもう芝居したくない、みたいなこと、こっそり漏らしてるとか」
「え? いやそんなこと、ぜんぜんないけど、っていうか逆、よろこんでお芝居してるけど」
「ならいいんだけどな」
そのとき、庄三郎のポケットで、スマホがぴこんと鳴った。
画面をちらりと見た庄三郎の顔が、微妙になる。澄の位置からも、通知の頭が見えた。
『庄三郎くん! 次の撮影のことなんだけど!』
タイミングというやつも、ときどき妙に性格が悪い。
澄はくるりと背を向けて、それ以上何も言わず歩き出した。
「おい、春日?」
澄は振り返らなかった。振り返ったところで、どういう顔を見せたらいいのか分からなかった。
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それから澄は、少しだけ、真奈と距離を取ろうとした。
メッセージの返事を遅らせてみたりする。
既読をつけてから、お茶を一杯飲むぶんくらい置いて返す。誘われたお昼を一度、「課題があるから」と断ってみる。距離の取り方としては、ずいぶんささやかで、ずいぶん健気な部類だと思う。
で、効果のほどはどうだったかというと。
『すみちゃん返事ないけど生きてる!?』
『倒れてたらスタンプだけでも押して!!』
と心配されて、うさぎが救急車を運転しているスタンプが三連投された。
無条件降伏である。
悪意のない相手に、距離の取りようなんてないのだ。塩対応というのは、相手がしょっぱいと気づいてはじめて成立するわけだ。
そして澄は、真奈からのメッセージに「庄三郎くん」の文字が出てくるたびに――数えたわけではないが、このところメッセージ二通につき一回は含まれている気がする――胸に細い棘が、ちくっと刺さるのを感じた。
自分は今でも「秋山くん」か「あんた」だ。呼び方を変える理由もないし、別に変えたいわけでもなんでもない。ないのだけれど、後から来た真奈のほうが先に、なんのためらいもなく、あの男を名前で呼んでいるのは、いったいどういうわけなんだ、というか。
――順番の問題じゃないでしょう。
と、澄は自分で自分にツッコんでみるのだった。
・
その夜。
例の三人のトークが、久しぶりににぎやかに鳴った。
『すみちゃん! 庄三郎くん! あらためまして、ご招待でーす!!』
『「旭丘夕涼み巡業・夏季公演」! 来週土曜、14時開演!』
『二人の席、取り置きしてもらったから! 真ん中へんの、いちばん見やすいとこ!』
『オーディションのことも、この役も、ぜんぶ二人のおかげだから』
『いちばんいい私、ちゃんと見ててほしいんだ!』
続けて、ぴこん。
『それと、庄三郎くんにお願い!』
『オーディション写真のこと教えてくれたっていうプロの人・・・藤堂さん? その人も誘ってもらえないかな!』
『私の写真、褒めてくれたんでしょ? ちゃんと会ってお礼言いたいの! それに、せっかくだから私の舞台、プロの人にも見てもらいたいし!』
庄三郎の返信はシンプルなものである。
『わかった。聞いてみる』
澄も返事を打った。
『うん、行くね』
『楽しみにしてる』
打ってから、澄はスマホを枕元に伏せ、天井を見上げる。
いちばん見やすい席をとってくれたらしい。舞台が、真奈が、いちばんよく見える席。
いちばんよく、「見えてしまう」席。
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ちなみに藤堂嶺の反応は、二つ返事の了承だった。
『お、もちろん行かせてもらうよ。君の大学の学生さんの舞台はなかなか面白そうだし、それに――秋山くんの写真のあの子が、実物ではどんなふうに動くのか、見てみたいしね』
「じゃあすみません、来週の土曜、うちの大学の中ホールなんで、ホール前の待ち合わせでいいですか」
『わかった。何時?』
「ええと、14時開演なんで、13時半くらいですかね?」
『おっけーおっけー。せっかくだから、花とか出せるかな?』
「ええーと・・・? 学科の公演なんでそういうのは・・・僕もよくわからないです」
『そうか、じゃあまあこっちで聞いとくよ、2年の小夏真奈ちゃんだったよね』
「あ、はい」
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開演当日は、憎らしいほどの快晴だった。あれだけ粘っていた梅雨の尻尾は、この日に合わせたようにするりと消えて、七月の日差しが北棟前の敷石を白く焼いている。小夏真奈、小夏日和ということだろうか。
開演三十分前。澄と庄三郎は、北棟中ホールの前で藤堂を待っていた。
ホール前はなかなかの賑わいである。手描きの立て看板。当日券の短い列。おそろいのスタッフTシャツで駆け回る演劇学科の学生たち。開いたばかりのエントランスに、観客が三々五々吸い込まれていく。
庄三郎が、ふと視線を動かした。藤堂の来るはずの校門の方向へではなく、ホールのエントランスのほうへ。
「あれ」
「? どうしたの?」
「・・・あ、やっぱそうだ。光葉さんがいる。なんかスタッフやらされてるのかな?」
ホールの脇、スタッフルームへ続く廊下の近くに、職員の名札を下げた事務服の若い女性が立っていた。クリップボードを胸に抱えて、受付係の学生と何か話している。大ぶりの花籠を抱えた学生にロビーの奥を指し示すと、学生はこくこく頷いて、花籠ごと消えていった。
「光葉さん?」
澄は、庄三郎の視線の先を追った。見覚えのある顔だった。
「・・・ああ、事務の山岸さんじゃない。ホールも学科事務の管轄なのかしらね。――光葉さんって名前なの、あの人?」
「ん? ああ」
庄三郎の返事は、それだけだったが。
このごろの春日澄は、人が人を「どう呼ぶか」が妙に気にかかるようになっていた。その警戒機が、ぴ、と小さな警報音を鳴らす。
――学生が、事務の職員さんを、下の名前で?
澄は思い出す。いつだったか、「暗室で誰かサボってると思うわ。多分秋山くんとか」と、涼しい顔で教えてくれた事務の人は、たしかあの人だった気が。
つまり、私をあの埃っぽい暗室の扉の前へ導いた人は――などと、澄がつつっと考えを続けようとしたタイミングで呼びかけられる。
「やあ、ごめんごめん。待たせたかな」
振り向けば藤堂嶺である。夏物のジャケットを軽く羽織り、片手を上げて校門の方から歩いてくる。相変わらず、この歳までよく独身でいたものだと思わせる爽やかさである。
「あ、藤堂さん。今日はわざわざすみません」
「いやいや、楽しみにして来たんだよ。――ああそうだ、秋山くん、花の件はね、済ませておいたよ。学校の事務に電話したら、楽屋花はロビーに飾る形ならどうぞって。電話口の人の段取りがえらく良くてさ、話が三分で済んだ」
「わ、すみません。なんか手間かけさせちゃって」
「なに、こういうのは出す側の道楽なの」
ロビーの奥に、さっきの花籠が据えられているのが見えた。リボンの脇に立った札の文字までは、ここからは読めない。
ホールの中から、開演を予告するアナウンスがくぐもって漏れてくる。
「さて、そろそろ開演だね。入ろうか」
藤堂が促す。歩き出しながら、庄三郎が廊下のほうへちょいと片手を上げた。クリップボードの女性がそれに気づいて、小さく会釈を返す。それきりすぐ、仕事の顔に戻る。
澄は、何も気づいてない顔をする。
三人は、エントランスをくぐった。
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そして、観客でホールの客席が埋まっていく。
切符を買った者、招かれた者、呼ばれて何かを見定めに来る者。そして、切符を買った覚えなどないのに、いつのまにか座席番号まで決められていた者。
開演のブザーは、次の章で。




