第五章 抜擢
ある晩、庄三郎のスマホが立て続けに鳴った。
『ねえねえ秋山くん! ノートが出来た!!』
『写真プリントして貼って、横にメモつけたの!
「虚無唐揚げ」とか「あんこなしたい焼き」とか「絶品プリン」とか!』
『なんのノートなんだそれは』
『役の引き出しノート! これ見ると、どの顔がどっから出てくるかわかるんだ!』
庄三郎が返事を考えているうちに、次が来る。
『それでね、作ってて気づいちゃったんだけど』
『私、「ツン」が無い!』
『ツン?』
『ツンとした顔! 人を見下ろす感じの、高慢ちきなお嬢様みたいなやつ! ノートのどこを探しても無くて!』
『引き出しは多いほうがいいでしょ? だから、そういうの撮ってほしいんだー! だめ?』
庄三郎は、スマホを握ったまま、しばらく天井を見上げた。
耳の奥で、いつかの澄の声が再生される。――撮れすぎじゃない?
声はひびくのだが、断る理由が見つからないのである。撮れすぎた写真は、いちいち真奈の芝居の引き出しになっているらしい。本人はこの上なく幸せそうである。誰も困っていない。
『・・・まあ、いいけど。土曜なら空いてる』
『やったーー!! 土曜! あの小スタジオで! よろしくおねがいします!!』
・
で、土曜。
二度目の撮影は、こんな具合だった。
「じゃ、ご注文の『ツン』なんだけど」
「まかせてまかせて! 今日は家で練習してきたから!」
白い背景紙の前で、真奈はすうっと息を吸い、顎を上げ、目を細め、
バシャリッ。
「・・・うーん。『二時間ドラマの序盤で犯人だと疑われる助手』だなぁ」
「なんでぇ!?」
練習してきたぶんだけ力が入り。入った力は顔に出る。目が見開かれ、表情が強張る。このあたりの仕組みは、もはや読者のみなさまには説明不要であろう。というかそいつは犯人だヤス。
庄三郎はカメラをいったん下ろすと、前と同じ手に切り替えた。
「はい、練習おわり。しゃべるぞ真奈ちゃん。うん――きのこの山と、たけのこの里、どっち派だ」
「たけのこだけど?」
即答である。コンマ一秒の躊躇もない。
「ほう。俺はどっちかというと、きのこ派なんだが」
「・・・ふうん?」
スタジオに、冷えた緊張が走った。開戦である。戦いはいつも哀しくも唐突に口火を切られるのだ。
真奈の顎が、つんっ、と上がった。目が半分伏せられる。口の端に、「憐れみ」と呼んでいい類の微笑が浮かぶ。
「そう、まあ、いいんじゃないかな? 人それぞれだもんね。あの、パクりそこねたポッキーみたいな、分離主義のお菓子がお好みでも」
バシャリッ。
「他人の好みをどうこう言う気はないんだけど、美味しさってのはさ、あるわけじゃない? たけのこは、クッキーとチョコが一体になって、ひとつ格の高い美味しさを作り上げてるよね。なのにあのキノ公はさ、齧ったらなんかすーぐぱらって剥がれて、大抵は結局チョコとプリッツ、バラで味わう羽目にならない? あんなの、なんでチョコ被ってる理由になるのかしらーって」
バシャバシャリッ。
撮れた。撮れてしまった。
背面モニターの中には、見事な「高慢ちきなお嬢様」がいた。ふだんの小動物がどこにもいない。生まれてこのかた他人に頭を下げたことのなさそうな、傲慢が傲然と匂い立つような女が、画面の中からこちらを見下ろしている。
「あは! すごいこれ! 私、女王様だー!」
真奈は跳ねて喜んだ。庄三郎も面白かった。まあなかなか面白かったのだが。
――前よりすぐ出る。
そう彼は思った。前の撮影では、会話の海にもう少しゆっくり潜って、棚をさぐって、そして掬い上げていった気がする。それが今日は水面のすぐ下まで来ている。ひと声かけるだけで浮いてきた。庄三郎が慣れて、最初から狙いの目星をつけられるようになったのか。それとも真奈の側の何かが、もう開きっぱなしになっているのか。
まあ、そんなことを考えても、どうなるものでもどうするものでもない。庄三郎は小さく首を振って、ファインダーに目を戻した。
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ここで、図式のご説明をひとつ。
いま、小夏真奈の身の上には、次のような循環が成立しようとしている。
庄三郎に写真を撮られる。
→撮られた写真を見る。知らなかった自分の顔が写っている。
→その顔の「出し方」が、ノートに一ページ増える。
→稽古で使う。芝居が良くなる。ミスター大瀧等に褒められる。
→もっと新しい顔が欲しくなる
→庄三郎に写真を撮られる。(最初に戻る)
(なんなら、「ここで、図式のご説明」あたりから「(最初に戻る)」までの上記の一連の文章をNano Banana君にでも読ませたら一枚の模式図にしてくれると思われるので、読者のみなさま各位、試してみるとよろしかろう)
さておわかりだろうか。このループには、どこにもブレーキがついていない。
ブレーキというものは「何かがまずい」ときに踏む装置である。ところがこの循環、どこを輪切りにしても、まずいところなどひとつも出てこないのだ。写真はよく撮れている。芝居は上達している。大瀧先輩には褒められ、本人は幸せ、実益満点である。健全。建設的。合理的。完全なる正のスパイラル。どこに文句のつけようがあるだろうか。
なお、「→もっと新しい顔」のあたりで、アンパンマンが顔の予備を大量に携えて勇気りんりん闘いに赴く様子を思い浮かべてしまった方には、心よりの謝罪をさせていただきたい。
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以下しばらく、ダイジェストでお送りする。
水曜。
『今日ね、大瀧先輩に「小夏、その顔どこで拾った」って言われた!』
『拾ってない! 撮ってもらったの! って言ったら変な顔された!』
金曜。
『書類、通ったーー!!!』
『秋山くんの写真のおかげだよ! 証明写真機だったら消えてたもん!』
『おお、よかったな』
『来週、面接受けにいくんだ! がんばる!!』
翌週の火曜。
『おわった!! おわったよ!』
『面接で「あなたは表現の引き出しが多いね、どこから来るの?」って聞かれて、勢いで唐揚げの悲劇の話、フルでしちゃった!』
『フルで』
『衣だけ唐揚げから、あんこなしたい焼きまで全部! 審査の人めっちゃウケてた! あんだけウケたんだから、イケそうな気がする!!』
そして、その週の金曜日。
・
午後、庄三郎のスマホが鳴った。メッセージではない。電話のほうである。
出るなり鼓膜に元気が刺さる。
『もしもし庄三郎くん!? 受かったー!! 私受かったよー!!』
「おおー、そりゃぁよか・・・ん?」
うん? 庄三郎くん?
「・・・ま、いいか。そりゃおめでとう、真奈ちゃん」
『ありがとう!! 庄三郎くんの写真のおかげ! 審査の人、応募シートみながら「いい写真ですね」って言ってたし!』
「そりゃ写真の手柄じゃなくて、写ってる本人の手柄だよ」
『ちがうもん! 半分は庄三郎くんの手柄! あ、それでね聞いて聞いて、夏の公演でもすごい役もらって――あっやばい、稽古始まっちゃう! また連絡するね! ほんとにありがとー!!』
通話は嵐のように切れた。
庄三郎はスマホを耳から離し、しばらく画面を眺める。
いつから俺は「庄三郎くん」になったんだろう、と一応考えてはみたが、答えの出る問いでもない。ま、呼びやすいからだろう多分。名前のほうで呼ばれること自体は別に嫌いではない。「秋山」の方で呼ばれるよりは、いくらかほっとするところもあるし。
というわけで、この呼び名の変化について庄三郎が考えたのは、せいぜい十秒ほどのことだったが、
が、世の中には、同じ音を聞いて、十秒では済まない人間もいた。
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その知らせが届いた順序で言えば、実のところ、庄三郎より澄のほうがずっと早かった。合格通知を見た真奈が、メッセージを打つより早く物理的に走ったからである。
同じ日の昼、学食。
窓際の席で、春日澄は冷しゃぶうどんの別添え皿を視界の端に睨みながら、薄切りのしゃぶ肉に箸を延ばすタイミングを慎重に図っていた。真っ先にぱくりと行ってしまうのは、明らかに上品なお嬢さんのイメージに反するし、最後まで踏ん切り悪く残っているというのも、私肉食系では無いんですの的清楚さをことさらにアピールしているようで、印象が良くない。
「すみちゃーーーん!!」
声が入口から飛んでくる。返事をする間もなく本体も飛んできた。椅子ごと抱きつかれる。周囲のテーブルの男子が数名、条件反射でこちらを見る。
「受かったぁ! 受かったよ! オーディション!!」
「・・・ほんとに?」
「うん!! さっきメール来た!! ほら見てこれ!!」
突き出されたスマホの画面に、たしかに合格の文字がある。
「すごいじゃない。おめでとう、真奈」
「えへへへー! ありがとー!!」
真奈は澄にくっついたまま続ける。
「面接のとき、応募シート見てね、『いい写真ですね』って言われたんだ。前までだったら、絶対そんなのありえなかった。ほんと、庄三郎くんが撮ってくれた写真のおかげ」
ぴと。
茹でた薄切り肉(ごまだれ付)の上で、澄の箸が止まった。
――庄三郎くん。
フリーズしかかった澄に真奈は気づかない。気づかないまましゃべり続けている。庄三郎くんの写真がね。庄三郎くんってね、撮ってるとき、なんかこっちの話をぜんぶ拾ってくるんだよ。あれはすごいよね庄三郎くん。
なにか、一文につき一回に迫る高頻度で名前が出てくる。
いつからだろう、と澄は思った。紹介したときは「秋山くん」だった。というか、この間までは確かに「秋山くん」だった。それがいつの間にやら、今やするする、なんのつっかかりもためらいもなく「庄三郎くん」である。
ちなみに、澄自身はあの男を下の名前で呼んだことは一度もない。あんた、か、秋山くん、である。いや別に呼びたいわけではないのだ。呼びたいわけではないのだが、なぜ今、澄の胸の内側の微妙なところがちくちくしているのか。
「――でね! すみちゃん、まだあるの!」
真奈がばっと身を起こし、両手で澄の手を掴んだ。
「うちの夏の公演! 私、すごい役もらった!」
「うち、って、『旭丘夕涼み巡業』? 演劇学科のやつ?」
「そう!」
「すごい役って・・・主役?ヒロイン?」
「ううん、主役じゃないんだけどね、ヒロインの親友で、ヒロインの彼氏を、こっそり寝取っちゃう女! 主役じゃないほうで、いちばん難しいって言われてる役なんだ!」
寝取る女の役。
澄のまばたきが、一回、二回。
「・・・へえ」
「大瀧先輩が『今の小夏なら絶対いける、いや小夏がやらないと駄目だ』って! ね、すごくない? 前の私だったら絶対回ってこなかった役だよ? 大抜擢だよ!」
「そうね。そう、うん。大抜擢」
「稽古すっごい頑張るから! だからすみちゃん、本番、絶対見に来てね! 絶対だよ!」
親友の恋人を寝取る女の役を貰いました、と、親友の手を握りしめて、これ以上ないほど幸せそうに報告する女の子というのも、なかなかいないと思われる。むろん真奈に他意はない。そりゃぁもちろん全然ないのだが。
澄は笑った。
口角の上がり方、目もとのゆるめ方、首のかしげ方、どこをとっても申し分のない春日澄の笑顔。製造工程を知る者は本人以外にいない笑顔である。
「うん、見に行くね」
・
その夜。
春日澄は自室にいた。
スキンケアを済ませ、明日の服も二案まで絞った。あとは寝るだけ、いつも通りに設計された夜。
のはずだったのだが、気がつくと、澄はクローゼットの前に立っていた。
いちばん奥の引き出しを開ける。
畳んだストールの下から、薄い布に包まれた、平たくて堅いものを取り出す。
布をほどく。
白いマット仕上げの台紙。銀の飾り箔。
もう一度見る覚悟がまだ無い。いつか自分でそう言った。実際、あの日からこっち、一度も開いていない。開かないまま、手放しもしないまま、この一枚は引き出しのいちばん底で、ずっと澄と一緒に暮らしてきた。
澄はベッドの縁に腰を掛け、膝の上でゆっくり表紙を開く。
・・・変わっていなかった。
写真の中には、あの日のままの女の子がいた。
作らなかった顔。作れなかった顔。凛として澄んでいて、どこか危うい。
こんなに美しいこの子は、世界そのものから愛されているに決まっている――見る人間にそう確信させてしまうあの力も、そっくりそのまま残っている。
ほんのふた月ばかり前の写真なのに、ずっと昔からそこに納められていた聖画のような顔で、写真の中の春日澄は、こちらを見ていた。
澄の胸の奥が、ぐわりと揺れる。
布に包んで、引き出しの底に封印して、開く勇気が出るまでにふた月かかって・・・。そうして開けば、やっぱりこうして揺さぶられる。それだけの何かが、この紙の上には定着されている。
真奈は。
真奈はそれを、ノートに貼っている。何枚も、何十枚も。そして毎日開いて、めくって、稽古場に持ち込んで。
「・・・真奈」
唇から、声がこぼれる。
「真奈は・・・」
その先は、言葉にならなかった。
誰にも届かない独り言が、部屋の灯りの下に落ちて消える。
膝の上では、写真の中の女の子だけが、変わらず世界に愛され続けていた。




