第二章 前夜
さて、前章は春日澄の肩越しにものを見ていたわけだが、ここらで一度、カメラが向く先を替えさせてもらおうと思う。
というのも、これから「撮られる側」になる女の子――小夏真奈という人物のことを、読者諸氏にもうちょっと知っておいてもらわないと、あとあとこちらが困るなあ、というのが正直なところなのである。撮られる人物が何を考えていたか、なんてものはまあ、写真には写らない。写真に写らないものまで書けてしまうのは文章の良いトコロで、ひょっとすると唯一の取り柄かもしれないわけだが、その良いトコロをば存分に行使させて頂き、かの真奈ちゃんについていろいろ知ってもらおうというわけである。
ということで、小夏真奈のお話。
・
小夏真奈は、演劇学科の二年生である。
明るい。よく笑う。思ったことが、思った直後にもう口から出ている。脳と口のあいだに関所がないタイプだ。春日澄が「言葉を選ぶ」ことに人生の何割かを費やしているのとは、まったく逆の人種である。だからこの二人が親友なのは、まあ、世界のバランスってものなのだろう。砂糖と塩だってキッチンの棚で、ツボに入って隣同士仲良さそうにしている。
その真奈には、このところ二つばかり、本人を地味に苦しめている問題があった。
ひとつは芝居のこと。
真奈は舞台が好きだった。
台詞を覚えるのも、稽古場の汗っぽい匂いも、床に貼られたバミリのテープも、幕が開くと同時に、バトンに並ぶサスペンションライトが一斉に光る瞬間も好きだった。だが最近、自分でもわかっている。自分はいつも、同じような役を振られる。
明るい子。
健気なヒロイン。
元気な町娘。
お調子者の主人公の妹。
商店街の看板娘。
真奈は、明るくてかわいい良い子の役なら、めっぽう上手い。そのへんをやらせると、客席の前側三分の一くらいまでが真奈を見て「良い子だなあ」という、自慢の孫娘を見るおじいさんみたいな顔になる。そして、稽古のあとに同期に「小夏はいいよね、素でいけるから」なんて言われる。
だが、役者が素でいける役ばかりやってていいのか。
影のある女。腹に一物ある女。ましてや人を欺く女。そういう役を振られると、真奈はよくわからなくなる。難しい心の内面を考えるのは得意ではない、しかもそれを演じるとか。そして真奈の芝居は途端に「明るくてかわいい良い子が、影のある女のフリをして頑張っている」になってしまう。
本人の中に芝居の引き出しが、そもそも無いわけである。いや違う、あるのは空っぽの引き出しだ。明るくかわいく元気よく開けても、中からは何も出てこない。
教授も同期も、口を揃えてこう言う。
「小夏は、素はいいんだけどねぇ」
褒められているような、見限られているような。真奈にもそれはわかってきているのだった。わかってきたから、近頃はたまにしょんぼりもする。まあしょんぼりしても三分くらいで忘れるのが真奈の偉いところだ。
そしてもうひとつ。これがまた、当面のわりとのっぴきならない問題だった。
小夏真奈は、絶望的に写真写りが悪い。
ふだんの真奈は、小柄で丸顔で、目が大きくて、まあ平たく言えばかわいい。小動物系というやつである。黙って座っていれば仔犬か仔猫か、笑えば向こう三軒両隣が明るくなる。
ところが、カメラを向けられた瞬間、この仔猫はなぜか毛を逆立てる。「かわいく写らなきゃ」と思った刹那、目がかっと見開かれ、肩が上がり、表情がぴしっと固まる。本人は微笑んでいるつもりなのだが、レンズの向こうに残るのはたいてい「重要参考人」か、「知ってはならない何かを知ってしまった人」みたいな顔である。
証明写真機にいたっては、もう真奈の宿敵といっていい。あの個室に入ると、真奈は百発百中で「昨夜なにかありましたか?」の顔を量産する。先日も大学最寄りの証明写真機で、四枚撮りの出てきたシートを見て、十秒ほど黙祷した。本人いわく「指名手配のポスターみたいだった」。自己評価としては、なかなかに正確な所である。
そして厄介なことに、写真写りが悪いことを自覚してしまってからこっち、写真を撮られる度「今度こそかわいく」と力む癖がついてしまった。力むからまた写りが悪くなり、つまり負のスパイラルというやつである。こいつはぐるぐる回りながら、回るたびに少しずつ真奈を指名手配犯に近づけていく。
察しのいい読者は、ここでもうお気づきかもしれない。
舞台で「素の自分」しか出せないことと、写真で「かわいく見せたい自分」を出せずに固まること。この二つ、実に根っこが同じである。
真奈は、「自分で自分の見せ方を決める」ということが、どうにも苦手なのだ。これでも女優の卵だというのに。まあ台本があって、演出がついて、「ここはこう」と外から指示されれば、なんとかそれに乗ることくらいはできる。だが、自分一人で「こう見られたい」と意図した途端、体がついてこない。
――この点において、真奈は春日澄のちょうど裏返しである。澄は見せ方を作りすぎている。真奈は見せ方をまるで作れない。鏡をはさんで向かい合ったような二人、互いに逆向きの。
もっとも、当の真奈本人は今の所、そんなコ難しい鏡像構造になど一ミリも気づいていなかろう。澄の方はどうかって? 彼女の方はなんとなく判っているのかもしれない。
・
さて、で、先ほど言った通り、その写真が喫緊の問題なわけである。
来月、真奈はとあるオーディションにエントリーするつもりでいる。学外の、ちょっとした舞台のキャスティングだ。エントリーには当然のように真奈の写真がいる。バストアップと全身。役者の卵にとって、そういう写真というのは履歴書の証明写真かつ、同時に店先のショーウィンドウでもある。ショーウィンドウに並ぶのが固まった「指名手配犯」の顔では、客は入って来ない。つまり審査される前に審査が終わってしまう。
自撮りで何とか出来ないかな、と足掻いた顛末は、前章で澄が付き合わされた通りだ。そして澄はどの写真でも完璧に春日澄だったが、真奈はどの写真でも「猫が飛び出してきた人」だった。宇宙の不公平さを見せつけるような写真達の前に、真奈の嘆きは止むことがなかった。
その真奈に救いの手が ―――正確には、救いの手に見えるような何かが差し伸べられたのは、その日の午後である。
次の講義へと移動のために廊下を歩いている時、真奈のスマホがぴこんと鳴った。澄からのメッセージだ。
『お願いできることになったよ』
真奈は廊下のど真ん中で立ち止まり、両手でスマホを掲げ、しばし画面を拝んだ。それから猛然と親指を動かす。
『えっほんと!? やった! すみちゃん神!! 大好き!!』
『 秋山くん、撮ってくれるの!?』
『 いつ!? どこで!? なに着てけばいい!? お礼どうしよう!?』
矢継ぎ早に三連投。澄からの返信はいつも通り、簡潔である。
『落ち着きなさい』
『着るものは、また連絡する。お礼はとりあえず気にしなくていいわよ。プロじゃないし、練習も兼ねてだから
段取りは秋山くんと直接やりとりして。連絡先つないでおくね』
そうして澄は、真奈と庄三郎を、三人のトークに放り込んだ。
澄としては、ここで自分が間に立って一通一通取り次ぐのも面倒だし、何よりまあ、真奈と庄三郎が直接やりとりする様子を、なんとなく自分の目の届くところに置いておきたかった、というのもある。
善意である。たぶん。
善意というのは、ときどき、地雷の上にきれいに敷いた絨毯みたいなものになったりする。地獄への道にも敷きつめられてるって言うし。
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三人のトークに放り込まれた真奈は、初対面の礼儀というものを三秒ほど守った。
『はじめまして! 小夏真奈です! 演劇学科の二年です!
すみちゃんの友達です! このたびはほんとにありがとうございます!!』
律儀に「!」を全文に添えてある。これでも本人としては相当かしこまっているつもりである。庄三郎からの返信は、対照的に簡素だった。
『秋山です。どうも
真奈ちゃんね。澄から聞いてる。元気な子だって』
『元気しか取り柄なくてすみません!』
『 あっでもそれで言っとかないといけなくて
私、めちゃくちゃ写真写りが悪いんです
カメラ向けられると顔が石になります』
『たぶん撮ってる途中で秋山くんが困ると思うので先に謝っときます
ごめんなさい!!』
撮られる前から謝罪する被写体というのも、なかなか珍しい。庄三郎は学食の隅で、きつねうどんの汁を一口すすってから、ゆっくりと返した。
『石になるって、具体的にどうなるの?』
『目をめいっぱい見開いて、肩が上がって、息が止まります
あと「かわいく写ろう」って思った瞬間に余計ひどくなります
カメラに生まれた村を焼かれたんだと思います。覚えてないけど』
庄三郎は、しばらく画面を眺めて、それから「ふむ」と声に出した。隣の席の学生が一瞬こっちを見たが、気にしない。
頭の片隅で、いつぞやの藤堂嶺の言葉が再生される。『その子が固くなるタイプなら、撮る前にしゃべらせるといい』。プロというのは、ちゃあんといいことを言うものだ。そして、真奈はどう考えてもしゃべるのが得意な部類である。むしろ黙らせるほうが難易度が高そうだ。
ということは、たぶん、なんとかなる。
『わかった。なんとかなると思う
変に頑張って良く撮られようとか意識しなくていい。こっちで勝手に撮る』
『それで、撮るのに、真奈ちゃんのことがよく知れると助かるんだ。真奈ちゃんのこと、いろいろ教えて欲しい。撮られる時、自分の事、いっぱいしゃべってくれるか』
『いけます!! しゃべるのは得意です!! 無限にしゃべれます!!』
『じゃあ大丈夫だ』
とまあ、あっさり「大丈夫」と言われたものだから、真奈はおよよ? と拍子抜けし、それからじわじわと嬉しくなった。なにしろ真奈の人生において、今まで「写真」と「大丈夫」という二単語が、こんなにくっついて出てきたことは記憶にない。「写真」のあとには「変な顔」とか「また失敗」とか「もう無理」とか、そういうのがたいてい続くものだったのである。
段取りは、その晩に少し通話をして決まった。
庄三郎の声は、電話越しでもやっぱりどこか気怠げで、しかし真奈の「あれもこれも」という不安を、ひとつずつ「それは要らない」「それも要らない」と剥がしていった。
「服はオーディション用なら、役っぽくしすぎないほうがいいって、知り合いのプロが言ってた。素の延長くらいで、白かグレーの背景に合う色」
「なるほど。じゃメイクは?」
「いつも通りでいい。盛らなくていい。っていうか、盛ると逆に固くなるタイプだろ、真奈ちゃん」
「なんでわかるんですか」
「話聞いてると、なんとなくそうかなと思って」
そのへんは半分当てずっぽうだったのだが、だいたい当たっていた。庄三郎という男は、人を撮るのは苦手だとか言い張るわりに、人のことをよく洞察出来たりする。なにかと人をよく見ているのだろう。本人はそれを意識はしていないだろうが。
場所は、写真学科棟の小スタジオ。日取りは、今度の土曜の午後。
澄が、「ブスに撮ってくれ」と頼んで、そして――まあ、その後いろいろあったあの部屋である。まあ真奈はそんないきさつは知らないが。
通話の最後に、真奈は元気よく言った。
「土曜、楽しみにしてます! よろしくお願いします、秋山くん!」
通話を切ったあと、真奈はベッドの上で枕を抱えて足をばたつかせた。久しぶりに、なんだか前向きな気持ちになれた。次のオーディションはいけるかもしれない。指名手配犯じゃない私で勝負できるかもしれないし。
まったくもって、健やかな期待である。
・
さて。ここでもう一度、カメラの向きを、ちょいと替えさせてもらう。
今度レンズが向くのは、春日澄だ。
真奈と庄三郎との間で撮影の日取りが話し合われた、その更に数日後、撮影前日の夜。
春日澄は、自室のベッドで天井を見上げていた。
いつもの澄なら、とっくに丁寧なスキンケアを済ませ、明日の天気と予定に合わせて服の組み合わせを二案ほど用意し終えて、健やかな美容睡眠に入っているはずの時刻となっていた。春日澄の夜は、昼と同じくらいきちんと設計されている。
なのに今夜は、どうにも眠れない。
眠れない理由は、自分でもよくわかっていた。
――あの一枚。
六切りの台紙に装丁された、あの写真。
いまも自室の、クローゼットのいちばん奥の引き出しの、そのまたいちばん下に、薄い布に包んでしまってある。あれから一度も開いていない写真。あの一枚。
澄にとってそれは、たとえば恋よりもずっと質が悪い、そんな何かだった。
だが澄は、溺れることはなかった。細いロープの上で、片足で、踏みとどまれた。あの時には。
その澄が、今夜、はたと思ってしまったのである。
――真奈は、どうなるんだろうか。
澄は、暗い天井に向かって、ゆっくりと息を吐いた。
考えてみれば、というか考えるまでもなく、真奈は澄とは正反対の子である。
澄は、自分の姿を作り込み、制御してきた人間だ。
だが真奈は、そもそも自分を制御する、という発想が薄い。考えて逡巡するということがまずない。好きになったら好きになる。楽しかったら楽しい。危ないと思う前にもう飛び込んでいる。崖があることに気づかないまま、明るく鼻歌など歌いながら、崖の縁を歩いてしまえるタイプの子なのだ。
もし真奈が、あの一枚と同じ質の写真を撮られたら。
もし真奈が、写真の中の「知らなかった自分」に出会ってしまったら。
――あの子は、溺れないでいられるんだろうか。
澄は、ベッドの中で寝返りを打った。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。ただの、オーディション用の宣材写真だ。庄三郎だって「普通に撮る」と言っていたじゃないか。あんな写真が、そう何度も誰でも撮れるわけがない。
・・・でも、
でもあれは、「狙って」撮れた写真ではなかった。
だとしたら、「普通に撮る」つもりの庄三郎が、「普通に」あれを撮ってしまわない保証はどこにもない。
澄は枕元のスマホを手に取った。
時刻はもう、まともな大人がメッセージを送る時間ではない。
それでも指は動いていた。
・
真奈のスマホが、ぴこん、と鳴ったのは、ちょうど真奈が、明日着ていく服を三回ほど着替えては鏡の前でくるくる回り、結局澄に選んでもらった案に落ち着いて、満足してベッドに潜り込んだ直後のことだった。
『真奈、まだ起きてる?』
『起きてるよー! 明日が楽しみすぎて、ドキドキして眠れない!』
『あのね』
『うん?』
『明日の撮影、やっぱり、やめといたほうがいいかも』
真奈は、画面を二度見した。三回程まばたきもした。
それから通話ボタンを押した。文字でやりとりするには、この話はちょっと急すぎる。
『すみちゃん!? どしたの急に!?』
『・・・ごめん、こんな時間に』
澄の声は、いつもより少しだけ低い。
『やめといたほうがいいって、なんで? もしかして秋山くん、都合悪くなった?』
『そうじゃないんだけど』
『じゃあなんで!? すみちゃんが紹介してくれたんじゃん!』
ごもっともである。
『それにもう、オーディションのエントリー出しちゃったんだよ。写真要るの。今さらやめたら、私、また証明写真機と格闘する事になっちゃう』
『それは・・・』
『指名手配犯の私で勝負しろっていうの!?』
そう言われ、澄も少々ひるむ。真奈と証明写真機の長年の因縁を、澄はよく知る目撃者でもあるのだ。
澄は唇を噛んだ。
言いたいことははっきりしている。
―――彼に撮られると、自分の意識が変わってしまいそうになるくらい、綺麗に撮られちゃうかもしれない。綺麗すぎて、怖くて、もう一度見られないような写真を、撮られてしまうかもしれない。
でも、そんなこと言える?
それに、それを言うには、「私もそうやって撮られたことがある」と白状しなければならない。澄が自分の写真を「ブスに撮ってくれ」と頼んだことも、その果てに何が起きたのかも、その他もろもろも、ぜんぶ棚から引きずり下ろすことになる。そして仮に洗いざらい話したところで、真奈にあの感覚が伝わる保証などどこにもない。
だから澄は、安全圏のぎりぎり内側で、こう言うのが精一杯だった。
『彼ね、ちょっと、綺麗すぎるくらいに撮っちゃう、ことがあってね』
受話口の向こうで、真奈が息を吸う音がした。
澄は一瞬、伝わったかと思った。
そんなわけはない。
『そうなの!?』
真奈の声が、ぱあっと跳ねた。電話越しでもわかる、あの破壊力のある「ぱあっ」である。
『すごい! じゃあ私も綺麗すぎるくらいに撮ってもらえるってことだよね!?』
澄は、天井を見上げて、たっぷり1秒半、無音になった。
・・・あー。これは。これはたぶん、ハンドルの切り方をまた間違えた。
『え、いや、ほら』
澄は慌てて軌道修正を試みる。
『オーディションってさ、あんまり綺麗すぎると、本人と印象が違うとか、かえって良くないこともあるんじゃない? 会ってみたら写真と別人、みたいな』
我ながら苦しい言い様。
ところが真奈は、けろりと言ってのけた。
『えー、そんなの、印象悪いブスより、ずーっとマシだよー』
ぐうの音も出ない。澄は声に出して「ぐう」と言いそうになった。
正論である。残酷なくらいの正論である。なんせ基準点は「指名手配犯」である。「綺麗すぎて別人」のほうが、まあ何にしたって上等に決まっている。
『わー、どんな風に撮ってもらえるんだろー』
真奈の声は、完全に明日の遠足を待つ子どもになっている。
『綺麗な私、はやく見てみたいなあ。ねえすみちゃん、秋山くんって、すみちゃんのことも撮ったことあるんでしょ? すみちゃん、綺麗に撮れた?』
澄の心臓に、ちくりと細い針が刺さる。
『・・・どうだったかな』
澄はいつもの「春日澄」の声で受け流した。
『忘れちゃった』
『うそだー、ぜったい綺麗に撮れてるくせにー』
澄は目を閉じた。
引き止めるつもりの電話だったはずが、いつのまにか、真奈の期待を、自分の手で煽り立てる電話になっている。坂道に転がした球を止めようと手を伸ばしたら、その手で球をもう一突きしてしまった。
『・・・うん。まあ、楽しみにしてればいいと思う』
『うん! ありがと、すみちゃん! やっぱり持つべきものは親友だよ! おやすみ!』
ぷつ、と通話が切れた。
澄の手に、急に静かになったスマホが残される。
・
残された澄は、しばらく天井と睨めっこをしてから、もう一人、まだ起こせる相手がいることを思い出した。
起こすというほど夜更けでもない。が、まっとうな学生がまっとうに起きている時間はちょっと過ぎようとしている。ただ庄三郎は、寝ているときは真昼間でも置物のように寝ていて、起きているときは夜昼とか関係なく何かを撮っている、生活時間の予測が難しい男である。
まあとにかく、澄はダメ元で庄三郎にメッセージを送った。
『夜遅くにごめん』
『明日の撮影、やっぱりやめない?』
返信は案外すぐに来た。起きていたらしい。
『えっ、今さら? なんで?』
『藤堂さんに相談までしたのに?
真奈ちゃんとも段取り全部決めたぞ。明日の午後。服も背景も話した』
ぐうの音も出ない。本日二度目である。
澄は、布団の中でちょっと丸くなった。
『・・・なんとなく』
『なんとなくって、お前らしくないな』
『あのね、あんまり、本気で撮らないでほしいの
普通の、普通の写真で。凝ったライティングとかしないで』
『何を心配してるのか知らんけど
オーディション用の写真だぞ? 普通に撮るに決まってんだろ』
・・・それはそうなのだ。それは、まったくもって。
澄は、自分が何を危惧しているのか、うまく言葉にすることが出来なかった。
しばらく考えてから、
『そうよね』
『うん、ごめん。変なこと言った。忘れて』
『おう。じゃ明日』
澄は、スマホを枕元に伏せて置いた。
天井の暗がりに向かって、もう一度息を吐く。
大丈夫。たぶん大丈夫。考え過ぎ。私以外はみんな、何も心配してない。庄三郎も、真奈も。
それに。
澄は考える。
もし、真奈があの写真みたいな写真を撮られてしまったとして。
あの、自分の美しさに打ちのめされて、引き摺り込まれてしまいそうになるような写真を撮られてしまったとして。
じゃあ、そのまま引き摺り込まれてしまうことの、何がいけないというのか。
眠りは、その夜、ずいぶん遅くにやってきた。
・
そして朝が来た。
夜が明ければ、前夜は前夜でなくなる。あたりまえの話だが、このあたりまえが、世の中でいちばん残酷なルールである。どんなに眠れない夜を過ごしても、朝は判で押したようにやってくる。時間というやつは、人の気持ちを一度も忖度したことがない。
澄はその朝、ひとつの作戦を立てた。
名付けて「先回り作戦」。撮影の時間より、だいぶ早く小スタジオへ行く。そして真奈が来たら、青い顔でこう言うのだ。「ごめん、何かちょっと体調が悪くて」と。澄が倒れそうな顔をしていれば、優しい真奈はきっと心配して、撮影どころではなくなって自然に中止となる。完璧な作戦。
・・・我ながら、ずいぶん回りくどい上にずいぶん往生際の悪い作戦だ、とは思う。だが正面から「やめよう」と言って通らなかった以上、搦め手で行くしかない。家に正面から逆らわず、写真という搦め手で抵抗したあの縁談のときと、同じ方向性である。
澄はいつもより念入りに「春日澄」を組み立て――今日は「ちょっと具合の悪そうな春日澄」という難しい注文なので、いつもより十分ほど余計にかかった――家を出た。
写真学科棟の小スタジオ。
澄が、息を整え、いかにも「体調の優れない人」の顔を作りながらドアを開けると。
「すみちゃーん!」
もう、真奈がいた。
めちゃくちゃ早い。約束の時間より、たっぷり三本ぶんは早い電車で来たに違いない。それくらい楽しみにしていたのか。
澄が「体調が」の「た」の字を発音するより早く、真奈は弾丸のように駆け寄ってきて、ぼふっと澄に抱きついた。
「来た来た来た! えへへ、緊張しちゃって、ちょー早く着いちゃった! ねえねえ、髪これで変じゃない? 服はすみちゃんが選んでくれたやつにしたよ! どう、どう!?」
くるりと回ってみせる真奈は、警戒心という単語を母国語に持たない国の人だった。疑いの「う」の字もない。澄が何のために早めに来たのか、想像すらしていない。ただひたすらに晴れやかである。
その晴れやかさをまともに胸で受け止めてしまった澄は、用意してきた台詞を喉の奥でそっと畳んだ。
この満面の笑顔の前で嘘を口にできる人間がいるなら、ちょっと心が頑丈すぎる。少なくとも、澄には無理だった。
「・・・うん。似合ってる。すごく」
「ほんと!? やったー!」
先回り作戦、失敗。
・
庄三郎が来たのは、それから十分ほど後だった。
黒いカメラバッグを肩に、相変わらず気怠げな足取りで、しかし機材を運ぶ手つきだけは妙に確かで、ぬっと現れる。
「お、来てたか。早いな」
「秋山くん! 今日はよろしくお願いします!」
真奈がぴしっと頭を下げる。庄三郎は「おう」と気の抜けた返事をしながら、機材を作業台に下ろし始めた。
その隙を見て、澄がすっと庄三郎の袖を引いた。スタジオの隅、機材棚の陰のあたりまで、ぐいぐい引っ張っていく。
「ちょっと」
「なんだよ」
「あのね」
澄は、声をひそめた。真奈には聞こえないように。
「あんまり、本気で撮らないでよ」
「・・・また昨日の話か」
「普通でいいの。ほんとに普通の写真で。背景も白で、ライティングも凝らないで、変なこと考えないで」
「変なことって何だよ」
「とにかく普通に。普通の、ありふれた、どこにでもある写真。それだけ」
庄三郎は、機材棚の陰で、片眉を上げて澄を見た。
「・・・お前さ」
「なに」
「何をそんなに心配してんのか、俺にはさっぱりわからんけど」
庄三郎は、肩をすくめた。
「オーディション用の写真だぞ? 普通に撮るに決まってんだろ。凝ったってオーディションの審査員が困るだけだ。藤堂さんにもそう言われてる。背景は白かグレー、表情は作り込まない、本人の雰囲気がまっすぐ出てるのがいちばんいい、ってな」
筋が通っている。一分の隙もなく。
澄は何か言い返そうとして、結局何も言えなかった。庄三郎は正しいことしか言っていないし、澄が恐れていることは、正しさの外側にある説明のつかない何かなのだ。
「・・・わかった。普通でね」
「おう。普通でな」
庄三郎は、それ以上は問わなかった。
この男は、踏み込むべきでないところには踏み込まない。ずぼらなのか優しいのか。だが、澄が言いたくないことを言いたくない、という顔をしているのをちゃんと見て、見ないふりをしているのか。
・
準備は淡々と進んだ。
庄三郎が、白い背景紙を引き下ろす。スタンドの位置を決め、ライトをひとつ、斜め上からの素直な位置に据える。本当に凝ったことは何もしない。澄の注文通りの、ありふれたどこにでもあるセッティングである。澄は機材棚の脇に立って、その手つきを落ち着かない目で追っていた。
庄三郎は、カメラバッグから、いつもの重厚なカメラボディを取り出した。それから当たり前の手つきで、一本のレンズを選び出す。
銀色のフードの付いた、大きな眼玉そのもののようなあのレンズ。
庄三郎にとってはただそれだけのことだった。機材棚の手札の中から、人を撮るのに一番向いたレンズを、普通に一本引き抜いてきただけ。
ガチャリ、と。レンズがマウントに取り付けられる。
澄は、その音を聞いた。背筋をなにかすうっとしたものが通る。だが「そのレンズはやめて」――そう言うには、あまりにも多くを説明しなければならない。それを口にしようと躊躇う時間すらなく、
「じゃあ、撮ってもらうね! よろしくおねがいしまーす!」
そう言いながら、真奈が晴れやかに一歩前へ。
「真奈ちゃん、そこ立って。背景紙の真ん中。うん、そのへん」
「はーい!」
ぴょこんと白い背景の前に立つ、小柄で、丸顔で、目が大きくて、警戒心のかけらもなくて、ただひたすらにこれから何かいいことが起きると信じている顔。
「肩、楽にして。写真撮られようとしなくていいからな。さっき言った通り、勝手にしゃべってくれ」
「わかった! えーっと、何しゃべろう。あ、今朝ね、緊張して朝ごはん喉通らなくって」
「ははは。まあ腹いっぱいでぽんぽんぷっくり、より良く写るだろってもんだ」
「えへへー、そういうののつもりはなかったんだけどな―――」
澄は、それを、少し離れた場所から見ている。
止められなかった。昨日の夜も、今朝も、たった今も、ぜんぶ止められなかった。自分で紹介して、自分で連れてきて、そして今、自分は隅っこで、ただ見ている。
真奈は白い光の中に立っている。
無邪気に、まっすぐに。
・
――さて。
ここで章を閉じるのは、いささか意地が悪いタイミングかもしれない。
なにしろ、まだシャッターは切られていない。
普通に撮るだけだと庄三郎は言った。実際、せいぜいこれはただの宣材撮影、ここから先に起きることといえば、写真写りの悪い女の子がちょっとマシに撮れる、それだけの話のはずである。
春日澄が隅で唇を結んでいる。その理由を真奈は知らない。
白い光の中で、真奈が笑う。
そして庄三郎の指が、すっとシャッターに触れる。




