第一章 自撮り
春日澄の縁談が、ひとまずめでたく流れてから、一月と少し。
大学は初夏になっていた。学食には冷房はまだほとんど入っていなかったが、冷やし中華はしっかり始まっていて、「はじめました」と決まり文句が書かれたポスターが学食の入口のスタンドに張られている。
その日の昼 学食のテーブルについた澄は、しかし冷やし中華でなく冷しゃぶうどんを前にいただきますを言おうとしていた。どうもこの学食のつゆやうどんだしの味は、新学期になってから顕著においしくなっている気がするのだ。
「すみちゃん! やっぱりお願い! 自撮りかわいく撮る方法教えて!」
小夏真奈がスマホを握りしめて、そんなことを言いながら隣の席に滑り込んできた。相変わらず声が大きい。澄は条件反射で「もう少し小さい声で」と言いかけ、しかし真奈の切実そうな顔を見て、ひとまず続きを促すことにする。
「どうしたの、急に」
「急じゃないよ、前にも話したじゃん! 見てほら見て!」
差し出された画面には、澄と真奈のツーショットが何枚も並んでいた。
澄はどの写真でも、顎の角度も、口角も、目線の流し方も、たいへんよく出来ている。申し分なく春日澄である。対する真奈はといえば、どの写真でも目がはっしと見開かれ、肩がわずかに上がって、かわいらしい顔立ちが「夜道で目の前に急に猫が飛び出してきた人」みたいになっている。人間の方が毛並みを逆立てた猫みたいになるあれ、あんな感じである。とくに悪意があって変な顔を作っているわけではない。「かわいく写りたい」と意識した瞬間、顔が固まるタイプの人間なのだ。
「なんで、すみちゃんはこんなにかわいく撮れてるのに、私はこんななの!?」
「こんなって」
「ブス!」
「そこまで言ってないでしょ」
「言ってないけどさ、写真が言ってるもん! 不公平だよ! 宇宙の対称性が破れてるよ!」
「・・・大きく出たわね、ノーベル賞狙う気ね」
真奈はスマホの画面を指でぴっと弾き、さらに三、四枚見せた。どれも傾向は同じである。澄は完璧に可愛くて、真奈はどうにも少し力んでいる。その少しが写真ではなかなか大きい。
「ほらほらっ、すみちゃんってばかわいすぎるんだもん!」
それらは澄が、撮られる瞬間の自分の扱い方を知っている、ということではあった。どのくらい横を向けば頬がすっきり見えるのか。どのくらいの俯角で撮れば目が大きく形良く見えて、でもやりすぎにならないか。そしてどのくらい口角を上げていれば愛想がよくて安っぽくならないか。
つまり、春日澄は自撮りが上手いというか、自分が撮られる姿を調整するのが上手いのだ。
あとはまあ実は、「澄のほうが撮って、少し整えて真奈に送っている写真が半分程混ざっている」というのもある。「これ、かわいく撮れたから送るねー」と素知らぬ顔で加工済をAirDropするアレである。
色味。光。肌の質感。やりすぎず、しかしやらないより確実に良くみえるあの薄~い補正。「加工しました」に見える一線を越えないように世界を撫でる、地道で執念深い作業を経た自撮り写真達。
で、最終的にどういう話かというとつまりだ、親しい友人に向かって、そうね私は日々うっすらばっちり加工してたりもするし角度も秒で計算してるのよあんたもやんなさいよ。などと澄が素直に告白できたりするわけはないのだなあ。という話なのだった。うんうん。人間関係には、うっかり明かすと死に直結する秘密っていうものがあるのだ。
うん、これはどうもまずい。
澄の頭の中で警報が響く。
まずい。この流れはまずい。
まずいまずい、まずいまずいまずい。頭の中でまずいを繰り返し過ぎて、だんだんまずいがゲシュタルト崩壊してきた。
あぁまずい、まずいまずいまずいまず、いまず? 西北からヒゲみたいに下に延びてるやつ? それは阪急今津線だ。澄の思考が現実放棄をしはじめた。もっと言えば今津南線だ。阪急で唯一阪神みたいな雰囲気の方。そのせいで(?)有川先生の「阪急電車」の舞台にしてもらえなかった方だ。いやなんの話だ。助けて誰か。
「ちょっとそれ貸して」
「おっ、師匠!」
「師匠はやめなさいよ」
澄は真奈のスマホを奪い取ると、インカメラを起動した。真奈を自分の隣に寄せる。
「少し顎引いて。肩の力抜いて」
「こう?」
「もっと自然に」
「自然ってなに!?」
「そんなこと考え始めたらもう不自然じゃないの! ほらもっと肩をさげて首筋から力抜く! 出来るでしょ演劇学科生!」
学食の窓の方に体をずらし、光の向きを見て、澄は一枚撮った。
さっきよりはだいぶ良かった。真奈の力みも少し抜けている。だが、それでも澄の隣に並ぶと、どうしても真奈だけが「いつも応援してくれるファンの皆さんへ、報告しなければならないことがあります」みたいな顔にみえる。
「ほら、前よりいい」
「うーん・・・やっぱりすみちゃんだけ完成度高くない?」
「気のせい」
「ぜんぜん気のせいじゃないとおもう!」
真奈は唇を尖らせ、それから急に真面目な顔になった。
「えとね、困ってるの。来月のオーディションのエントリー、また写真がいるんだけど、ほら、証明写真機で撮ると私、毎回『昨夜なにかありました?』の顔になっちゃうし」
「ああ・・・」
「で、自撮りで何とかなるならしたいんだけど、なんか、すみちゃんみたいに撮れなくって」
やはりどうにもまずい。真奈には申し訳ないが、これ以上の深追いをされると大変にまずい。追い込まれ様によっては、何でどこをどう直してるの、とかいう話まで行きかねない。春日澄が日々どれだけ「天然かわいく見える人工」を積み上げているか、そんなことがばれるというのは、もはや尊厳と人格的品位の両方に関わる。
だから澄は、いつもそうするように、話題を別の方向へ滑らせることにした。
実際、ほんの少し滑らせるだけのつもりだった。だが坂道に転がした球がどこまで転がるかなんて、転がした人間にすらわからないものだ。なんなら転がされた球自身や坂道に聞いてみてもわからんと言うだろう。
「ねえ、真奈」
「うん?」
「自撮りって、頑張ってもそんなに劇的には変わらないと思うの」
「そんなこと言わないでよー」
「うん、でも。自分で自分を撮るのって、角度とか光とか、どうしても限界があるでしょ? 自分で頑張るより、上手い人に頼んで撮ってもらうほうが、ずっといいんじゃないかなぁ」
「上手い人・・・すみちゃん?」
「わたしは今撮ってみたでしょ。そうじゃなくて、プロのカメラマンさんとか・・・が無理なら、写真部とか、写真学科の人とか。真奈、そういう知り合いいない?」
「うーん、写真学科かぁ――」
「自撮りを頑張るより、写真撮るの上手な人に撮ってもらうほうが早いでしょ。そういう人なら、光の当て方とか角度とか、ちゃんとした撮り方分かっているだろうし」
「うん。そっかも。あっ、そういえばさ!」
真奈の顔がぱっと明るくなる。
その明るさを見た瞬間、澄は少しだけ嫌な予感がした。そしてだいたいそういうのは、予感がした時点ですでに遅い。
「こないだすみちゃんと一緒にいたあのひと、写真学科だって言ってたよね?」
「・・・あのひと?」
「あのなんかちょっとだるそうな。あきやま・・・くん?」
ぴ、と澄の背筋が一瞬伸びた。
加工の話題に追い詰められそうになっていた澄の脳が、側面から思いっきりはたかれた為であろう。
「うえっ?」
「ほら、前、そこの学食裏のベンチで、すみちゃんと話してた。」
「あ、うん・・・あき、秋山くんね」
「あきやまくん。フルネームなんだっけ」
「・・・秋山庄三郎」
「シ、ショウ、ザ、ブルースブラザーズ?」
「しょうざぶろう」
「ショウザブロウくん!」
真奈がぱあっと笑った。
真奈の「ぱあっと笑う」にはなかなかの破壊力がある。学食の窓際でこれをやられると、向こう三軒両隣くらいまでのテーブルの男子がそっちを見る。マップ兵器である。澄は1年以上、折に触れこの現象を観測してきている。
「あの人、秋山くん、写真学科なんだよねっ?」
「・・・そうね」
「なら撮ってもらえないかな! 顔知ってるし、すみちゃんの知り合いなら安心だし」
「頼んでみよっか」
「ほんと!? 頼んでくれるの!?」
「うん」
「やったー! すみちゃん大好き!」
真奈は大喜びしている。澄は微笑みながら、側頭葉にじわーっと妙な違和感が沁みていくのを感じた。
(・・・あれ? あれ? 私今、なんであっさり頼むことにしちゃったの? ??)
加工の話を回避しようとして、別の方向に話を流したら、庄三郎のほうに着地した。
まっすぐ地雷を踏みに行くのを避けたと思ったら、あらぬ方向に突っ込んでしまった感じである。正面衝突を避けようとあわてて思いっきりハンドルを切ったら、そりゃ大抵ガードレールか何かにぶつかってしまうのである。
・
その頃、秋山庄三郎は大学裏の自転車置き場のさらに裏から、雨避けの屋根の錆びた後ろ柱をはすに撮っていた。
縁談騒ぎだの、お見合い写真だの、藤堂嶺だの、そういう華やかなようで別に華やかでもなかった一連の事件から一月あまり、庄三郎の生活はなかなか調子よく、すっかり落ち着いて元に戻っている。そして相変わらず人ではないものばかり撮っている。古い建物、塗装の剥げた扉、欠けたガラス、ヒビの入ったコンクリート。そういうものは庄三郎に余計な期待をかけない。撮られたあとで人生をややこしくしてきたりもしない。じつに素晴らしい。
「秋山くん」
後ろから声かけられて、庄三郎はファインダーから目を離した。
澄だった。薄いミント色のカーディガンに白いブラウス。五月という季節に似合う、たいへんさわやかそうな格好をしている。
「お? 春日じゃないか。どしたよ」
「ちょっと頼みがあるの」
「また写真の話?」
「そう。・・・でも私を撮って欲しいんじゃなくて」
「うん?」
庄三郎はカメラを下ろした。
「わたしの友達に真奈って子がいるの。演劇科の」
「ああ、いっぺん会ったかな、確か学食の裏で。あの元気な子」
「元気な子で認知してるのね」
「うん。元気な感じの子だった。ただそれしか印象に残ってない」
「なんか失礼ね。まあ元気な子だけど」
澄はそこで一拍置いてから言った。
「その真奈がね、オーディション用の写真が要るの。プロに頼むと高いし、本人あんまりお金ないからそこまでするのもだし、もし都合がつくなら、撮ってあげてくれない?」
「宣材写真みたいなやつってことか?」
「そうね、そういう感じ」
「俺、人撮るの苦手なんだって知ってるだろ」
「苦手と、撮れるは別でしょう」
「それは褒めてるのか、なんとなく適当に押し切ろうとしてるのか」
「両方」
そこで澄は、小さく、隠しきれない笑みを浮かべた。
「真奈は写真だと固まっちゃうの。撮られるって意識した瞬間、緊張しちゃって、目をぱって見開いて固まっちゃう。真奈の写真、たいていちょっと怖いのよ」
「怖い」
「『昨夜なにかありましたか?』みたいな顔」
「う、前にもなんか言ってたな、そんなこと」
「だから、普通に撮ってくれれば、それで真奈は十分なの。だからその」
「その、なんだ?」
「・・・普通に、普通の写真でね。あんまり凝ったことはしないで、普通の写真をね、普通に撮ってほしい」
「いやそりゃ、お前撮った時はすごい変なこともしたけど、あんなんいつもするわけじゃ」
「そういうことじゃなくて」
澄はいったん視線を斜め上にあげて庄三郎から逸らすと、また戻した。
「ほんとに、本気出さないで。あんまり」
庄三郎は頭を掻く。
真奈の顔は覚えている。学食裏のベンチで澄に駆け寄ってきた、作っていない笑い方をする子だ。ああいう子のオーディションの写真かぁ、と考える。そういうのはただ綺麗に写せばいい、って話とも違うんだろうと思うが、そのへんよく分からない。
「撮るのはいいけどさ。俺、そういう写真撮ったことないぞ。勝手がわからん」
「そこを何とか」
「何とかって言われてもなあ」
庄三郎は何ともなしにぼーっと考えた。
白地にネイビーの文字の名刺が脳裏に浮かぶ。藤堂嶺。
目の前に澄がいたから、連想が働いたのかもしれない。
「あー、藤堂さんに聞いてみるか」
「あの人に?」
澄の声が、ほんの少しだけ硬くなった。
まぁ無理もない。先の縁談の相手である。縁談は綺麗に流れたのだが、人間関係というのは、後腐れがないように綺麗に終わったつもりでも、だいたい紙一枚くらいは残ってしまうわけだ。つまりこんな感じに。
「芸能の人なんだろ。こういうのはプロに聞いたほうが早い」
「・・・そうかもしれないけど」
「電話していいか」
「私に許可取るの?」
「そりゃ一応」
「いいけど」
「俺の部屋にもどれば、たしか机のどこかに名刺放り出してあったはずだ。探せば出てくるだろうから・・・」
澄はまた少しだけ視線を逸らし、それから小さくうなずいた。
「私、番号わかる」
そしてトートバッグからスマホを引っ張り出し、連絡先リストを開いた。
・
庄三郎は、澄が見せる番号を見ながら自分のスマホを叩いた。数コールで相手が出る。
「もしもし、藤堂さんですか? 秋山です。先日、春日さんのお見合い写真を撮った」
『お、誰かと思ったら、君か。どうしたの秋山くん。何かあった?』
「ええと、ちょっと聞きたいことがあって。つかぬことを、って感じなんですけど。あの、オーディション用の写真って、何が要るんですか。どんな感じに撮るのがいいんですかね」
『んんん? オーディション写真? なに秋山くん、そういう仕事でも始めるの? 誰を撮るの? もしかして春日さん?』
ずいぶん話が早い。
庄三郎は何気なくスピーカーモードにした。澄が一瞬、「しなくていいのに」という顔をしたが遅い。
「春日さんじゃなくて、春日さんの友達で演劇科の子の写真なんですけども」
『ああ、よかった』
「よかった?」
『いや、言い方が悪いな。春日さんじゃないなら少し安心したって意味。で、演劇科の子なんだね。なにかのキャスティングのオーディションかな? だったら変に作品っぽくしないほうがいい。白かグレーのすっきりした背景で、顔がちゃんと分かるやつ。バストアップと全身がいるんじゃないかな。指定があると思うよ。表情は作り込みすぎない。本人の雰囲気が見えるのが一番。顔立ちと雰囲気がストレートに出てるのが、オーディション側は一番助かるから』
「なるほど」
『髪や服も、役っぽくとかしないで、素の延長線に見えるくらいがいいよ。あとは、その子が固くなるタイプなら、撮る前にしゃべらせるといい』
「しゃべらせる。うん。しゃべるのは得意な子かも」
『ほんとに?』
「たぶん、はい」
『じゃあ大丈夫そうだね。撮ったら見せてよ。こっちで簡単にチェックも見立てもするし、今後のこともあるなら連絡先交換しとこうか。今かけてきてるこの番号が君のでいい? LINEも交換する?』
電話越しの声は明るく、手際がよく、そして妙に次にやることまで見越していた。芸能の人というのは、話を未来に繋げるのが仕事なのかもしれない。あるいは藤堂嶺がそういう人なのか。
「ありがとうございます。助かります」
『こちらこそ。秋山くんが人を撮るほうに来るなら、僕としては歓迎だし』
「いや、そういう話じゃないんですが」
『まあまあ、そう言わずにね。こっちからもそういう話頼めたらと思うし。じゃあ』
通話が切れた。
「・・・すごいわね、あの人」
「そうだな」
「そうだな、のひと言で済ませるには、だいぶ手際が良すぎるというか」
「そういう世界の人なんだろ」
庄三郎は通話を終えたスマホの画面を消すと、澄を見る。
「ってわけで、藤堂さんにも見てもらえることになった。撮るのはやってみるよ。真奈ちゃんに連絡してくれ」
「・・・うん」
澄はうなずいた。
自分で話を持ち出して、自分で庄三郎の名前を出して、紹介すると言ったんだけれど。けれど、話がするすると引っ掛かりなく前に進んでいく事に、胸のどこかがつっかえる。
「真奈、喜ぶと思う」
「ならよかった」
スマホを取り出す。
LINEを開く。真奈とのトーク画面は、『どうだった!?』『ねえまだ!?』『おーい師匠!』とにぎやかな様子になっていた。
画面を見つめ、澄の指が一瞬だけ止まる。
自撮りの相談から始まった話が、なんかだいぶ変な場所まで転がってしまった。
澄は短くメッセージを打った。
『お願いできることになったよ』
直後、あっというまに返事が来る。
『えっほんと!? やった! すみちゃん神!! 大好き!!』
画面の中で踊る勢いのいい文字を見て、澄は小さく笑った。




