第九章 残像
ここからは第一部エピローグ。
エピローグ、なかなかに便利な章立てである。
本編で起きたあれこれに、ひとまず薄い蓋をかぶせて、「はいここで一段落ですよ」と読者に案内するための、物語的な蓋。蓋というからには中にはいろいろクサいものが入っていたりするわけだが、まあ蓋をしてしまえばすっきり納まった感じだけは出るというもの。そういやぁアレですな、なんで茶壷には蓋がないんでしょうね。ちゃちゃつぼちゃつぼ。
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小スタジオでの一件から、四日ほど経った。
秋山庄三郎は、大学の裏手で、古びたクリーニング屋の古びたトタン壁を撮っていた。壁は当然のように錆びている。昼過ぎの光が庇から斜めに落ちて、その影が壁に長方形を作っている。人間相手と違って、建物は文句を言わない。疲れたとも言わないし、睨んできたりもしないし、「あなたには私はこう見えているの?」などと、写真家の心臓に直接突き刺さる問いも投げてこない。
たいへん付き合い易い被写体といえる。
問題は、ファインダーを覗いている庄三郎のほうだった。
錆びたトタンの壁を見ているはずなのに、庄三郎の眼には、ときどき台紙を胸に抱えた澄の姿がちらついていた。熱を帯びた目。最後に逸らされた視線。その残像。 そう、残像というのは、強く眩しい光を見たあとの目に出る。
困ったものである。
「庄三郎、また地味なもの撮ってるなぁ」
通りすがり、後ろから声をかけてきたのは、写真部の同級生だった。庄三郎はファインダーから目を離さず、
「地味じゃない。こういうのは渋いっていうんだ」
そう返した。人を撮れ、というか新歓ポスターの女子を撮れ、などと言われたりするのが面倒で、近頃は写真部の連中とも、ほどほどの距離を保っている。いまの庄三郎は、「撮ってくれ」と頼まれると、以前より困るだろう。自分の手札の中に、ただのレンズではない何かが混ざっていると知ってしまったから。
シャッターを切る。
トタンの波板は、錆色をなびかせて、なかなかよく写った。
被写体がまじめだと、写真もまじめになるってモノである。
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午後の空きコマに入るころ、庄三郎のスマホが震えた。
『今、少し会える?』
春日澄からだった。
簡潔な文面。余計な記号もスタンプもなし。澄らしいといえば澄らしい。らしくないといえばらしくない。
『会える。どこ』
『学食裏のベンチ。五分だけ』
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ベンチには、先に澄がいた。
薄い水色のブラウスに、淡いグレーのスカート。髪はいつも通り肩のあたりで揃っている。顔も、いつも通りきちんと春日澄だった。眉、肌、唇、笑うときの口角の上がり方まで、よく出来ている。
だが、前は完璧に見えていた筈のその顔に、いまの庄三郎は、なんとなくうっすらと、微妙なボカシ目のようなもの、を感じもするようになっていた。それは、澄が何かに失敗している、という意味ではない。むしろ完璧すぎるからか。写真家という生き物は、厄介なのかもしれない。上等な狸の焼き物を見せられて、「これはどこの土?信楽じゃないよね?」とか言い出すタイプ。化かされてしまえばいいのに。雄山先生叱ってやってください。
「五分だけって言ってたけど、別に十分でもいいぞ」
「五分で済む話しかしないわよ」
「そっか」
庄三郎がベンチの端に腰を下ろすと、澄は正面を見たまま言った。
「あのデータ」
「ああ」
「消してないでしょうね」
「消してないよ」
澄はそれを聞いて、小さく息を吐いた。安心したのか、不安になったのか、その両方か。たぶん、本人にもうまく分類はできていない。
「そう」
「それだけ? データ渡そうか?」
「いい。私が自分で持ってないほうがいいと思う」
そこで澄は言葉を切った。
中庭の木が、風に揺れている。葉と葉のあいだから、四月の終わりの光がまだらに落ちる。遠くで誰かが笑っている。大学という場所は、学生個人の人生になにやらインシデントが起こっても、だいたい関係なく平常運転である。
「・・・あれ、危ないでしょう」
澄が、前を向いたまま言った。
「危ない、って言い方はどうなんだ。と思うが」
澄はそこで、ほんの少しだけ笑った。
その笑みは「春日澄」が設計した笑みより柔らかい。たぶん本人は気づいていない。
「貰ったプリントもね、大事にしまってあるの。あれから開いてない。もう一度見る覚悟がまだ無くて」
庄三郎も、澄の見ている同じ方向を向いたまま、返事をしなかった。
「ねえ、いつか」
澄はそこでまた息を吸う。
「いつか、本当に覚悟が決まったら、また撮ってもらいたい。かもしれない」
庄三郎は澄を見た。
澄はいつのまにかこちらを向いて微笑んでいた。
「かもしれない、だからね。」
「おう」
「今はまだダメ」
いつもの澄の目だ。だが、その奥に、あの日見た危うい光の名残がうっすら残っている。消えないまま、そう、うっすらと。
「そっちは」
「ん?」
「あなたは、もう私を撮りたくない?」
なかなか手痛い質問だった。
春日澄という女の子は、基本的に端正な子だ。折り目正しく、物腰も優美、おおむね上品で綺麗といえるのだが、ときどきこうやって、写真家の急所に針をすっと差し込んでくる。一種の才能かもしれない。
庄三郎は一瞬ぴたりと動きを止めた。そして頭を掻く。
「正直に言わせてもらうと」
「うん」
「撮りたいよ。たぶん」
「たぶん?」
「お前、まだ下に何枚か隠してる顔があるだろ」
澄の目が、少しだけ丸くなる。
「何よそれ」
「そのまんまだ。いつものお前の顔の下に、まだ見てない色がある気がする」
「色って、曖昧ねえ」
「写真の話なんて、だいたい曖昧なんだ」
澄はふうと息を吐き、それから斜め上に視線を向けた。
「・・・変な人」
「知ってる」
二人してクスクスと笑い合う。
「すみちゃーん!」
明るく大きな声が学食の脇の方から掛かった。振り向くと、小夏真奈が手を振りながら小走りにやってくる。元気が服着て歩いているみたいな、澄の友人。いや走ってるけど。
「いたいた。次の授業の前に言っとこうと思って。来月のワークショップの応募、やっぱり出すことにした!」
「え、ほんと?」
「うん。でも写真どうしようかなって。証明写真機で撮ると私、毎回なんか『昨夜なにかありました?』みたいな顔になるんだよね」
それを聞いて、澄が一瞬だけ庄三郎のほうを見た。
真奈はそこでようやく、ベンチに庄三郎がいることに気づいたらしい。
「あ、ごめん、お話中だった?」
「いや、もう終わる」
「終わってないけど、今ので終わったわね」
澄は立ち上がる。
「真奈、あとで詳しく聞くね。応募写真のことも」
「助かるー! ほんと私、写真だけは昔からダメで」
真奈はけろっと笑った。
なんだか、澄とは対照的に、まったく作らない顔で笑う子だな、と庄三郎は思う。
その笑い方を見て、澄は庄三郎に向き直った。
「じゃあね」
「おう」
「データ、ほんとに消さないでよ」
「言われなくても」
澄は小さくうなずくと、真奈と並んで歩いていった。
去り際、真奈が何かを身振り手振り付きで話し、澄が「声が大きいのよ」とでも言いたげな顔をする。二人の背中は、友達の背中だった。そこにさっきまでの危うい会話の影は、いったん見えなくなる。
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その日の夕方、庄三郎は自室でノートPCを開いていた。あの日受け取った名刺が、PCの底板の脇に置かれたままになっている。
カメラから取り出したメモリカードを、PCの側面のスロットに差し込んだ。そのスロットのちょうど真下あたりから、藤堂嶺の文字が覗いている。今日撮ったトタン壁の写真をPCに取り込むつもりだった。
しかし気づけば、別のフォルダを開いている。人間というのは、だいたい見てはいけないものほど二回開く。
テスト撮影のフォルダには、同じようで違う澄の写真が何十枚も並んでいた。
ほんの少しのアングルの差、光の当たり方の差。澄の顎の向きの差。ブスだったり、ちょっといい感じだったり、妙に整いすぎていたり。その列の一枚に、庄三郎はマウスカーソルを止める。
撮影の合間、澄が指先で髪を耳にかけようとして、まだ表情を作る前の、一瞬を切った写真だった。
カメラ目線ではない。
笑ってもいない。
身構えてもいない。
何かを考えかけている澄。
それはあの六切りにした一枚のような、暴力的に美しい写真ではない。
世界に愛されていると断言してくるような、鋭利で危険な味はしない。
けれど、庄三郎は、その写真がことのほか気になった。
あるいは、厄介な写真に見えた。
名前のついて無い色のままのような。
「・・・なんでぇ」
庄三郎は小さく言った。
消そうとは思わなかった。
プリントしようとも、別に、思わなかった。
ただ閉じることもできずに、画面を見続けている。
光が消えたあとにも、目の裏にしばらく残る像を、残像という。
令和の時代、写真というのは困ったことに、目の裏だけでなく、データとしても残る。
いつまでも消せずに残っている画像データも、残像というのだろうか。
――― 第一部 「お見合い写真」 完




