36. そして真実は牙を剥く
「あの。朝だわ。起きて、フォードさん」
翌日、優しいルルカの声の響きに、フォードは目覚めた。
目を開けると、ルルカの顔が、鼻と鼻がくっつくほど近くにある。
信頼と安心の瞳だった。その顔はどこか楽しげで、いつもより無垢な乙女を思わせる。
「お、おはようございます、ルルカ王女。……早いですね」
「ええ。早くフォードさんの顔を見たくて。お邪魔させてもらったわ」
そう言って楚々と笑うルルカは、とても綺麗で。
昨日の誓いと抱擁を思い出し、フォードは少し頬が紅くなる。
「それは……嬉しいです。美しい王女に起こされるなんて、光栄の極み」
「ふふ。こちらこそありがとう。フォードさんの寝顔、とても素敵だったわ」
何だか悪戯っぽい笑みのルルカ王女。ひょっとして寝顔に落書きでもしていたのだろうか。いやまさか彼女に限ってそれは――などとフォードが思っていたところ。
「フォード、おはようなのだ! ……あれ?」
扉を開けて入っていたリリカが、その場で目を丸くした。
それも当然だろう、姉妹が先に来ていたと思ったら、何やら親しげな雰囲気なのだ。リリカが唖然としてしまったのも無理はない。
「た、大変なのだ! ルルカがフォードに、夜這いしていた!」
「違うわ! あなたなに想像しているの!」
ルルカが顔を真っ赤にして叫んだ。
しかしながらリリカは不満顔である。
「むー。何だか仲良しなのだ、二人とも」
リリカが白いほっぺをぷくっと膨らませる。明らかな不満な様子だったが、フォードを見ると、ベッド脇に歩み寄ってくる。
「フォード、昨日はありがとうなのだ。体は大事ないか?」
「いえ。知っての通り僕は鍛えてますからね。魔物の百や二百、どうという事ないです」
「違うのだ。色々気負いすぎて疲れていないかと言ったのだ。フォードはとてもリリカたちに良くしてくれる。でも、心配なのだよ。張り詰めた糸はいつか切れてしまう。フォードは強い――けれど、一人の人間なのだ。絶対心に鞭は禁物なのだ。もし本当に疲れた時は、遠慮なく言って欲しい」
フォードは――その気遣いに思わず彼女を抱き締めたくなる。
暖かくて、柔らかなリリカの言葉。
信頼と心配の情念。
父も母も向けてくれなかった、無償の気遣い。
それが涙の出るほど嬉しくて。フォードはリリカの手を掴み、優しく握る。
「あ……フォード」
「ありがとうございます、リリカ王女。僕は幸せです。綺麗で優しい姫君に慕われて。あなたにそう言ってもらうと、男冥利に尽きます」
「リリカの方こそ同じなのだ! むふふ~♪ フォードは優しいのだな。だから好きなのだよ。これからもずっと、リリカと一緒にいような!」
「むっ」
見ていたルルカが目つきを険しくする。
リリカがその大きな胸を張って、フォードに思いっきり抱きつくと、ますますルルカの表情が強張っていく。
「ちょっとリリカ? フォードさんは起きたばかりなのよ? 少しは遠慮して」
「え~、リリカはフォードの温もりが好きなのだ! この抱き心地、好き好き~!」
「だからってぬいぐるみのようにくっつかないで! 迷惑でしょう?」
「そうかな~? フォードはとっても嬉しそうなのだよ」
それはそうである。美しい王女に抱きつかれ、嬉しくないはずがない。しかしそんな本心はもちろん言えないので、むっつりと黙る。
するとリリカがさらに抱きしめるので、いよいよルルカの顔が険しくなる。
「あのねリリカ。フォードさんは優しいから迷惑と言わないの。あなたは彼に甘えているだけ。自重しなさい」
「いやなのだ~、今朝はずっとフォードを抱く~っ! この温もり、この鼓動、とっても気持ち良いのだよ!」
ルルカがフォードの胸に頬をすりすりし始めた。
リリカの顔が凍りついたように強張る。リリカの腕を引っ張り出す。
「いい加減、フォードさんから離れなさい」
「やだ、離れたくない~!」
「子供じゃないのだから。その手を離してフォードさんを解放――あ!?」
力をあまりに込めすぎたのだろう。ルルカが足を滑らせ、体勢を崩してしまう。
勢い余ってフォードの胸元にぶつかるルルカ。
彼の顔に、そのまま彼女の顔が近づいて――。
チュッ。
と、ルルカの唇がフォードの頬に触れた。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!?」
ルルカが、かあっと頬を紅くして、跳ね起きる。
羞恥心と動転にまみれた瞳のまま、あわあわと手を振る。
「あの、その、ごめんなさい、フォードさんっ。あ、あの、今のはその……っ」
「わ、判っていますルルカ王女。今のは事故です。猫に舐められたと思って忘れます」
「むむむむむ~っ」
今度はリリカが嫉妬しだした。
「二人していいフンイキなのだ。ずるい! ……ならリリカはこうするのだよ!」
リリカがすりすりしていた胸元から離れると、フォードの頬を――なんと一瞬だけ舐めた。
「ぐわうあああっ!?」
当然ながらフォードは驚天動地である。飛び上がって仰け反り壁に頭をぶつけ、視界に星が飛んでしまう。
しかしながらリリカは恥ずかしそうに頬を赤らめて、くすくす笑って、
「フォードのほっぺたに粗相してしまったのだ。きゃっ、恥ずかしい」
「りり、りり、リリカっ、あなた何てことをしているの!」
しかしそれでもリリカはうっとりと目を細め、フォードの胸元へ顔を寄せると、今度は心臓の音を聞き始める。
「フォードの鼓動が聴こえるぞ。トク……トク……トク……あ、いま激しく動くのを感じる」
「いや、あの。待って下さい。これは駄目です、ルルカ王女。み、皆に知られたら僕は破滅――」
「この胸板、この筋肉、これこそ至高なのだよ。はあぁ……フォードぉ……」
目を赤らめ、恥ずかしそうに頬を染めするも、まるで安心した猫のように、頬を寄せてくるリリカ。
「このままずっとしていたいのだ……」
「リリカ王女駄目です……くすぐったくてこれ以上は――っっ!?」
「リリカっ! あなたいったい何してるの馬鹿――っ!!」
フォードに抱きついて猫のように甘えるリリカ。彼女を引き剥がそうとするルルカ。
二人の王女に囲まれ、フォードは困惑するしかなかった。
† †
「まったく、ひどい目に遭いました」
「あははっ、すまないのだフォード、反省しているぞ」
数分後、ようやくじゃれつくのを終えたリリカに、フォードはほっと息をついた。
「本当ですか? 心臓に悪いので今後は勘弁していただきたいです」
「でも気持ちよくなかったか? フォードもちょっとうれしそうだったぞ」
「敬愛すべき王女様の前で、そんなこと思うわけないではないです」
「え……そんな。リリカとなんて、迷惑だったのか?」
途端にうるうると不安そうに涙を浮かべるリリカ。
「え、いや、あの。そうではなく、人目をはばからずああいう事はしないで頂きたいと」
「うふふ。嘘なのだ。ちゃんと判っているのだ。……ルルカも混じって、ああいう事したいのだなっ」
「わかってませんねまったくもって判っていない」
エリゼーラが虚空で笑う。
〈この王女、やはりアレだな。好意を抱いた者にはどこまでも一途だな〉
「(勘弁したください。身が持ちません)」
もちろん、嬉しい事は嬉しいのだが。身がもたない。
リリカ王女は確かに魅力的だが、守るべき対象である。不埒なことは慎むべきだろう。
「でも面白かったのだ。フォードが望むならもう一回しような?」
「その言葉だけで僕は幸せです」
「む~、大人のかわし方なのだ」
「もう……あなたは少し自重しなさい」
ルルカが憤然と腰に手を当てている。
「フォードさん……ごめんなさいね。リリカの暴走で」
「いえ。とても柔らか……ごほん、光栄なことだと思います。まさか一国の王女に、ここまで慕われるとは」
「(……などと言いつつ、フォード嬉しそう……フォードさん、奔放な子が好みなのかしら。それならばわたしも猫のフリを……はっ、いけないわ。何をわたしったらっ)」
急に頬をかあっと赤らめ、いやいやするように頬に手を当て悶えるルルカ。
「……えっと。ルルカ王女?」
「い、いいえ何でも! ――さあ、朝食の時間ね。食堂に行きましょう」
白々しい動きだがごまかしてルルカは先に出て行ってしまう。着替えをしなければならないためリリカにも先に食堂へ行ってもらう。
リリカがくるくると回りながら振り向き、「フォード、早く早く~」と柔らかな笑みで出ていった。
――平和な光景だった。
穏やかで、楽しくて、時々騒がしい――けれどかけがいのないひと時。
こんな日、以前の自分ならば絶対無理だったろう。
優しくて、麗しい王女との交流。心が温かく満たされ、充足感がフォードを包み込む。
――今、僕は最高の幸福に満たされている。
――そう感じる。
自然とにやけてしまいがちな顔を引き締めて、フォードは部屋を後にする。
これからも、ずっとこんな日が続くだろう。
リリカに慕われ、ルルカに尊敬され、皆のために武技を振るう。
数週間前とは雲泥の差の幸福に、フォードは声を大にして叫びたい。
ありがとう。ルルカ王女。リリカ王女。あなたがたに出会えて、本当に良かった。
妹を殺され親に捨てられた厳しい人生だったけれど――だからこそ夢のような今の幸福に、胸は満たされる。
――さあ、今日も一日、頑張ろう。
――今日の予定は、ルルカとリリカの特訓の予定だ。
彼女らはもう一人前の探索者、紛れもない戦士の一員。パーティの生命線であり、これからさらに、彼女らは強くなり、迷宮の探索へ貢献するだろう。
フォードは楽しみで仕方ない。一日一日、王女たちが逞しくなっていく光景が。
金貨百枚という目標も順調に進んできていて、これならば遠からず『アトラシアの神玉』も手に入られるのも夢ではないだろう。
廊下の外、窓から注ぐ陽光が暖かくて気持ちいい。かすかに吹く風が、森の甘い空気を運び、フォードの胸を幸福いっぱいに満たす。
かつてないほど、清々しい気持ちだった。
この日、この時、この瞬間――まさしくフォードは、幸せの絶頂だった。
――そして、だからこそ。
その後に起こった異変に、全てを狂わされる。
「おはようございます、イルサール王。今朝は良い天気――」
一階の、食堂に入りフォードは快活に挨拶した。
だが、広く荘厳なテーブルの席に、王はいなかった。
いつも朝早く起きて座っているはずの彼がいない。席には寂しく埃が転がるのみ。
「珍しいですね、王がいないとは?」
おまけに先に向かったはずの王女二人もいない。どこへ行ったのだろう?
「まあ、こういう日もあるでしょう」
呟きつつフォードはいつもの席に座る。
今日の特訓のメニューを考え、今後の魔術指導の手順、囮戦法演習など、しばらく今後の予定に頭を巡らせる。
十分が過ぎ三十分が過ぎ、半刻が過ぎ去っていったが――。
誰も、食堂に、姿を現さなかった。
「……皆さん、少し遅いですね」
少し、不安がフォードの中に忍び寄る。
おかしい。時間が掛かりすぎている。
いつもならとっくに朝食を食べている頃合いだ。暖かいスープや香辛肉などを食す最中で、それなのに今朝はイルサールや王女姉妹はおろか、メイドすら誰もやって来ない。
勤勉にして精力的なエルフ王族にしては、あまりにおかし過ぎる事態。
食堂はいつも以上に閑散で、ひどく寂寞とした印象すら醸し出し――。
「……?」
その瞬間、ふとフォードは気づいた。
窓が、全て開いている。
壁際の装飾窓十五枚、全て全開であり、そのせいで朝の涼風が吹きすさんでくる。
いや、それどころではない。
窓ガラス自体がないのだ。
全ての窓枠には一枚もなく、まるで何かに割られたように、四散する欠片が床に転がり落ちている。
それだけではない。窓際にはよく見れば火災痕、打撃痕、擦過痕など何者かが暴れた形跡すら伺え、フォードの背に、悪寒が走る。
おかしい。
何かあったのでは?
フォードの胸に、不安という名の闇が押し寄せる。
念のためさらに三十分待ち、四十分待ち、一時間をとうに超えたが、イルサールも王女達も現れない。
胸騒ぎと共に立ち上がったフォードは、廊下に出て力の限り叫ぶ。
「ルルカ王女……? リリカ王女? イルサール王……どこですか!」
返答はない。屋敷は海底のように静か過ぎた。
人気のない廊下。静寂に満ちた庭園。どこを歩いても、声すら聴こえない。
何が起こったのだろう。強盗か? 盗賊か? それとも別の要因が? フォードの頭であり得る可能性、あり得ない可能性、様々な光景が螺旋のごとく回る。
そもそもなんだ、今日の屋敷は。
イルサールたちどころかメイド一人、親衛隊、小間使いの子供達の気配すらない。
調理場も、図書館の中も、中央の庭園も――見張り塔や廊下も。フォードの行く先々、誰の姿もない。
何か大きな用事があるのならば、イルサール達が伝えてくれるはずだ。
彼らは家族のようにフォードを慕ってくれた。頼るべきはまずフォード。なのに伝言すらないという事は、異常事態が発生したという事であり、何か予断ならない状況の証。
「ルルカ王女! リリカ王女! イルサール王! どこですかっ! 返事をっ!」
焦りがフォードの中で積もる。
吐く息が段々と荒くなっていく。
鳥の鳴き声すら聴こえぬ屋敷の中、フォードは走り回る。
シンと静まり返り、広く茫漠とした屋敷はまるで巨大な棺桶のようだ。涼しい風と錆びた金属の臭い、それが渾然一体となり、フォードの不安を煽るかのように、壁や窓の隙間から入り込み、肌を撫でる。
「ルルカ王女! リリカ王女! イルサール陛下っ! く、……いったい、何が……」
よく訓練していた鍛錬広場に向かうも、誰もいない。
小間使いの子供たちが遊ぶ東庭園にも、人っ子一人存在しなかった。
宝物庫に行けば番人くらいいるはずだと思ったがそこも無人という有様。
フォードの心臓が、どっ、どっ、どっ、どっ、と嫌な高鳴りをしてくる。
冷や汗がこめかみを伝い、足取りがさらに荒々しくなる。
耳を澄ましても声を荒げても、誰も何の返事も来ない異常な事態――。
「お願いです、返事をしてくださいっ! ルルカ王女! リリカ王女!」
ひび割れた壁と破れた床の絨毯の上、虚しくフォードの声だけが消えていく。
埒が明かない。
――《憑依》の発動。
『煙』状になりフォードは屋敷のあちこちを探し回る。
森の木々の間、地下の避難部屋、武器庫の中――。隠し通路など、普段使われない場所も隈なく探したが、誰一人として見つからない。
「どういうことですか、これは……」
もう一度体に戻り、これまで調べた場所をすみずみまで調べる。親衛隊の名を呼び、王の名を叫び、王女の名前を咳が出るまで連呼し続けるがそれでも成果は出ない。フォードは怖くなる。自分の中に焦燥が徐々に泥のように積載されるのを実感する。焦燥に焦燥が重なり、叫ぶ声に震えが混じる。「ルルカ王女!」「リリカ王女!」「――おかしい。こんなはずはない。今朝三人で、楽しくひと時をすごしたばかりではないか。ルルカのアクシデントのキスも、リリカの肌の感触も、まだ鮮明にフォードに残っている。幸せなひと時だった。かけがいのない時間だった。二人の王女との会話が頭の中で巡り巡っている。逞しいのだ、フォード。ご、ごめんなさいフォードさん。恥ずかしがるルルカとリリカの暖かな声。「はあっ、はあっ」フォードは荒く息をついて探し回る。どこに、お願いです姿を見せてください王女! 陛下! ロブ、ネイラ、カルキノス! 誰か……メイドでもいい……小間使いの子供達でもいい……誰かいないのですか! 皆、返事をしてください……っ!
捜索も虚しく、時間だけが過ぎていった。
「はあっ、はあっ、ぜえ……っ」
フォードは一旦『煙』から本体に戻り、深呼吸する。
緊張と集中力の使いすぎで全身が石のように重い。
心臓が不安で今にも破れそうだ。
這い上がる焦燥という名の鎖が、ぎりぎりとフォードを蝕んでいく。
途中、何度かエリゼーラを呼んでみたが一度も返事がない。
《憑依》が使える以上彼女には異常はないはずだが、その事もフォードの焦りに拍車を掛ける。
異常に異常が重なり、焦燥で溢れそう。
一端冷静になるため、フォードは一度自室に戻ることとする。
しかし次の瞬間――彼は凍りついた。
「なん、です、か……これは」
フォードの部屋が、ぐちゃぐちゃに荒らされていた。
調度品は見るも無残に砕かれている。床はひび割れぼろぼろで、ベッドはささくれ立った木の屑がそこかしこに溢れている。壁はもっとひどい。小さく無数の切り傷や打撃痕があり、火炎系の魔術で焦げた痕もある。
――襲撃された? 誰に。いつの間に?
フォードは警戒心を最大にして冥王臓剣とリバースソード改を抜き放った。
周囲の殺気及び足音を探知――成果無し。
念のため部屋の中で隠れそうな場所を探り――成果無し。
襲撃者の気配も何もない。
いったいどういうことだ? 部屋の荒らされ具合からして、襲撃者の存在は明白。時間的に逃げる間もないはずだ。
それなのに何の気配も音も感じられない事は異常過ぎる。
フォードは額から汗を垂らし、廊下に出て再度廊下を走り回った。
しかし襲撃者の気配などまるで感じない。
『煙』状になり、何度も何度も怪しい箇所を探し尽くしたが何も見つからない。
おかしい。おかしい。おかしい。
王女達の影も形もない。
疲弊しつつも探索を続け、もう一度初めから探すフォード――蟻一匹、蜘蛛の子一匹見逃しはすまいと血まなこで探し回るがそれも無益。
そして、異変は加速する。藁をも掴む思いで捜索を続けたフォードの眼前に、更なる異変が待ち受けていた。
「嘘、でしょう……?」
食堂が、図書室が、調理場が。
ありとあらゆる部屋がぼろぼろに朽ちていた。
食堂の天井が剥がれ落ち屑が床に散乱し、図書室の本が焼け焦げている。引きちぎられ、斬り裂かれ、床にボロクズとなって飛散している本や調理具や装飾品。調理場の器具はおよそ十数日は使われてないかのように埃が積もり、折れた装飾槍や砕けた壁の端に火災痕が広がっている。
「馬鹿な、あり得ない……」
自分が皆を探し回ったのは、多く見積もっても半刻に満たないはず。
それなのにこれほど悲惨極まる破壊など、可能なのか?
いや違う。そもそもの話、今朝と今の屋敷は根本的に食い違っている。
壁も、廊下も、床も、全てが何日という時間を経たように寂れているのだ。
いや、《腐食》系の魔術を使えば偽装できるのだろうか? 物質を腐らせる類の力なら――いや違う。それでも破壊し尽くすには時間が足りない。図書室も調理場も訓練場も、全ての施設がまるで『はじめから』朽ちていたのだと言わんばかりの光景なのだ。
「何が……どうなって……」
フォードの背筋が、震える。
まるで、全ては夢なのだと。
ルルカたちと出会った事も。
リリカたちとの交流も。
すべては幸せな幻に過ぎないと――言わんばかりの、異常極まる光景だった。
――違う。あり得ない。これは何かの間違いだ。
そう思いつつも、ささくれのようにフォードの中に違和感がある。
――真実を見ろ。
あり得ない光景にこそ、事実が隠されているのだと脳裏の奥がささやく。
――認めるのだ。そして気づけ。
寒気と不安で止まらない震えを無理やり抑えつけ、フォードはもう一度真実を確かめるべく裏庭へと向かう。
そこには記憶通りならば、リリカや子供達が追悼した墓場がある。
『さよなら、コールス。さよなら、モル。さよなら、パークス』
あの日、確かに見た光景。そのはずだ。だが脳内のフォードの声は、
――見るな。
――いいや、見なければならない。
重なり合う不吉な脳内の響き。
子供たちが泣きながら追悼していた裏庭へ着く。
これまでの日々が夢でないのなら、あるはず。
『さよなら、ベリダー。さよなら、ウェスレ。さよなら、ハーシェン……』
――見てはならない。見れば絶望する。
――見なければ真実には進めない。
リリカたちの痕跡。フォードが護衛を決意したきっかけ。
彼女らとの絆のはじまり――。どうか、あってくれ。祈るようにフォードは目を瞑り、
そして――。
「ない……」
リリカたちが追悼してたはずの墓標――
それは、裏庭のどこにも存在しなかった。
「ない。ない。ない。嘘だ、確かにあの日、あったはずなのに……っ」
あの日追悼してはずの名が見当たらない。
コールス、モル、パークス、ベリダー……ルザと野盗に殺された兵士の名がない。いや、正確には石板自体はある。しかしあの時弔われていた彼らの名は、偽りの記憶であるかのように、誰一つとして存在していなかった。
「嘘だ、こんな……」
フォードはもう一度捜索するべく、探知用の魔術具を取り出そうとして失敗した。
『アポーピスの神胃』から無造作に道具がぶちまけられ、辺り一面に散乱する。
すると、恐怖でフォードは震え上がった。
『ギルドカード』が。
皆と探索に行った証が。
パーティ登録しているはずのルルカ、リリカ、イルサール、ロブ、ネイラ、カルキノスの名が、無かったのだ。
「嘘だ……やめてくださいよ……嘘でしょう?」
いくら異常が重なってもこれだけはない。昨日まで自分は、これを持って迷宮へ赴き、幾多の魔物を倒したはずではないか。
ルルカ達の様々な顔が脳裏に浮かぶ。
――『勝利! やったのだ!』
――『本当に凄いスねフォードさん。おみそれしました』
――『投擲の軌跡がとても綺麗。尊敬する』
――『やめて衣装引っ張らないで、きゃあ、フォードさん達に見えてしまうーっ!』
笑いも労いも、いくつもあった。忘れる事のできないひと時だった。
少女達の柔らかな笑み。温もり。称賛。あの時の言葉も、あの時の笑顔も、すべて幻とでも言うのか?
嘘だ、嘘だ、嘘だ――
あの時、あの時通わせた心根は、紛れもない事実であるはずだ。
この手、この腕の中の感触が覚えている。彼女達とのひと時は――決して幻ではない!
しかしフォードを襲う異変は、それだけでは終わらなかった。
カーバンクルの魔石と。
ラミアの魔石が。
昨日、確かにルルカとリリカの武器に組み込んだ魔石までもが、『アポーピスの神胃』から転がり出てきたのだ。
「馬鹿な……」
二人の王女がカーバンクルの魔石で争った記憶がまざまざと蘇る。麗しい王女二人から言い募られ、困惑した微笑ましい光景がちらつく。
あれも、まさか全て、儚い幻だと言うのか……?
「はは……」
フォードの口からかすれた声が漏れる。
これまで見てきたもの、接してきたもの、全てが戻り戻って、ここにある。
悪夢というならば、まさしくこれがそう。
護衛のきっかけとなった墓標。渡したはずの髪飾り。王女の武器に組み込んだ魔石。朽ちている屋敷……全て時間が巻き戻ったかのように、存在していた。
「勘弁してください」
こうなると、もはやフォードの理解を超えている。
ルルカがいない。リリカもいない。
イルサールもいなければ、親衛隊の面々も、はじめからいなかった?
ならば自分はいったい、何と接してきたのだ?
王女達も幻。王も幻。親衛隊も幻ならば屋敷もすでに朽ちて廃墟の有様。
誰か教えてほしい。この十日間の、幸せな時間を。温かく、かけがいのない思い出は、いったい何だったのか!
「いや、まだ……まだ早いです。絶望には」
フォードは信じない。いや、認めたくないのだ。
彼女らと接した時間が嘘ならば、自分はもう何も信じられない。
フォードは藁をも掴む心情で、街に向かう事にした。
優しいエルフの王族との交流が、幻ではないと信じて。
あのひと時が、儚きまほろばの夢でないと信じて。フォードは森の屋敷を後にし、王女達の痕跡を求めてさまよった。
拙作をお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
ようやく、ここまで来れました。
ここまで来れば、あとはクライマックスまで一直線です。
明日は投稿回数を大幅に増やす予定となっております。
朝八時頃、昼十二時頃、午後二時、四時、以降は、二時間か一時間ごとに投稿をしていく予定です。フォードの物語もいよいよ佳境、楽しんで頂けると幸いです。




