第九話 気づいてしまったこと
「――しばらく、集落を空ける」
ある日、ヴァルクは唐突にそう言った。
「族長としての用件だ。人間領との国境沿いで、いくつか片付けなければならないことがある」
「どれくらいの予定ですか?」
「十日、いや、もう少しかかるかもしれん」
私は、努めて平静を装って頷いた。
「分かりました。その間は、資料の整理でも進めておきます」
「ああ、頼む」
いつも通りの、事務的なやり取り。それだけのはずだった。
◇◇◇
最初の三日は、何ともなかった。
むしろ、溜まっていた資料の整理には、ちょうどいい期間だった。
だが四日目、五日目と経つうちに、私は自分の様子がおかしいことに気づき始めた。
資料を読んでいても、内容が頭に入らない。ふと窓の外を見ては、集落へ続く道を眺めている自分がいる。
(何をやっているのかしら、私)
机の上には、以前ヴァルクからもらった、共同研究の報告書がある。特に用もないのに、その筆跡を何度も目でなぞっていた。
七日目。
所長に、
「クラリス君、最近少し元気がないね」
と言われて、初めて自分の顔色に気づいた。
「そんなことは……」
「いや、明らかに上の空だよ。何かあったのかい」
言われて、私は言葉に詰まった。
何かあったわけではない。ただ、いつもより静かな日々が続いているだけだ。
なのに、なぜか物足りない。
どうしてだろう、と考えて――ふと、答えに行き着いてしまった。
(会いたい)
その一言が、頭の中に浮かんだ瞬間、心臓が跳ねた。
誰に、なんて聞くまでもない。
(私、ヴァルクに会いたいんだ)
資料の整理をしていても、市場を歩いていても、ずっと同じ人のことばかり考えていた。
彼の声、彼の笑い方、あの金色の瞳、耳の動き、少し不器用な優しさ。
全部、思い出そうとしなくても、勝手に浮かんでくる。
「……嘘」
私は思わず、手元の資料で顔を覆った。
(私、ヴァルクが好きなの……?)
一度そう思ってしまうと、もう止まらなかった。
これまでのすべてが、急に違う意味を持って蘇ってくる。
彼の過去を知りたいと思ったこと。狼姿を見て、あんなに興奮したこと。獣人形態を見て、なぜか正視できなかったこと。
全部、全部――。
「……どうしよう」
顔が、燃えるように熱かった。
◇◇◇
ヴァルクが戻ってきたのは、それから四日後のことだった。
「戻ったぞ」
集落の入り口で声をかけられて、私は思わず飛び上がりそうになった。
「あ、お、お帰りなさい」
声が、思っていたよりずっと上ずっていた。
「どうした」
「な、何でもありません」
いつものように近づいてこようとするヴァルクから、私は無意識に一歩、距離を取っていた。
「……クラリス?」
「な、なんでしょうか」
「遠くないか、その距離」
「そ、そんなことないですよ」
「以前はもっと近かっただろう」
その一言に、心臓が跳ねた。
「それは……!」
言葉が続かなかった。
以前は、平気だった。むしろ距離を詰めていたのは自分の方だった。
でも今は――近づかれるだけで、頭が真っ白になる。
「……なんでもありません。それより、お疲れ様でした。国境沿いの件は、無事に片付いたんですか?」
私は、無理やり話題を変えた。
ヴァルクは、しばらく私の顔を見つめていた。何かを探るような、それでいてどこか楽しんでいるような目だった。
「――ああ、片付いた」
彼はそれ以上、深く追及してこなかった。
ただ、集落へ向かって歩き出す背中を見ながら、私は小さく息を吐いた。
(気づかれた……?)
いや、まだ大丈夫。きっと、大丈夫。
そう自分に言い聞かせながらも、心臓は、まだ落ち着く気配を見せなかった。
◇◇◇
――一方、少し先を歩くヴァルクは、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
(何かが変わったな)
距離を詰めてこなくなったこと。目を合わせないこと。顔が赤いこと。
理由までは分からない。だが、確実に、何かが変わった。
(俺を、意識しているのか……?)
その考えが浮かんだ瞬間、なぜか胸の奥が落ち着かなくなった。
(――それとも、やはり番だからか)
彼はまだ、その考えを振り払うように、小さく頭を振った。




