第十話 番ではなく
「族長。今日はまた、あちらを気にしておられますな」
執務室の窓から集落を見下ろしていると、古くから仕える側近のロダンが、呆れたような声をかけてきた。
「別に、気にしてなどいない」
「そうですか。では、なぜさっきから同じ書類を三度も読み返しておられるので」
俺は、手元の書類に視線を落とした。確かに、内容はまるで頭に入っていなかった。
「……分かるか」
「族長を何年見てきたと思っておられます」
ロダンは、小さく笑った。
「クラリス様のことでしょう」
図星だった。
この数日、あの人間の女は、明らかに様子がおかしい。距離を詰めてこなくなった。目を合わせない。顔を赤くする。
何かが変わった。それは間違いない。
「――俺のことを、意識しているのかもしれない」
「ほう」
「だが」
俺は、言葉を切った。
この考えは、以前から頭の片隅にあった。初めてクラリスと会ったあの日から、ずっと。
「――番、という可能性もある」
ロダンの表情が、わずかに変わった。
「族長ご自身は、どうお考えなので」
「分からん。だから、こうして書類も読めずにいる」
我ながら、情けない話だった。
◇◇◇
ロダンが退室してから、俺は一人、これまでのことを思い返していた。
初めて会った時のことは、よく覚えている。魔力波形計を突きつけてきた、あの妙な人間の女。俺自身を見るのではなく、俺の魔力を見ていた。
(あれは、いつからだった)
考えても、明確な瞬間は思い出せなかった。
共同研究を重ねるうちに、いつの間にか、彼女と話す時間が楽しみになっていた。
血統仮説が当たったときの、あの顔。
夢を語ったときの、あの真剣な目。
俺の過去を、まるで大切なもののように尋ねてくる、あの様子。
狼の姿を見て、目を輝かせて駆け寄ってきたこと。
他の狼を撫でるたび、腹の底が焼けるように苛立ったこと。
獣人形態を見て、初めて言葉を失っていたこと。
――全部、番かどうかなど関係なく、俺の中に積み重なっていったものだった。
(もし、番でなかったら)
もし、彼女が番ではなく、ただの人間だったとしたら。
それでも俺は、彼女に惹かれていただろうか。
答えは、すぐに出た。
(惹かれていた)
間違いなく。
クラリスが研究にかける熱意も、破天荒な行動力も、動物を前にすると我を忘れるところも、番かどうかなど関係なく、俺にとっては魅力的だった。
むしろ、逆だ。
(番だから好きになったのではない)
彼女を知っていく過程で、好きになった。
その結果として、彼女が――俺の番だったというだけの話だ。
主語が違う。
番がクラリスなのではない。
クラリスが、俺の番なのだ。
(――だが)
俺自身の気持ちには、答えが出た。
問題は、それだけではなかった。
(クラリスは、どうなんだ)
番の魔力は、当人同士に無自覚のうちに影響を及ぼすと聞く。だとすれば、あいつが最近見せているあの反応――距離を取り、目を合わせず、顔を赤くするあの様子は、彼女自身の意思なのか。それとも、番という現象に引きずられているだけなのか。
もしクラリスの気持ちが、番という仕組みに動かされているだけなら。
(それは、俺が望んでいるものとは違う)
俺が欲しいのは、番だから向けられる感情ではない。
クラリス自身の意思で、俺を選んでほしい。
――その答えだけは、自分一人でいくら考えても出なかった。
◇◇◇
結論が出れば、あとは早かった。
俺は昔から、そういう性分だ。
迷っている時間が長くとも、答えが出れば、行動に移すまでに時間はかからない。
「族長?」
執務室に戻ってきたロダンが、俺の顔を見て少し驚いたようだった。
「何か、良い顔をされていますな」
「そうか」
「決心なさったので?」
「ああ」
俺は、外套を手に取った。
「少し、出てくる」
「クラリス様のところへ、ですかな」
ロダンの問いに、俺は答えなかった。ただ、口の端が自然と上がるのを止められなかった。
――彼女が何を怯えているのかは知らない。
だが、自分一人で答えの出せる問題ではない以上、確かめに行くしかない。
クラリスの気持ちが、番のせいなのか、それとも彼女自身のものなのか。
これ以上、遠回りするつもりはなかった。




