第十一話 番ではなく、お前が好きだ
「あの、今日はこれで――」
「待て」
資料をまとめて逃げようとした私の前に、ヴァルクが立ちはだかった。
「な、何でしょうか」
「ここ数日、俺を避けているだろう」
「そ、そんなことは」
「測定のときも、視線を合わせない。話しかけても、すぐに切り上げようとする。誤魔化せると思っているなら、見当違いだ」
図星を突かれて、言葉に詰まった。
「……用事があるだけです」
「毎回か」
「毎回です」
「嘘が下手だな、お前は」
ヴァルクは、一歩前に出た。私は反射的に後ずさる。
でも、背中はすぐに壁に当たった。
「な、なんですか、いきなり」
「聞きたいことがある」
その声は、いつになく真剣だった。
「お前がここ数日、俺を避けている理由は、番のせいか?」
「――え?」
「番だから俺を意識するようになったのなら、それでもいい。だが、俺はそれを確かめておきたい」
「違います」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「違います。番とか、そういうのは、関係ありません」
「……なら、何だ」
ヴァルクが、じっと私を見つめる。
逃げ場は、もうなかった。
これ以上誤魔化しても、意味がないと分かっていた。
「私が、あなたを避けていたのは」
声が、震える。
「……好きだから、です」
言ってしまった。
顔が、燃えるように熱かった。恥ずかしくて、その場に消えてしまいたかった。
でも、もう止まらなかった。
「あなたと目を合わせると、意識してしまって。近くにいると、心臓がうるさくて。それが、恥ずかしくて。だから、避けて――」
「クラリス」
名前を呼ばれて、私は口をつぐんだ。
ヴァルクは、少しの間、黙って私を見つめていた。
「――番だからではない」
その声は、静かだった。
「俺がお前を好きなのは、番だからじゃない」
「……」
「研究にかける熱意も、破天荒な行動力も、動物を前にすると我を忘れるところも。お前という人間そのものに、俺は惹かれた」
ヴァルクの金色の瞳が、まっすぐ私を見つめている。
「クラリス。俺は、お前が好きだ」
息が、止まりそうだった。
あまりにも真っ直ぐな言葉に、何と返せばいいのか分からなかった。
でも、答えは、もう決まっていた。
「……私も」
消え入りそうな声で、私は言った。
「私も、あなたが好きです」
その瞬間、ヴァルクの表情が、これまで見たことのないくらい柔らかくなった。
「そうか」
たったそれだけの言葉なのに、なぜか胸がいっぱいになった。
「……あの、これから、私たちは」
「恋人だ」
あまりにも即答で、私は思わず笑ってしまった。
「そんなに即決していいんですか」
「迷う理由がない」
あくまで自信たっぷりな態度に、なんだか毒気が抜かれる。
「――お前は」
ヴァルクが、少し優しい声で続けた。
「迷っているのか?」
「いいえ」
私は、首を振った。
「迷っていません」
窓の外は、いつの間にか夕暮れに染まっていた。
ヴァルクが、ふと手を差し出した。
何も言わない。ただ、こちらを見ている。
私は少しの間、その手を見つめた。
これまでなら、すぐに触れられたはずだった。狼の毛並みに、耳に、この人自身に。
でも今は、その手を取ることが、これまでとはまるで違う意味を持っている気がした。
それでも、私は迷わなかった。
そっと、その手を取る。
大きな手が、私の手を包み込んだ。
その光の中で、私たちはしばらく、ただ黙って向き合っていた。
言葉はもう、必要ないような気がした。




