第十二話 恋人なんだから
「――近いです」
「恋人なんだから、当然だろう」
測定機材を挟んで向かい合っていたはずなのに、気づけばヴァルクは私のすぐ隣に座っていた。
「以前は、もっと離れて座っていたじゃないですか」
「以前は、恋人じゃなかったからな」
あまりにも堂々とした理屈に、返す言葉がなかった。
告白してから、まだ数日しか経っていない。それなのに、ヴァルクの変化はあまりにも早かった。
これまで遠慮していたのが嘘のように、隣に座る。肩が触れる距離で話しかけてくる。何かにつけて、こちらの顔を覗き込んでくる。
――正直、心臓が持たなかった。
「あの、研究に集中できないので、少し離れてもらえると」
「なぜだ」
「なぜって……」
「近いと集中できないのか。それとも、意識してしまうのか」
その言い方に、意図的な意地悪さが混じっているのが分かった。
「い、意識なんて」
「していないと?」
「……」
答えられなかった。
ヴァルクは、満足そうに笑った。
「なら、このままでいい」
「ずるいです」
「恋人相手にずるいも何もないだろう」
これまで、積極的だったのは私の方だった。研究対象として、興味の赴くままに距離を詰めていた。
それが今は、完全に逆転している。
◇◇◇
その日の夕方、資料を片付けながら、私はふと切り出した。
「――そういえば、聞いておきたいことがあるんです」
「何だ」
「私、中央研究所に行きたいという夢、前に話したじゃないですか」
「覚えている」
「あれは、今も変わっていません。恋人になったからといって、諦めるつもりはないんです」
少し身構えながら、私はそう言った。
夢を、恋愛のために諦める。そういう選択を、彼が望んでいたらどうしよう、と。
だが、ヴァルクは意外そうな顔をした。
「当たり前だろう。諦めろなどと、誰が言った」
「……本当に、いいんですか」
「お前の夢を潰すために、俺はここまで一緒に研究をしてきたわけじゃない」
ヴァルクは、少し真剣な顔になった。
「それに、俺にも夢がある」
「ヴァルクにも?」
「人間と獣人族の共同研究を、もっと広げたい。今の集落だけの話じゃない。もっと大きな枠組みで、二つの種族が手を取り合える形を作りたいと思っている」
初めて聞く、大きな話だった。
「そのためになら、俺は中央にだって足を運ぶ。お前の夢と、俺の夢は、別に矛盾しない」
「……」
その言葉に、胸が熱くなった。
「どちらかを諦めるんじゃなくて、両方――」
「両方、叶えればいい」
ヴァルクは、あっさりとそう言い切った。
「今すぐに答えが出る話じゃないだろうが、俺はそのつもりでいる」
その自信に満ちた言い方が、今はとても頼もしく感じられた。
「――ふふ」
「何がおかしい」
「いえ。やっぱり、あなたはあなたなんだなと思って」
私は、そう言って笑った。
狼の姿でも、耳と尻尾のある姿でも、いつもの人型でも。
どんな形をしていても、ヴァルクはヴァルクだ。
そして、その隣にいることを、私はもう迷わなくなっていた。
「――さて」
ヴァルクが、また私の隣に、当然のように座り直した。
「今日はもう仕事は終わりだ。何か食べに行くか」
「……近いです」
「気にするな」
「気にします」
言いながらも、私はその距離を、もう拒まなかった。




