第七話 集落の匂い
狼事件から数日が経った頃、私は測定機材を片手に、いつもより早く集落を訪れていた。
「今日はまだ、ヴァルク様は会議中だそうです」
出迎えてくれた部下の一人が、申し訳なさそうに言う。
「大丈夫です。少し、集落の中を見て回ってもいいですか?」
「クラリス様が? ええ、もちろん構いませんが……」
不思議そうな顔をされた。
今まで私は、目当ての測定が終われば、すぐに資料を抱えて帰るだけだったから、無理もない。
でも今日は、少しだけ違う気分だった。
◇◇◇
集落の中は、思っていたよりずっと賑やかだった。
子供たちが、耳や尻尾をぴょこぴょこ揺らしながら走り回っている。
市場では、見たことのない香辛料の匂いが漂っていた。
「あ、それは何の料理ですか?」
思わず、屋台の女性に声をかけていた。
「これかい? 山の獣肉と根菜を煮込んだやつだよ。旅の人は初めてかい?」
「はい。すごくいい匂いです」
「食べていくかい」
勧められるまま口にすると、思っていたよりずっと優しい味付けだった。
「美味しい……」
「そうだろう。うちの一族の味だからね」
女性は誇らしげに笑った。
その笑顔を見て、私はなんとなく嬉しくなった。
研究所で見る獣人族は、いつも研究対象か、共同研究者としての姿ばかりだった。
けれど、ここにいる彼らは違う。
食事を作り、子供を叱り、笑い合い、昔から変わらない味を大切にしている。
そんな当たり前の日常の中に、ヴァルクもいるのだ。
◇◇◇
子供たちの一団が、遠巻きにこちらを見ているのに気づいた。
「あの、こんにちは」
声をかけると、一番小さな子が、恐る恐る近づいてきた。
「おねえちゃん、ヴァルク様の……」
「え?」
「けんきゅうなかまの、ひと?」
「あ、はい。そうです」
「ふうん」
子供たちは、なぜか顔を見合わせて笑い合った。
何がおかしいのか、私には分からない。
「おねえちゃん、しっぽ、さわってみる?」
「い、いいんですか!」
目を輝かせる私を見て、子供たちはますます楽しそうに笑った。
差し出された尻尾を、そっと撫でてみる。
「わ……」
狼姿のヴァルクとは違う。
けれど、確かに同じ獣人族の身体だ。
毛の生え方も、筋肉の動きも、人間とは違っている。
思わず観察しそうになって、私は慌てて手を引っ込めた。
(今日は研究しに来たんじゃないもの)
そう思ったのに、少し名残惜しい。
子供たちが、また笑った。
◇◇◇
しばらくして戻ってくると、会議を終えたらしいヴァルクが、集落の入り口で私を待っていた。
「探したぞ。どこに行っていた」
「集落を見せてもらっていました。すごく良い所ですね」
「……そうか」
彼は、少し意外そうな顔をした。
「お前が測定以外で興味を持つのは珍しいな」
「今まで、機会がなかっただけです」
私は素直にそう答えた。
「あの屋台の煮込み、食べました。すごく美味しかったです」
「ばあさんの店か。俺も子供の頃、よく食べさせてもらった」
「やっぱり。そんな気がしました」
「なぜだ?」
「なんとなくです」
そう答えると、ヴァルクは少しだけ目を細めた。
「それと、子供たちにも会いました。尻尾を触らせてもらって……」
「――お前、そんなことまでしていたのか」
ヴァルクが、なんとも言えない顔をした。
「駄目でしたか?」
「いや、駄目ではないが」
彼は少し言葉を濁してから、ふと呟いた。
「お前が、随分と馴染んでいるように見えてな」
その言い方には、責めるような響きはなかった。
むしろ、どこか戸惑ったような、それでいて満更でもなさそうな声だった。
「変ですか?」
「いや……」
ヴァルクは、集落の方を見渡した。
子供たちが走り回り、屋台から湯気が上がり、老いた獣人が日向で居眠りをしている。
いつもの、ありふれた光景。
けれど今日は、その中にクラリスの姿があった。
「――悪くない」
それだけ言って、彼は歩き出した。
「今日は、族長の家に案内する。お前が興味を持ちそうな古文書がある」
「本当ですか! ぜひ」
私は慌てて後を追った。
◇◇◇
その日の帰り道、私はふと、今日一日で聞いた話を思い返していた。
子供の頃のヴァルクを可愛がっていたという老婆。
彼が初めて狼化に成功した日の話を教えてくれた青年。
研究以外の話をこれだけ集められたのは、初めてだった。
どれも、私がこれまで知らなかったヴァルクの一部だった。
(もっと知りたいな)
そう思ってから、少しだけ、自分でも意外に感じた。
これは研究のためではない。
ただ純粋に、そう思っただけだった。
◇◇◇
――一方、その頃。
ヴァルクは、集落の見晴らし台から、帰っていくクラリスの後ろ姿を眺めていた。
「族長。何をぼんやりされているんです」
声をかけてきたのは、古くから仕える側近の一人だった。
「……いや」
ヴァルクは、視線を動かさないまま答えた。
「あいつが、当たり前のようにここにいることに、今更気づいただけだ」
「は?」
「何でもない」
その横顔は、いつもの自信に満ちた表情とは、少しだけ違っていた。
自分が暮らす場所に、クラリスがいる。
その光景が、思っていたよりずっと自然に馴染んでいたことに、ヴァルク自身が一番驚いていた。




