第六話 狼、現る
その日、集落に着くと、いつもと空気が違った。
「クラリス様、今日は測定を中止した方が……」
出迎えてくれた若い獣人の男性――確か、ヴァルクの部下の一人だ――が、珍しく落ち着かない様子でそう言った。
「何かあったんですか?」
「北の森に、魔獣の群れが出たんです。ヴァルク様が、討伐に出ておられて」
心臓が、どくりと跳ねた。
「危険なんですか?」
「群れの規模は、そこまで大きくありません。ヴァルク様なら問題ないはずですが……」
それでも、彼の声には隠しきれない緊張があった。
「待たせてもらってもいいですか」
「――もちろんです」
◇◇◇
集落の広場で、私は資料を整理するふりをしながら、ずっと北の空を気にしていた。
(大丈夫。ヴァルクが負けるわけない)
そう思う一方で、どうにも落ち着かない。
手元の資料の文字が、まるで頭に入ってこなかった。
どれくらい経っただろう。
遠くから、地響きのような音が近づいてきた。
「戻られたぞ!」
誰かの声に、私は顔を上げた。
森の方角から、複数の影が集落へと向かってくる。
その先頭にいたのは――。
私は、思わず立ち上がっていた。
銀に近い灰色の毛並み。
密な毛が風を受け、走るたびに流れている。夕暮れの光を受けて、金色の瞳が鋭く輝いていた。
普通の狼よりも明らかに大きい。肩の高さだけで、私の胸元ほどはありそうだ。それでいて動きには一切の無駄がなく、筋肉の詰まった体つきが、魔獣を仕留めてきたばかりだと物語っていた。
(あれが……ヴァルク……?)
群れを率いて戻ってきたその狼は、広場の中央でゆっくりと足を止めた。
周りの狼たちが、誰に指図されるでもなく、自然とその周囲に道を開けていく。
命令されているわけでもないのに、彼だけが群れの中心にいるのが分かった。
周囲から、安堵のどよめきが広がる。
だが、私の頭の中は、それどころではなくなっていた。
「………………狼……!」
声が、震えていた。
気づけば、足が勝手に動いていた。
「クラリス様、危ないですよ、ヴァルク様はまだ――」
部下の制止も、耳に入らなかった。
「ヴァルク、ですよね?」
狼が、こちらを見る。
少しの間があって、こくり、と頷いた。
「!」
言葉は返ってこない。
でも、確かに通じている。
「怪我はしていませんか?」
狼は首を横に振った。
「よかった……」
安堵で、力が抜けそうになる。
それから、恐る恐る尋ねた。
「あの、触ってもいいですか?」
狼は少し考えるような間を置いてから、頭を下げた。
目線の高さまで、大きな頭が下りてくる。
どうやら、許可らしい。
その瞬間、私の中の何かが完全に振り切れた。
「す、すごい……! この毛並み……!」
両手で、首元の毛にそっと触れる。
想像していたよりずっと密で、表面の毛はしっかりしている。それなのに、指を毛の内側へ滑り込ませると、柔らかな下毛に触れた。
「上毛と下毛で、こんなに質感が違うなんて……! これ、防水と保温、両方兼ねてるんですか? いえ、この密度なら魔力で毛質自体を変化させている可能性が……」
夢中で毛並みを掻き分け、耳に触れる。
ぴくり、と耳が動いた。
「わ、動いた! 耳、こんなに大きく動くんですね!」
興奮のあまり、声が上ずっていた。
「もう少し触ってもいいですか?」
狼の尻尾が、一度、ゆっくりと揺れた。
「――いいってことですよね?」
私は完全に、我を忘れていた。
◇◇◇
「――クラリス様、他の方々も戻られましたよ」
部下の声に振り返ると、広場には他にも数頭の狼の姿があった。
ヴァルクよりも一回り、あるいは二回りほど小柄な狼たち。若い個体なのか、体格の差がはっきりと分かる。
「え、あちらの方も……! この子も触っていいですか?」
私は目を輝かせて、そちらへ駆け寄っていく。
狼たちは戸惑いながらも、こちらを窺うようにヴァルクの方を見た。
ヴァルクが小さく頷いたのを見て、ようやく身を寄せてくる。
「わあ、この子は少し毛質が違う! もしかして年齢による違いでしょうか」
「こちらの方は耳が大きいですね! 個体差なのか、系統によるものなのか――」
興奮のままに、次々と観察を続ける。
手元には、いつの間にか取り出した測定機材まで握られていた。
しばらくして、ふと視線を感じて振り返ると、ヴァルクがこちらをじっと見ていた。
「?」
気のせいだろうか。
心なしか、耳が伏せているような。
「疲れましたか?」
狼は答えず、視線を逸らした。
私は特に気にせず、また別の狼の毛並みに手を伸ばした。
それからしばらくして、また視線を感じた。
今度は、ヴァルクの尻尾が、心なしか下がっているように見える。
「……どうしたんでしょう?」
首を傾げつつ、それでも観察は止まらなかった。
若い狼の毛並みは、また違った柔らかさがあって面白い。
気づけば、ヴァルクが私と若い狼の間に、するりと体を割り込ませていた。
「あら?」
何をしているのか分からない。
私は仕方なく、その場でヴァルクの背中を撫でることにした。
それで一応、満足したように見えた。
だが、私が興味に負けてまた別の狼へ手を伸ばすと――
「グルル……」
低い唸り声が響いた。
声の主は、ヴァルクだった。
標的は、目の前の若い狼。
「ひっ……」
若い狼が、慌てて後ずさる。
周りにいた他の獣人たちが、なんとも言えない顔で目を逸らしているのが見えた。
誰かが小さく、
「またか……」
と呟いた気がする。
「ヴァルク? どうしてこの子を威嚇するんですか?」
狼は答えなかった。
ただ、じっと私を見ている。
私はしばらく、その金色の瞳を見つめ返した。
それから、ふと思いついたことを、半ば冗談のつもりで口にした。
「……もしかして、嫉妬してるんですか?」
ぴくり、と耳が動いた。
「…………」
狼は、露骨に視線を逸らした。
「分かりやすい……」
思わず笑ってしまう。
でも、それ以上は深く考えなかった。
(狼って、群れの中でこういう独占欲があるのかしら)
動物としての習性、というくらいにしか思わなかった。
「じゃあ、ヴァルクも」
私はそう言って、彼のそばに戻った。
首元の毛を、もう一度わしゃわしゃと撫でる。
途端に、機嫌が直ったのが分かった。
尻尾が、さっきよりも大きく揺れている。
「……もしかして、撫でてほしかったんですか?」
狼は答えず、目を逸らした。
「ふふ。可愛い」
耳が、ぴくっと動いた。
◇◇◇
その後しばらくして、狼の姿が淡い光に包まれた。
光が収まった先には、見慣れた人型のヴァルクが立っていた。
「…………」
私は、慌てて視線を逸らした。
「クラリス?」
「い、いえ! 何でも!」
「?」
ヴァルクは、何が起きたのか分かっていない様子だった。
数秒前まであれほど夢中で狼を撫で回していた私が、いざ人型になった途端に目を逸らすのだから、無理もない。
だが、周囲の反応は、私が予想していたものとまるで違った。
誰も慌てていない。
むしろ、他の狼たちも次々と同じように光に包まれ、人型に戻っていく。
そして、それぞれの部下らしき者たちが、当然のような顔で歩み寄り、小さな布袋を差し出していく。
「族長、お疲れ様です」
「ああ」
ヴァルクは袋を受け取ると、慣れた手つきで紐を解いた。
中から衣服を取り出し、手早く身につけていく。
私は、呆然とその光景を眺めていた。
「……あの、それは?」
「獣化用の衣服袋だ。獣形態になると服が保たない。だから事前に脱いで、袋に入れておく」
「な、なるほど、そういう……」
言われてみれば、辻褄は合う。
あれだけ大きな体に変化するのだから、服が耐えられるはずがない。
「みなさん、随分と手際がいいんですね」
「毎回のことだからな」
当たり前だ、と言わんばかりの返事だった。
周りを見渡すと、他の獣人たちも同じように、慣れた様子で袋から服を取り出し、着替えている。
誰も気にしていない。
むしろ私だけが、一人で妙に落ち着かない気分になっていた。
(獣人族にとっては、これが日常なのね……)
人間側の常識で驚いていたのは、自分だけらしい。
少し悔しいような、それでいて興味深いような気持ちになる。
「その袋、いつも持ち歩いているんですか?」
「腰に下げている。ないと困るからな」
「そんなものが必要になるくらい、頻繁に変化するんですか?」
「族長業には付き物だ」
なるほど、と私は頷いた。
それから、つい研究者としての癖が顔を出す。
「あの、獣化前後でこれだけ体積が変わるのに、袋自体はそんなに大きくありませんよね。魔法による圧縮機構か何かが……」
「お前は本当に、何でも研究するな」
ヴァルクが、呆れたように笑った。
◇◇◇
服を着終えたヴァルクが、改めてこちらを見た。
「さっき、どうしてあんなに不機嫌だったんですか?」
私が尋ねると、ヴァルクは短く答えた。
「お前が他の奴を撫でていたからだ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
あまりにあっさりとした答えに、私は少し面食らった。
「……やっぱり嫉妬してたんですね」
「当然だろう」
「…………」
「当然」の意味が、よく分からなかった。
ただの狼の習性にしては、随分と自信満々な物言いだ。
深く考えるのはやめて、私は代わりに、全く別の感想を口にした。
「あの、狼の姿だと、言葉は話せないんですね」
「ああ。頷くか、首を振るくらいしか伝えられない」
「そうなんですね……」
少し、残念な気もした。
もっと色々、聞いてみたいことがあったのに。
「……やっぱり、ヴァルクはヴァルクなんですね」
人型に戻った途端、いつもの調子で話す彼を見て、私は思わず笑ってしまった。
これが恋愛感情かと聞かれれば、間違いなく違う。
純粋に、動物としての狼への興奮だった。
少なくとも、その時の私は、そう信じて疑っていなかった。
――ただ、その夜。
宿舎に戻ってからも、私はなぜかずっと、あの金色の瞳のことを思い出していた。




