第三話 研究と、それから
共同研究が始まって、ひと月が経った。
「――クラリス。この数値、また合わないぞ」
ヴァルクが差し出した記録紙を、私は覗き込む。
「本当だ……。理論値からずれてる。三回目のこの反応だけ、なぜか回路の減衰が遅い」
「昨日の測定と同じ条件のはずだが」
「条件は同じでも、対象が違います。今日測ったのは、あなたの部下の方々でしょう? 個体差の可能性が――ああ、でも、それにしては差が大きすぎる」
私は紙を持ったまま、考え込んだ。
ヴァルクは、腕を組んでこちらを見ている。急かすでもなく、ただ黙って私が考えをまとめるのを待っている。
最初は意外だった。族長というのは、もっとせっかちで、命令することに慣れている人間なのだろうと思っていた。でも彼は違う。データの前では、私と同じ側に立つ。
「……仮説なんですが」
「言ってみろ」
「減衰が遅かった三人、共通点があります。三人とも、この一族の中でも古い血統の家系出身なんです」
ヴァルクの目が、わずかに見開かれた。
「――血統によって、魔力回路の減衰速度が違うということか」
「まだ仮説です。でも、確かめる価値はあると思います」
ヴァルクは、少しの間黙り込んでから、ふっと笑った。
「面白い」
その一言に、私はいつも通り気を良くする。
「今日はもう遅い。続きは明日にしよう」
窓の外を見ると、いつの間にか日が傾いていた。研究に没頭していると、時間の感覚がすぐに飛んでしまう。
◇◇◇
資料を片付けながら、私はふと口にしていた。
「そういえば、あなたはいつもこうやって、部下の方々のデータまで進んで提供してくれますけど……族長として、面倒だと思わないんですか?」
「面倒?」
「だって、研究のためとはいえ、いろいろ立ち会ったり、説明したりする時間が必要でしょう」
ヴァルクは、少し意外そうな顔をした。
「面倒だと思ったことは一度もないな」
「そうなんですか」
「俺は元々、こういうことが性に合っている。動いて、確かめて、分かったことをまた次に繋げる。族長としての仕事より、こっちのほうが性分に近いくらいだ」
初めて聞く話だった。
「族長のお仕事は、お好きじゃないんですか?」
「嫌いではない。ただ、俺には向いていないと思うことも多い。会議で延々と結論の出ない話を聞くより、実験の結果を待つ方がよほど性に合う」
その言い方が、あまりにも実感がこもっていて、私は思わず笑ってしまった。
「意外です。族長っていうのは、もっと重々しい方だと思っていました」
「お前がそれを言うのか」
「わ、私は関係ないでしょう」
ヴァルクは口の端を上げて、資料を片手にこちらを見た。
「――今日はもう遅い。飯でも食っていくか。この集落の食堂、なかなか悪くない」
一瞬、迷った。だがそれは、深い意味があってのことではなかった。単純に、話の続きをもう少ししたかっただけだ。
「行きます」
私はそう答えてから、少し遅れて気づいた。
(これ、研究以外の誘いを受けるの、初めてかも)
特に気にすることでもない。そう自分に言い聞かせながら、私は資料を鞄にしまった。
◇◇◇
食堂での夕食は、思っていたよりずっと楽しかった。
ヴァルクは、研究の話になると饒舌になる一方、それ以外の話題――たとえば故郷の話や、幼い頃の失敗談などになると、少し不器用な言い方をする。それが、族長として見せる自信家な顔とはまるで違っていて、なんだか新鮮だった。
「そういえば」
食後、私はふと思い出したことを尋ねた。
「昔の記録を調べていて、少し気になる記述を見つけたんです。獣人族の伝承の中に、『番』という言葉が出てくるものがあって」
その瞬間、ヴァルクの手が止まった。
「――どこでそれを?」
「集落の古文書庫です。魔力の共鳴現象について書かれた古い記録の中に、少しだけ触れられていて。単なる伝承なのか、実際に何らかの魔力現象を指しているのか、気になって」
「……」
ヴァルクは、少しの間黙っていた。
「あれは、古い伝承だ。今のところ、学術的に扱う価値があるものかどうかは分からない」
「そうなんですね。でも、もし本当に魔力現象として説明できるなら――」
「クラリス」
珍しく、真剣な声だった。
「その話は、また今度でいい」
「……分かりました」
私は素直に頷いた。ただ、頭の片隅には、小さな引っかかりが残っていた。
(何か、隠されているような……気のせいかしら)
深く考えることはしなかった。次の測定のことで、頭がいっぱいだったから。




