第十七話 それぞれの一年
中央研究所へ来て、三ヶ月が経った。
私は論文の第一稿を書き上げ、部門長のもとへ持っていった。
「――うん、悪くない。だが、まだ甘い部分がある。ここと、ここだ」
真っ赤に添削された原稿を受け取りながら、私は苦笑した。
「頑張ります」
「その意気だ」
厳しくも、期待の込められた指摘だった。
これまで独学に近い形で進めてきた研究に、初めて本格的な学術的視点が加わっていく。
それは、痛みも伴ったが、同時に嬉しくもあった。
◇◇◇
――同じ頃、獣人族の集落では。
「族長、王都から返答が届きました」
差し出された書状を、ヴァルクは無言で開いた。
「――どうだ」
「……前向きに検討する、とのことです。ただし、正式な認可までには、さらに時間がかかると」
「予想の範囲内だ」
ヴァルクは、その足で早速、次の交渉先へ向けて動き出していた。
◇◇◇
半年が経つ頃には、私の論文は査読に回されていた。
中央研究所での日々にも、すっかり慣れていた。魔法生物学を、真剣な顔で「面白い」と言ってくれる同僚も増えた。
「オーブリー研究員の理論、学会でも話題になっているそうだよ」
所長からそう聞いたときは、思わず声を上げそうになった。
夢見ていた場所に、確かに近づいている。
――それでも、夜になると、時々、集落での日々を思い出した。
狼の毛並み、耳の動き、金色の瞳。
手紙は、相変わらず短いやり取りが続いていた。
『順調か』
『順調です。あなたは?』
『こちらも変わりない』
以前なら、研究のことで頭がいっぱいで、手紙のことなど二の次だったはずだった。
それなのに最近は、届く日が近づくと、少しだけそわそわしている自分に気づく。
変わりない、という言葉の裏で、何が起きているかなど、私には知る由もなかった。
◇◇◇
――同じ頃。
「族長、獣人族拠点の建築、順調に進んでおります」
「そうか」
「屋敷の内装についてなのですが、クラリス様のお好みが――」
「本を置く棚を多めにしてくれ。それと、明るい部屋がいい」
「随分と詳しくご存知で」
「知っていて当然だ」
ヴァルクは、当然のようにそう答えた。
実のところ、クラリスの好みは、これまでの何気ない会話の端々から、彼の中に細かく蓄積されていた。
◇◇◇
九ヶ月が過ぎる頃、私の論文は無事に査読を通過した。
「おめでとう、オーブリー研究員」
部門長の言葉に、私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
これで、魔法生物学という分野が、正式に学問として認められる第一歩になる。
ずっと望んでいたことが、確かに叶いつつあった。
――それでも、心のどこかは、まだ満たされていなかった。
査読を通過した夜、祝いの言葉をかけてくれる同僚たちの中で、ふと、この結果を最初に伝えたい相手の顔が浮かんだ。
もちろん、集落にいるあの人だった。
(今年も、年末は帰れなさそうね……)
忙しさの中で、そんなことを思う自分に、少しだけ苦笑する。
このところ、こういう瞬間が増えていた。
◇◇◇
――同じ頃。
「族長、新部署の正式認可が下りました」
その報告を受けたとき、ヴァルクはしばらく、無言で窓の外を見つめていた。
「……そうか」
短い返事だったが、その声には、これまでにない静けさがあった。
「屋敷の方も、あとは家具の搬入を残すのみです」
「分かった」
ヴァルクは、静かに息を吐いた。
「――ようやく、終わったな」
一年近くかけて積み上げてきたものが、ようやく形になった瞬間だった。
◇◇◇
十一ヶ月目のある夜、私は宿舎で手紙を書いていた。
『論文が通りました。少しだけ、落ち着きそうです』
書き終えてから、少し眺める。
これまでの「順調です」だけの返事とは、少し違う内容だった。
もうすぐ、一年になる。
(そういえば、今度こそ、少し休みが取れるかもしれない)
そう思うと、なぜか、集落の景色が頭に浮かんだ。
狼の毛並み。耳の動き。金色の瞳。
――そして、その持ち主の顔。
どうしてか、無性に会いたくなった。
でも、その気持ちが叶う日が、思っていたよりずっと近くにあることを、この時の私は、まだ知らなかった。




