第十八話 俺達の家
一年が経った。
その日、私はいつものように研究所での仕事を終え、寮へ向かう道を歩いていた。
(今日も、疲れたな……)
査読対応も一段落し、ようやく少し肩の力が抜けてきた頃だった。
「そっちじゃない」
不意にかけられた声に、私は足を止めた。
聞き覚えのある――いや、この一年、何度も思い出していた声だった。
「え……?」
振り返る。
そこに立っていたのは、ヴァルクだった。
一年前と変わらない。
――そう思ったのに、どこか以前より落ち着いた佇まいをしているようにも見えた。
金色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「ヴァルク……? どうして、ここに」
「俺達の家はこっちだ」
「……え?」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「俺達の……家?」
「ああ」
ヴァルクは、それが当然のことのように頷いた。
「来れば分かる」
そう言って、さっさと歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私は慌てて、その後を追った。
◇◇◇
案内された先にあったのは、研究所からそう遠くない場所に建つ、一軒の屋敷だった。
真新しい木の匂いがする。
大きすぎるわけではない。
けれど、どこか温かみのある、こぢんまりとした屋敷だった。
「これは……」
「俺達の家だ」
もう一度、ヴァルクが言った。
「え……。え? いつの間に、こんな……」
「一年かけて準備した」
あまりにもさらりと言われて、私は言葉を失った。
「じ、準備って……」
「土地の確保、屋敷の建築、それに――」
ヴァルクが扉を開ける。
「入れ」
促されるまま、中へ入った。
そして――私は、目を見開いた。
そこには、見覚えのある家具が並んでいた。
私の本棚。
私の机。
そして、私が長年使っていた、あの椅子まで。
「……これ」
「お前の部屋にあったものだ」
ヴァルクは何でもないことのように言った。
「全部、こちらに運んである」
「――全部?」
「ああ」
思わず、部屋を見回す。
どれも見慣れたものばかりだった。
まるで、ここだけ切り取って持ってきたみたいに。
「どうして、そんな……」
声が震えた。
ヴァルクは、しばらく黙っていた。
それから、いつもの自信に満ちた表情が、ほんの少しだけ揺らいだ。
「――早く、一緒に住みたかったんだ」
その一言に、私は目を見開いた。
これまで見たことがないくらい、素直で、不器用な言葉だった。
◇◇◇
「俺は、番が離れることはないと言っただろう?」
ヴァルクが、静かに続ける。
「……はい」
「お前は、心が繋がっていれば大丈夫だと思っていたのかもしれない」
金色の瞳が、まっすぐ私を見る。
「だが、俺の意味は最初から一つだった」
その声は、穏やかだった。
「クラリスとは、物理的にも離れるつもりはない」
その言葉を聞いた瞬間、体から力が抜けていくのが分かった。
膝が、その場に崩れ落ちる。
「クラリス!」
ヴァルクが、慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
気づけば、目から涙がこぼれていた。
「ど、どうしたんだ。誰かにいじめられたのか?」
あまりにも見当違いな心配に、涙をこぼしながらも、少しだけ笑ってしまう。
「違います……」
「なら、何が」
「……嬉しくて」
それだけ言うのが、精一杯だった。
ヴァルクは、しばらく戸惑ったような顔をしていた。
やがて、そっと私を抱きしめる。
「もう大丈夫だ。俺がいるからな」
その腕の中は、温かかった。
一年分の寂しさが、一気に溶けていくようだった。
◇◇◇
「――遅すぎただろうか」
しばらくして、落ち着いた頃。
ヴァルクが、ぽつりと言った。
「これでも、精一杯急いだんだがな。一年かかってしまった」
「……そうですね」
私は、少しだけ拗ねたように言った。
「もう少し、早く来てくれると思いました」
「すまない」
ヴァルクは、真剣な顔で答えた。
「俺の落ち度だな」
本気で反省しているらしい。
その様子に、私は思わず苦笑した。
これは、責めているわけではなかった。
会いたかった。
寂しかった。
ただ、それを少しだけ甘えてみただけだ。
けれどヴァルクは、それを言葉通りに受け取って、本気で悩んでいる。
――それも含めて、この人らしいと思った。
「だから」
私は涙を拭いながら、笑った。
「遅くなった分も、ずっと一緒にいましょうね」
「ああ」
ヴァルクは、短く、それでいて確かな声で答えた。
窓の外は、いつの間にか夕暮れに染まっていた。
この家で迎える、初めての夜が。
もうすぐ、そこまで来ていた。




