第069話 継いだ腕
> 【鑑定 第六十九号】
> 押印累計 ── 三百三十。
> 依頼者 ── 楠木巌。
> 物件 ── 高さ。
> 所見 ── 当該擦り跡 ── 高さ、一定であります。
> 背伸びの痕跡 ── 検出できません。
> ……判定を、開始します。
── 翌る朝、楠木の作業場で、梁の擦れた跡が一本増えていた。
巌は木を組む。梁を渡すとき、下から支えて位置を決める。決めるときに手を掛ける場所が、毎回同じになる。決めてから釘を打つので、手を離すのは最後になる。
同じ場所へ手を掛け続けると、そこだけ木が擦れて艶が出る。艶の高さは、掛ける者の背丈で決まる。
楠木の梁には、艶が二本ある。上の一本が巌の高さで、下の一本が颯太の高さになる。
颯太は去年から手伝いに来ている。届かないので、背伸びをする。背伸びをした先が、下の一本になる。去年より少し上がっている。
その朝、艶が三本あった。増えたのは真ん中になる。
真ん中に、見覚えのない高さで一本ある。巌でも颯太でもない高さになる。
「誰も来とらん」
「来てませんか」と燈が訊いた。
「昨日は、俺と颯太だけだ」
巌は真ん中の艶を掌でなぞった。なぞってから、自分の掌を見る。掌の高さと、艶の高さが合わない。
*
その日、街の高いところが下りてきた。下りたことに気付いた者は、朝のうちは少なかった。
桑名の店の吊り籠が下りた。井桁の蔵の棚が下がった。宮下の活字の棚が、いちばん上まで手が届く高さになった。
アーケードの吊り看板も下りている。歩くと頭に当たりそうになる。当たらない。ぎりぎり当たらない高さになっている。誰の頭にも当たらない。
誰も背伸びをしなかった。する必要が無い。
誰も、人に頼まなかった。頼む理由が無くなっている。
巌は商店街を歩いて、そのことに気付いた。気付いたのは、呼ばれなかったからになる。
巌は毎日、どこかで呼ばれる。高いところの物を取る役になる。百八十八センチあるので、商店街でいちばん高い。呼ばれるのを面倒だと言ったことは、何度もある。
その日は、一度も呼ばれなかった。
「楽ですよね」と玲が言った。
「楽だ」
「よくないんですか」
「よくねぇとは言っとらん」
巌はそれ以上言わなかった。言わずに、アーケードの下を歩いた。歩くとき、いつも屈む場所がある。その日は屈まずに通れた。
通れて、そこで足が止まった。屈む場所で屈まないと、身体の調子が狂う。
見分けは、擦り傷の高さになった。
人が毎日触る場所には、擦れた跡が付く。棚の縁、柱の角、暖簾の紐。跡の高さは、その家でいちばんよく触る者の背丈になる。
玲が数えた。商店街と五工房で、二百十九箇所ある。数えるのに、店の奥まで入れてもらった。
二百十九箇所とも、跡の高さが同じだった。
「同じです」
「同じか」
「五尺三寸のところに、全部あります」
五尺三寸は、大人の平均に近い高さになる。誰の背丈でもない。先月の注文品と、同じ考え方になる。
「うちの梁は、俺の高さで擦れとる」と巌が言った。
「そうだろうな」
「颯太の来る家は、下にもう一本ある」
巌は指を二本立てた。立ててから、三本目を立てるかどうか迷って、立てない。三本目の高さは、まだ誰のものか分からない。
六人は回りながら、家ごとの高さを聞いた。
沼田の理髪店は、椅子の背もたれの高さで擦れている。四十年、そこへ手を掛けて客を起こしてきた。
湯浅の銭湯は、番台の縁が二箇所擦れている。上が湯浅で、下が亡くなった連れ合いの高さになる。目が見えないので、下の一本を毎日触って場所を確かめている。
「一本になっとったんだよ」と湯浅が言った。
「一本ですか」
「上のが消えとった。俺のほうが」
湯浅は縁を撫でた。撫でて、笑った。
「下だけ残るってのは、悪くないな」
「そうですか」
「戻ったら、また二本かい」
「二本です」
「そりゃよかった」
昼に、巌がヤグラの右腕の継手を見た。
仕口が丸くなっていた。木を組む継ぎ目には角がある。角が噛み合って、抜けなくなる。角が丸くなると、噛まない。
巌は掛け直しを重ねてきた。合体するたびに、右腕か肩か膝か踵の継手を一つ抜いて、入れ直してきた。
抜いて入れ直すと、そのたびに仕口が少し減る。減った分は戻らない。
右腕は、十七回になる。
「もう保たん」
「直せるか」と燈が訊いた。
「木は、痩せた分は戻らん」
「削り直せねぇのか」
「削れば、細くなる。細くしたら、次で折れる」
巌は継手を指で撫でた。角が無い。丸い。
仕口の角は、鋸と鑿で出す。出すのに半日掛かる。丸くなるのは一年掛かる。
巌はこの継手を、父の代の材から取った。乾かすのに七年置いた檜になる。
七年置いて、半日で角を出して、一年で丸くなる。
「継ぎましょうか」とキンが言った。
六人が黙った。誰も先に返事をしない。
継いだものは返らない。前の日にそれを見ている。井桁の蔵の棚には、一枚分の隙間が空いたままになる。
「継いだら、あれは戻らなくなります」と蒼が言った。
「戻らんでいい」
「壊れても、直せなくなります」
「壊れる前に、継ぐんだ」
巌の言い方が短かった。短いのは、迷っていないためになる。迷っていれば、巌はもっと喋る。
キンは継手へ手を伸ばした。伸ばして、触らずに止める。触れば継いでしまう手になる。
「本日は、寸法を測らせていただきます」
「今日はやらんのか」
「測ってからにいたします」
キンは指で測った。物差しを使わない。親指と人差し指を開いて、継手の幅に当てる。当てて、そのまま自分の掌へ移す。
三度測った。三度とも同じ形に指を開く。開いた幅を、誰も数字にしなかった。
「合いますか」と巌が訊いた。
「合いません」
「合わんのか」
「合わせます」
巌は少し笑った。笑ったのを、燈が見ていた。巌が笑うのは、月に何度も無い。
*
贋作体が出たのは、夕方になる。
商店街の東の外れに出た。低い。腰から下しかない。脚が四本あって、上半身が無い。見上げる必要がない敵になる。
燈が印を胸へ押した。四人が押した。キンが六人目になる。
> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。
> 銘 ── 確認。〈陶山蒼〉。
> 銘 ── 確認。〈綾織紬〉。
> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉。
> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉。
六つの印が、一枚の紙に並んだ。
> 銘量 ── 火村燈 四百九十一。陶山蒼 五百三十二。綾織紬 三百八十。
> 楠木巌 五百四十五。硝子井玲 四百七十四。
> 六つ、減っております。
燈が打った。当たらない。低すぎる。
鎚は上から下へ振るものになる。上から振ると、腰より下は当てにくい。当てようとすると腰が入らない。
贋作体の脚が伸びた。伸びて、上から来る。伸びる速さが速い。
届かない高さから叩かれた。届かないので、受けもできない。
燈が飛んだ。石畳の上を滑って、看板の柱で止まる。柱が鳴って、上の看板が揺れた。
「上が取られてます」と蒼が言った。
「上?」
「あれは低いので、下は全部押さえられます。上はこちらが届きません」
「跳べばいいだろ」
「跳ぶと、着地が読まれます」
巌が前へ出た。出て、膝を突く。突いた膝が、石畳の目に嵌まった。
「乗れ」
「乗るのか」
「乗れ」
燈は巌の肩へ足を掛けた。掛けて、乗る。乗るとき、一度ためらった。
巌が立った。立つとき、左だけで支える。右腕は下ろしたままになる。継手が保たないので、使えない。
燈の高さが変わる。
贋作体の脚が伸びてくる高さと、同じところまで上がった。
玲が紬の背へ乗った。紬は小柄だが、機を織る足腰がある。
「重くないですか」
「重いです」
「下ろしますか」
「下ろしません」
六人のうち四人が、二段になった。蒼とキンは下に残る。
蒼が段取りを組まない(第五月から、そうしている)。組まずに、下から高さだけ言った。
「もう半尺、上です」
「上か」
「上です。巌さん、伸びられますか」
「伸びる」
巌が爪先立ちになった。百八十八センチが、そこからまだ伸びる。伸びた分だけ、支えが不安定になる。
不安定なのを、燈の足が感じ取った。感じ取って、燈は動かなかった。動くと崩れる。
乗った側が届く。乗せた側が支える。支える側は、受けられない。
この一年、六人はそれぞれ自分の高さで戦ってきた。人に乗ったのは初めてになる。
乗るには、下の者を信じることが要る。信じるというより、預けることになる。預けた側は、自分では下りられない。
贋作体が脚を振った。狙ったのは、支えている側になる。
巌がそれを受けた。左だけで受けた。受けきれずに、体が半分回った。
回っても、肩は下げない。
二度目が来た。今度は背中へ入る。膝が少し落ちて、そこで止まった。
「下ろせ」と燈が言った。
「下ろさん」
「腕が」
「左がある」
三度目が来た。巌は膝を突かない。突けば、上の高さが変わる。
突かないので、燈の高さが変わらない。
変わらないので、燈は同じ高さで打てる。
「火村燈、行きます」
燈は鎚を肩の上まで引いた。乗っているので、腰が入らない。腕だけで振ることになる。
鎚は重い。柄に継ぎ目が入っていて、糸が巻いてある。腕だけで振るには、重すぎる重さになる。
重すぎるので、振り上げるのに時間が掛かった。掛かった時間の分だけ、巌が支え続けることになる。
「焔鎚、肩越しッ!」
振った。
打ち急ぐ癖が、この体勢では出ない。出したくても、腰が使えない。腕だけの振りは、遅い。
遅い分だけ、贋作体の受けが早く出た。早く出た受けの、上を通った。
脚の付け根に入った。四本のうち、いちばん太い一本になる。
入ったところが割れて、そこから下へ裂けた。四本の脚が、順に潰れる。
潰れる順が、太い方から細い方へ移っていった。太い方を先に落とすと、残りは支えきれない。
建物と同じになる。柱を一本抜くと、残りが順に落ちる。巌が下からそれを見ていた。
崩れる音がした。石が石に当たる音になる。
燈は巌の肩から下りた。下りたとき、巌の左腕が震えている。震えを見せまいとして、腕を後ろへ回した。
*
「── 量産」
通りの向こうから低い声がした。
地面が持ち上がって、同じ形のものが並んで生えた。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
右腕のところだけ、音が違った。
> 楠木巌さん、掛け直し ── ございません。
識はそれだけ言った。理由を言わない。
巌も言わなかった。
佐久間が店の前へ出て、上を見た。豆腐を持ったままになっている。
見えるのは腕だけになる。アーケードの屋根が上を切っていて、その向こうは白い。
右腕が上がるのが、いつもより遅かった。佐久間はそれに気付いた。気付いたが、誰にも言わなかった。
佐久間は去年から、この腕を見上げてきた。上がる速さも、下りる位置も、だいたい覚えている。
覚えているだけで、直せるわけではない。豆腐屋に出来ることは無い。
佐久間は豆腐を抱え直して、店へ戻った。戻る前に、もう一度だけ上を見た。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が六つ揃った。
拳が並びの真ん中へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれた。
崩れた。落ちた欠片が地面に当たって、そこで砂になる。
*
高さが戻った。戻るのに、少し時間が掛かった。
桑名の吊り籠が上がる。井桁の蔵の棚も、宮下の活字の棚も上がった。アーケードの吊り看板は、また頭の上へ戻っている。
巌はアーケードの下を歩いた。いつもの場所で屈む。屈む深さが、いつもと同じになった。
屈んで、そのまま少し止まった。止まったのを、燈が後ろから見ている。
「呼ばれるか」と燈が訊いた。
「呼ばれる」
「面倒か」
「面倒だ」
巌はそれ以上言わなかった。言わずに、桑名の店の前で吊り籠へ手を伸ばす。伸ばしたのは左手になる。
「取ってくれるかい」と桑名が言った。
「ん」
巌は左手で吊り籠を下ろした。下ろして、桑名へ渡した。
「右、どうかしたのかい」
「なんでもねぇ」
「左で取ったろ」
「たまには左も使う」
桑名は籠を受け取って、それきり訊かなかった。訊かないのが、この商店街のやり方になる。
訊かないのと、気付かないのは別になる。桑名は気付いていた。
*
夜、巌がヤグラの右腕の継手を外して、板の上へ置いた。
外すのに、四半刻掛かった。抜けにくいのではない。抜けやすくなっているので、傷めずに抜くのが難しい。緩んだものは、丁寧に扱わないと崩れる。
板の上の継手は、角が全部丸くなっていた。丸みの出方が、四つの角で少しずつ違う。
「十七回か」
> 十七回であります。
「数えとったのか」
> 記録しております。
「言わんかったな」
> 訊かれませんでした。
巌は継手を持ち上げて、光へ向けた。向けても、丸みは影にならない。
角があれば、光を切って影が出る。丸いと、光が回り込んで影が出ない。
影が出ないものは、噛まない。噛まないものは、抜ける。
「十七回で、こうなるか」
> 記録の上では、そうなります。
「もっと保つと思っとった」
> 見積もりは、記録しておりません。
「見積もっとらんのか」
> 楠木巌さんが見積もられました。本機は、聞いておりません。
巌はそれ以上訊かなかった。訊かずに、継手を布で包みはじめた。
誰も、その答えがキンと同じだとは言わなかった。蒼が気付いて、口を開きかけて、閉じる。三度目になる。
「急ぐな待てよ 木は千年で」
巌が口の中で低く唄った。一行で止めた。二行目は出さない。
千年の木を切って、千年保つように建てる。唄はそう言っている。
この継手は、一年で駄目になった。毎日使えば、そうなる。
颯太が来たのは、そのあとになる。
土間へ入ってきて、棚の上を見た。見上げて、背伸びをした。
「とどかない」
「ん」
「とって」
「ん」
巌は左手で取った。取って、颯太へ渡す。右手は膝に置いたままになる。
「みぎて、いたいの?」
「痛くねぇ」
「うごかないの?」
「動く」
巌は右手を上げた。上げて、そこで止めて、下ろした。上げるところまでは動く。
「うごいた」
「動いた」
「じゃあだいじょうぶだね」
「ん」
「いわおさん、せがたかくていいね」
「低いのがいい日もある」
「あるの?」
「天井の低い家は、あったかい」
「へえ」
「嘘だ」
「うそなの!?」
颯太は本気で驚いた。驚いてから、笑う。笑い声が土間に響いた。
巌は笑わなかった。笑わずに、颯太の頭を左手で叩く。叩き方が弱い。右手なら、もう少し強い。
キンは板の上の継手を見ていた。
見てから、袂へ手を入れた。出した手には何も無い。入れたのは癖になる。
「明日、継ぎます」
「頼む」
「継ぎましたら、返らなくなります」
「聞いた」
「よろしいのでございますか」
巌は板の上の継手を指した。
「これは、もう返っとらん」
「返っておりませんか」
「十七回分、減っとる。減った分は、初めから返っとらん」
巌は継手を板へ戻した。戻して、指で角をなぞった。
「継いだから返らんのじゃねぇ。使ったから返らんのだ」
「使ったから、でございますか」
「減るってのは、そういうことだろう」
キンは何も言わなかった。言わずに、板の上を見ていた。
「お前も同じだ」と巌が言った。
「同じでございますか」
「継ぐたびに減っとる。使っとるんだ、自分を」
キンは顔を上げた。上げてから、また下げた。
キンは継手を見た。見ている時間が長い。丸くなった角を、目で追っている。
「では、変わりません」
「変わらん」
キンは頭を下げた。下げ方が長い。上げたとき、巌はもう継手を布で包んでいた。
燈は土間の隅から、それを見ていた。声は掛けなかった。
棚の端に、継いだ茶碗が置いてある。前の日に継いだものになる。割れたものではなく、継いだものになった。
燈はその茶碗を取って、湯を注いだ。継ぎ目のところに湯が当たると、金が少し温かくなる。持つ手に伝わってくる。
飲んでも味は変わらない。変わらないのに、いつもの湯呑みとは違う気がする。違う気がするだけで、確かめようが無い。
明日、腕が一本、同じ側へ渡る。渡ったものは、戻らない。
> 【鑑定 第六十九号 追記】
> 押印累計 ── 三百三十。
> 物件 ── 高さ。
> 追記 ── 本日、押印五。変身六。搭乗六、刻印一。
> 所見 ── 当該擦り跡 ── 高さ、一定であります。五尺三寸。
> 原物 ── 返却済み。高さ、二百十九とおりであります。
> 贋作体一体、消失。焔鎚、肩越しによる。止めたのは火村燈さんであります。
> 当該処置 ── 単独ではございません。支持者は楠木巌さんであります。
> 支持者の負傷 ── 三。膝を突いた回数 ── ございません。
> 本隊の掛け直し ── ございません。
> 当該不実施の理由 ── 仕口の摩耗であります。掛け直し、十七回。
> 寸法の測定 ── ありました。実施者は当該人物であります。器具 ── 指であります。
> 当該測定の結果 ── 合いません。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




