第035話 顔のない巨人
> 【鑑定 第三十五号】
> 押印累計 ── 百六十。
> 依頼者 ── 綾織織布。
> 物件 ── 糸干し場、一。
> 所見 ── 現存いたしません。
> 跡地に、代替物がございません。
> 踏み跡 ── 一。長さ、十一メートル。
> ……判定を、開始します。
── 三ツ木は、掛けた提灯を毎晩下ろして畳んでいる。
綾織織布の作業場は、川に向いた側が全部窓になっている。十一月の朝の光が低く入って、床の板目が長く伸びる。紬は整経台の前に座って、糸を巻き取っていた。
整経は織る前の仕事になる。経糸を必要な本数だけ揃えて、長さを合わせて、順に並べる。ここで狂うと、織り始めてから直せない。半分織ってから気付いても、戻す方法が無い。
紬は歩きながら糸を渡していく。台の端まで行って、折り返して、また戻る。往復する度に一本ずつ増える。足の運びが一定で、床の同じ場所が擦れて白くなっていた。
紬は千二百本を取る。取ってから、いつも十六本余分に巻く。十六という数に理由は無い。祖母がそうしていたので、そのままにしてあるという。
「多いですね」と燈が言った。
「切れるので」
「十六本も切れますか」
「切れないです」
「じゃあ」
「切れなかった時のために持ってます」
燈はそれ以上訊かなかった。訊いても答えが同じになると分かっている。火村鍛冶でも似たことをする。鉄は余らせられないので、代わりに炭を余らせる。
巻き取る音が続いた。細くて、乾いていて、間が空かない。紬の手は止まらない。止まらないまま、低い声が混ざった。
糸は行き先 知らぬまま
一行だけである。巻き取りの音が上がって、そこで消えた。誰も指摘しなかった。
川沿いに糸干し場がある。柱が六本と、渡した竹が七本。屋根は無い。染めた糸を掛けて風に当てる場所になる。川風が一日中通るので、室内で干すより早く乾く。乾き方が均一になって、色が斑にならない。
建てたのは紬の祖母だという。七十年前の秋で、材は川上から流してきた。柱の根は土に埋めずに、石を据えてその上に立ててある。増水した年に一度だけ倒れて、その時も同じ石を使って建て直した。
「三軒で使ってるんですよ」と紬が言った。
「三軒?」
「うちと、染屋さんと、あと紐屋さん。紐屋さんはもう十年使ってません」
「使ってなくても三軒ですか」
「三軒です。竹の掛け替えは順番なので」
順番は祖母の代から変わっていない。今年は綾織の番で、竹は春に替えたばかりになる。替えた竹はまだ青くて、古いものと色が違っていた。
佐久間が桶を提げて入ってきた。土間の端へ置いて、蓋を取らずに帰った。
「余ったからな。置いてくぞ」
「五丁ですね」
「余ったんだ」
燈は数えてから、作業場の中を見た。人の数と合っていない。合っていないことを言わずに、蓋を閉め直した。佐久間はもう水路の方へ曲がっていて、桶の水は一滴も減っていない。
*
次の朝に、糸干し場が無くなっていた。
柱が六本とも消えている。渡した竹も無い。掛けてあった糸も、一筋も落ちていなかった。
燈が着いた時、紬はもう川岸に立っていた。
跡に、踏み跡が一つあった。
長さが十一メートルある。幅は、その三分の一ほどしかない。深さは人の背丈に近くて、縁が土の色ではなく、切ったように白い。
中に何も無い。柱の折れた端も、竹の割れも、糸屑も落ちていない。土そのものが無くて、底が平らになっている。
「新しいのが建ってない」と燈が言った。
「建ってないですね」
「いつもなら、もっと良いのが建ってる」
紬は答えなかった。答えずに、踏み跡の縁へ屈んで、指で触る。冷たい。冷たいだけで、湿ってもいない。手を離すと、指に何も付かなかった。
染屋の主人が来た。来て、跡地を見て、それから川の方を見た。
「まあ、もう染めるのは室内でやってますから」
「使ってなかったんですか」
「三年、使ってません」
紐屋の隠居も来た。杖を突いて、跡の縁で止まった。
「無くなったんかい」
「無くなりました」
「そうかい」
それだけ言って、帰った。惜しむ言葉が出ない。二軒とも、困っていない。
紬は自分の袖を見た。糸が一本出ている。指で拾って、二度巻いて、引いて、切らなかった。
識が来た。丸い胴を土手の上で二寸だけ浮かせて、正面の板が明るくなっている。
> 検分を、開始いたします。
> 踏み跡 ── 一。長さ十一メートル。深さ、一メートル。
> 底面の土 ── ございません。
> 代替物 ── ございません。
「代替物が無い?」と燈が訊いた。
> ございません。
「いつもは建ってますよね。良くなったのが」
> 本件では、ございません。
燈は跡の中へ降りた。降りて、底を踏んだ。硬い。石でも土でもない硬さで、足の裏に返りが来ない。
「識さん、こういうの前にありました?」
> 当該事例に該当する記録 ── 本機にございません。
蒼が屈んで、縁の断面を見た。見て、指で撫でて、それから帳面を出した。
「三秒くれ」
「どうぞ」
「押し潰したんじゃないです。潰したなら土が横へ寄る。寄ってない」
「じゃあ何ですか」
「踏んだところが、無くなってます」
玲が曲尺を出した。直角の部分を伸ばして、平たくする。目盛りが表に出た。
検分の形になる。並べたものの差だけが光る道具で、同じところでは何も光らない。
玲は縁へ当てた。当てて、底へ当てて、それから外側の土へ当てた。
光らない。一目盛りも光らなかった。
「光りません」
「差が無いってことか」
「違います」
「じゃあ何だ」
「比べるものが無いんです」
玲は曲尺を戻した。原物と代替物が並んで、初めて目盛りが光る。片方しか無いと、この道具は何も出さない。
巌が来て、柱の立っていた場所へ手を当てた。見る前に触った。屈んで、掌を平らに置いて、そのまま暫く動かさない。
「ん」
「巌さん」
「ここに、穴が四つあった筈だ。柱の根を入れる穴が」
「無いんですか」
「穴も無い」
玲が土手の草に座って、握り飯を食べていた。二つ目になる。
「玲」
「見てます」
「食いながらか」
「見えてます。断面、切子と同じ切れ方です。刃じゃないですけど」
燈は跡の上端に立って、川下の方を見た。踏み跡は一つしかない。次の一歩が何処に降りたのかが分からない。
> 歩幅 ── 測定できません。二歩目の跡がございません。
「一歩だけ?」
> 一歩だけであります。
「何が歩いたんですか」
> 大人であります。
燈が黙った。蒼も黙った。巌が耳の鉛筆を取って、また戻した。
「なんですか、それ」
> 古い言い方であります。
「今の言い方は」
> ございません。
紬だけが笑った。笑ってから、口を押さえた。押さえてから、押さえたことを悪いと思ったらしく、川の方を向いた。
燈は跡の底へもう一度降りて、真ん中に立ってみた。立って、上を見た。土手の縁が高い。縁から上は空しかない。
「深いな」
「一メートルです」と蒼が言った。
「もっとあるように見える」
「縁が白いからです」
*
夕方に、砂が鳴った。
乾いた音である。川の水面で二度返って、それから土手の草の上で消えた。
道に灰白色が並んだ。数える前に二百を超える。土手の斜面に一列で並んで、踏み跡には降りてこない。
燈が印籠を出した。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
燈が土手を駆け上がった。上がりながら鎚を振って、先頭の三体を横へ抜いた。当たった場所が凹んで、そのまま崩れる。崩れた粉が斜面を転がって、川の縁で止まった。
「ホムラヅチ!」
二列目が来た。巌が大鋸を斜めに入れて、四体の胴に継ぎ目を作った。継ぎ目の入ったものは、そこから折れて落ちる。落ちる音が四つ続いて、四つとも同じ間隔だった。
「継ぎ目、入った」
「入りましたね」
「今日は入る」
玲が斜面を横切って、六体を抜いた。跡が残って、光に透かすと切子の文様になる。細い菱が並んで、その中にまた菱がある。
「スカシバ」
蒼が輪を投げた。輪が斜面を舐めて、十一体をまとめて倒した。輪はそのまま川へ落ちて、浅瀬の石の間で止まった。蒼は取りに行かない。
「ヨウヘンリン」
紬が鞭を投げた。斜面の上の一群に巻いて、引いた。倒さない。引き寄せて、燈の前へ寄せただけになる。手首の返しが二度で、二度目で締まった。
「タテヌキムチ」
燈が振った。踏み込みが早い。早いので、腰が入り切る前に腕が出る。それでも一振りで、寄せられた列が全部抜けた。
軌跡が残った。斜面の草が焼けて、線が一本入る。線は真っ直ぐではない。途中で二度折れて、最後に上へ跳ねた。
「入った」と巌が言った。
「入りました」と蒼が言った。
「今のは、いい」
最後の一体が膝を突いた。突いた時、斜面にいた全部が一斉に口を開いた。声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。草の上に足跡が一つも無い。
燈は鎚を下ろした。息が上がっている。斜面の草の線は、まだ焼けた匂いを出していた。掌が熱い。柄を握っていたところだけ、汗が乾かずに残っている。
勝った。二百体を一体も残さずに倒して、五人とも傷を受けていない。こういう終わり方は久しぶりになる。
それから川下を見た。
何も変わっていなかった。踏み跡はそのまま残っていて、柱も竹も戻ってこない。倒した数と、戻った数が繋がらなかった。
*
紬が踏み跡の中に降りた。
降りて、真ん中まで歩いて、そこで止まった。川下を向いて、動かない。
「紬さん」
「はい」
「上がってください」
「上がりません」
紬は袖の糸を指で拾う。二度巻いて、引いて、やはり切らない。
「祖母が建てたって言ってましたね」と燈が言った。
「秋に建てたそうです。材は川上から流してきたって」
「悔しくないんですか」
「余らせてたので」
燈が振り向いた。
「糸も、杼も、筬も、全部余分に持ってます。切れた時のために」
「じゃあ」
「柱も、竹も、また買えます。買えば同じものが建ちます」
紬はそこで一度切った。切ってから、足元を見た。底には何も落ちていない。落ち葉も、石も、虫の跡も無かった。
「でも、場所は余らせられないですね」
燈は返す言葉を探した。探して、見つからなかった。見つからないまま、紬の隣へ降りて、同じ方を向いて立った。底が硬い。踏んでも音がしないので、二人が立っているのに、そこだけ足音の無い場所になった。
巌が縁に立って、下を見ている。見ながら、耳の鉛筆を抜いて、また挟み直した。玲が握り飯の最後を食べ終えて、包みを畳んだ。蒼が帳面を閉じて、脇に挟んだ。
それから三人とも、順に降りてきた。降りて、紬の後ろに並んだ。並んだ理由は誰も言わない。
五人とも、上がらなかった。
*
夜になって、川の音が変わった。
水が増えたのではない。音が返ってくる場所が、遠くへ動いた。
「── 量産」
低い声である。川岸に人はいない。
地面から何かが生える音がした。同じ間隔で、同じ数だけ、続けて鳴る。
> 銘量 ── 火村燈 六百九十一。陶山蒼 七百三十二。綾織紬 五百八十。
> 楠木巌 七百九十六。硝子井玲 六百七十四。
> 四つ、減っております。
「四つしか減ってねぇ」と燈が言った。
「必殺を出してませんから」と蒼が言った。
「出す相手がいなかった」
「これからです」
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
川向こうの家から人が出てきて、土手の上を見た。染屋の主人も出てきた。紐屋の隠居は杖を突いて、玄関の框に座ったまま見上げた。座ったのは、首を反らせるのに立っていられないからになる。
人の目に入るのは脚だけである。膝から上は屋根の庇に切られて見えない。庇の縁が黒くて、その向こうが夜になっている。
上がってきたのは、量産の塊ではなかった。
塊は塊で立っている。立ったまま、動かない。
その後ろに、もう一つ立っていた。
高い。塊より高い。土手の上から生えたように立って、川の水面に影を落としている。灰白色で、継ぎ目が一つも無い。腕の付け根も、膝も、線が入っていない。一本の物として作ってある。
紐屋の隠居が框の上で首を伸ばした。伸ばして、途中で止めた。
上の方に、顔が無かった。
目も、口も、鼻も、窪みも無い。頭の形をしたものが乗っているだけになる。表面が均一で、影の出る場所が一つも無かった。
> 幹部級であります。
> 呼称 ── 無地。
> 顔面 ── 確認できません。
無地が一歩出した。
土手が沈んだ。踏んだところが、そのまま無くなった。音がしない。崩れる音も、水の跳ねる音もせずに、そこだけ形が欠けた。
コクインオーが前へ出た。腕を上げて、拳を作った。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
> 銘 ── 見当たりません。
> 刻む面が、ございません。
「無いって、どういうことですか」
> 額がございません。刻印、不可であります。
拳が止まった。止まった位置で、行き先を失った。五人の声が一度上がりかけて、途中で切れる。押す場所が決まらないと、あの号令は出せない。
無地の腕が動いた。振ったのではない。上げて、下ろしただけになる。
肩に当たった。コクインオーが後ろへ滑って、川の中へ膝を突く。水が両側へ割れて、土手の石垣まで掛かった。
紐屋の隠居が框から立った。立って、何も言わずに軒の下まで下がる。杖の先が濡れた石を掴めずに、一度滑った。
無地がもう一歩出した。
その時、雨が来た。
十一月の雨で、細い。川面が一斉に細かくなって、音が変わる。土手の草が匂いを出しはじめた。
無地が止まった。
上げた腕を下ろして、そのまま止まった。動かない。
それから、上を向いた。
顔の無いところを、真っ直ぐ空へ向けた。雨が当たっている。当たっているところに、跡が残らない。濡れているのかどうかも分からなかった。
燈たちからは、その面が下から見える。何も見えない面が、空を向いている。向いている理由の読み取れる場所が、一つも無い。
長かった。コクインオーが川から立ち上がるまで、無地は上を向いたままだった。
立ち上がってから、燈が叫んだ。
「おい」
無地は向かない。
向きを変えて、川上へ歩いていった。塊もついていく。三歩で見えなくなって、四歩目の音がしない。
雨が続いた。合体が解けて、五つの工房機が川の浅いところに立っている。動く音がしない。
土手には踏み跡が二つ増えていた。増えたところに、何も無い。柱の跡も、草の根も、掘り返した土も出てこない。
*
朝になった。
雨が上がって、川の水が濁っていた。踏み跡の底には水が溜まらない。溜まらずに、そのまま乾いていた。
巌が縁に立って、木の杭を三本打った。囲うためではない。深さを測るために打った。打ちながら、底の硬さを柄から拾っている。
「一メートルだ」
「昨日と同じですか」
「同じだ。三つとも同じ深さになる」
紬が糸を持ってきた。染めた山吹の糸で、干す場所が要る。要るので、作業場の梁へ渡した。梁は低いので、下を通る度に屈むことになる。
渡した糸が窓の光に入って、床へ影を落とした。影が長い。川で干した時より、乾くのに時間が掛かるという。乾きが遅いと色が斑になる。斑になったものが売れないわけではない。ただ、紬が使わない。
「不便ですね」と燈が言った。
「不便です」
「建て直しますか」
「いつか」
紬は十六本の余りをまとめて、棚の箱へ入れた。入れてから、蓋をした。箱は祖母の代からあるもので、角の一つが割れている。割れたところは継いであって、継いだのは巌になる。
燈は川岸へ戻って、踏み跡の縁に座った。座って、黒い帳面を出した。表紙が煤で黒くなっていて、角が丸く擦れている。紐で二重に括ってあるのを、指で解いた。
開いて、一行書き足した。
踏み跡三つ。何も建ってない。
書いた字は下手だった。「何も」の二字だけ、ほかより大きくなっている。
書いてから、上を見た。首を反らせて、川上の空まで見た。
雨は上がっている。空に何も無い。
燈は暫くそのまま見ていた。見ていて、それから帳面を閉じた。閉じてから、川上の方を一度だけ見た。誰も歩いていない。
> 【鑑定 第三十五号】
> 押印累計 ── 百六十。
> 物件 ── 糸干し場、一。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五。刻印 ── ありません。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 原物(糸干し場、一)── 現存いたしません。
> 代替物 ── ございません。
> 当該事例に該当する記録 ── 本機にございません。
> 踏み跡 ── 三。深さ、いずれも一メートル。中に土がございません。
> 柱の根を入れる穴 ── ございません。
> 共同使用者 ── 二軒。撤去の依頼、ならびに復旧の依頼 ── ありません。
> 依頼者の申し立て ── 場所は余らせられない。
> 等身大の交戦 ── 二百七体、消失。当方の損耗 ── ありません。
> 相手方の顔面 ── 確認できません。刻印、不可であります。
> 交戦の結果 ── 記載出来る項目がございません。
> 相手方の停止 ── 降雨と同時であります。
> 停止の理由 ── 記録いたします。理由の欄は、空欄といたします。
> 本件、真贋判定 ── 〈真〉。
> ただし、




