第三話「手紙を渡す、のはずだった」
ハルは手紙を書いた。
デジタル時代に手紙を書くことへの抵抗は、三秒で克服した。
言いたいことをLINEで送るのは、なんか違う気がした。
屋上で口で言えなかったことを、文字にして渡す。
それが手紙という媒体の使い道だと、ハルは思った。
書き直すこと十七回。
最終的に便箋一枚、三行になった。
『ミナさんのことが好きです。
付き合ってください。
――ハル』
シンプルだった。
シンプルすぎるかもしれなかった。
しかし十七回書き直した末の三行だった。
これ以上削れなかった。これ以上足せなかった。
---
翌朝、ハルはエントランスの郵便受けの前に立った。
ミナの郵便受けは202号室のものだった。
手紙を入れようとした。
「何を入れておる」
声がした。
振り返ると、弥三郎じいがいた。
なぜそこにいるのか分からなかった。
朝の七時だった。
弥三郎じいはいつもこういう時間に現れた。
郵便物を取りに来た様子もなかった。ただそこにいた。
「手紙です」とハルは言った。
「誰への」
「ミナさんへ」
「ほう」と弥三郎じいは言った。「読んでもいいか」
「いけません」
「封がしてあるな」
「当然です」
弥三郎じいは郵便受けを眺めた。
「202号か。ミナ嬢の」
「そうです」
「入れるのか」
「入れます」
「入れてから後悔するぞ」
「後悔しません」
「入れる前に後悔するぞ」
「どっちなんですか」
弥三郎じいは縄を取り出した。
いつ持っていたのか分からなかった。
「手紙より、直接言った方がいい」と縄を編みながら言った。
「分かっています。でも言えないから手紙にしました」
「言えないのに、手紙なら書けるのか」
「書けます。書き直しは十七回しましたが」
「十七回」と弥三郎じいは言った。「何枚便箋を使った」
「二十三枚です」
弥三郎じいは少しの間、黙った。
「それは、大事にしておる」とやがて言った。
「大事にしています」とハルは言った。
「ならば渡せ。二十三枚かけた言葉なら、届く」
ハルは手紙を郵便受けに入れた。
202号室のスリットから、白い封筒が吸い込まれていった。
「入れた」とハルは言った。
「うむ」と弥三郎じいは言った。
「入れてしまった」
「うむ」
「後悔してきました」
「まだ取り出せるぞ」
「取り出しません」
「取り出さないのか」
「取り出したら、また十七回書き直します」
弥三郎じいはまた縄を編んだ。
「ミナ嬢は、喜ぶと思うぞ」と言った。
「根拠は」
「わしは長く生きてきた。人の顔を見れば分かる」
「どんな顔をしていると言いたいんですか」
「ミナ嬢はな」と弥三郎じいは言った。「お前がちらちら見るたびに、メモ帳に書いておるだろう」
「書いています」
「あれは、記録しておきたいからだ。消えてほしくないからだ。好きでもない者のことを、消えてほしくないとは思わない」
ハルは郵便受けを見た。
白い封筒が、202号室のスリットの向こうにあった。
「じいさん」とハルは言った。
「何だ」
「なんで毎回邪魔するんですか」
弥三郎じいは少しの間、縄を編む手を止めた。
「邪魔しているつもりはない」とやがて言った。「見ておるだけだ」
「見ていなくていいです」
「見ておきたい」とじいは言った。「消えてほしくないから」
ハルはじいを見た。
「ミナさんと同じことを言う」とハルは言った。
「同じ気持ちだからな」とじいは言った。
それだけ言って、じいは101号室へ戻っていった。
背筋が真っ直ぐだった。
---
その夜、ミナからLINEが来た。
『手紙、読みました。返事は直接します。今夜、少しいいですか』
ハルは三十秒間、スマートフォンを持ったまま固まっていた。
『いいです』
と打った。
『二十分後、廊下で』
『分かりました』
ハルはドアを開けた。
廊下に出た。
二十分、待った。
ミナが部屋から出てきた。
「読みました」とミナは言った。
「はい」とハルは言った。
「三行でしたね」
「書き直したら三行になりました」
「何回書き直しましたか」
「十七回です」
ミナはしばらく、ハルを見た。
「私も」とミナは言った。「好きです」
廊下が静かだった。
「……そうですか」とハルは言った。
「そうです」
「よかった」
「よかったですね」
二人はしばらく、廊下に立っていた。
「付き合う、ということでいいですか」とミナは言った。
「いいです」とハルは言った。
「正式に」
「正式に」
廊下の奥で、101号室のドアが少しだけ開いた。
弥三郎じいの目が、細く光った。
そして、静かに閉まった。
---
(第三話 了)
---




