第二話「屋上デート、のはずだった」
来週の予約した店は、結局行けなかった。
水道管が破裂したのだ。
常火荘の二階と三階の間の水道管が、ある水曜日の夜に盛大に破裂した。
原因は不明だった。
管理人であるハルが業者を呼び、床を剥がし、丸二日かけて修理した。
その間、ミナは廊下でハルに「大変ですね」と言い、ハルは「大変です」と答えた。
それだけだった。
予約した店には行けなかった。
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一週間後、ハルは新しい計画を立てた。
屋上で星を見よう、という計画だった。
常火荘の屋上は、住人なら自由に使えた。
小さなテーブルと椅子が二脚ある。
東京の空でも、夜になれば星がいくつか見えた。
シンプルな計画だった。
店の予約が要らない。
水道管も関係ない。
ただ屋上に上がって、椅子に座って、星を見るだけだった。
「今夜、屋上で星を見ませんか」とハルはミナに言った。
「行きます」とミナは言った。
今回もあっさりしていた。
ハルはその「あっさり」がどういう意味なのか、三ヶ月考えてきたが、まだ分からなかった。
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九時、屋上に上がった。
東京の夜空が広がっていた。
星はあまり見えなかった。
しかし月が出ていた。
テーブルに、ハルが買ってきたコーヒーを二つ置いた。
「月がきれいですね」とミナは言った。
「きれいですね」とハルは言った。
沈黙があった。
悪い沈黙ではなかった。
夜風が吹いていた。
ミナがコーヒーを飲んでいた。
ハルもコーヒーを飲んだ。
「ミナさん」とハルは言った。
「何ですか」
「さっき、こんな話がしたかったわけじゃないんですが、俺は――」
屋上のドアが開いた。
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マティアスだった。
301号室の住人。
年齢不詳。
職業不詳。
元大学教授とも、古物商とも、錬金術師とも言われているが、本人はどれも否定しない。
背が高く、姿勢がよく、常に古い時代の空気をまとっていた。
手には、真鍮製の大きな望遠鏡を抱えていた。
「ああ」とマティアスは言った。「先客がいたか」
「いました」とハルは言った。
「では、ちょうどいい」
「ちょうどよくないです」
「今夜は木星が見える」
マティアスはそう言って、テーブルの横に望遠鏡を設置し始めた。
手際がよかった。
明らかに慣れていた。
「よくここで観測するんですか」とミナは言った。
「晴れた夜は」とマティアスは答えた。「星は、見える時に見ておかなければならない」
「どうしてですか」
「見えない夜の方が多いからだ」
ミナは少し考えて、頷いた。
「記録しておきます」
「しなくていいです」とハルは言った。
「大事そうなので」
「大事そうですね」とマティアスも言った。
ハルは黙った。
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木星は、確かに見えた。
望遠鏡を覗くと、縞模様まで見えた。
「きれい」とミナは言った。望遠鏡から顔を上げて。目が輝いていた。
「今夜は透明度が高い」とマティアスは言った。「衛星も見える」
「衛星も?」
「イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト。四つ並んでいる」
ミナがまた望遠鏡を覗いた。
「見える」と言った。「四つ、並んでいる」
「四百年以上前に、別の男も同じものを見た」とマティアスは言った。「同じ星を、違う時代に」
「同じものを見てきた」とミナは言った。「何百年も経っても、変わらない」
「変わらないものは少ない」とマティアスは言った。「金と、星と、記録された言葉くらいだ」
「金と星と記録を並べる人は初めて会いました」とハルは言った。
「並べられる」とマティアスは静かに言った。「どれも、時間に耐える」
ハルも望遠鏡を覗いた。
木星が見えた。
縞模様が見えた。
衛星が四つ、並んでいた。
確かに、きれいだった。
「ハルさん」とミナが言った。
「何ですか」
「さっき、何か言いかけていましたよね」
ハルは望遠鏡から顔を上げた。
「あ、えっと」
「こんな話がしたかったわけじゃないんですが、俺は、の続きが」
マティアスが振り返った。
「続きがあるのか」
「ありません」とハルは言った。
「言葉は、出る前に消えることがある」とマティアスは言った。「消したくないなら、出した方がいい」
「今それを言うんですか」
「今だから言う」
ミナがハルを見た。
ハルは夜空を見た。
木星が見えた。
「……コーヒーが冷める前に飲んだ方がいい、という話でした」
「それだけですか」とミナは言った。
「それだけです」
ミナはメモ帳に何かを書いた。
「何を書いたんですか」とハルは言った。
「『コーヒーが冷める前に飲んだ方がいいと思っているが言い出せない管理人、の図』と書きました」
「正確には違います」
「どう違うんですか」
「……コーヒーは、もう冷めています」
ミナは少し笑った。
マティアスもわずかに口元を動かした。
ハルはコーヒーを飲んだ。
冷たかった。
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十一時頃、マティアスが「今日はここまでにしよう」と言って機材を片付け、先に降りた。
「邪魔をしたな」と言いながら降りた。
本当に邪魔だったが、本人に悪意はなさそうだった。
二人になった。
夜の屋上に、二人だけが残った。
「さっきの続き」とミナは言った。「聞いてもいいですか」
「続きは」とハルは言った。「コーヒーが冷めたことです。本当に」
「本当に?」
「本当に」
ミナはハルを見た。
「嘘をついていますね」と言った。
「ついていません」
「顔に出ています」
「出ていません」
「出ています」とミナは言った。「三ヶ月観察してきたので、顔の出方が分かるようになりました」
「三ヶ月観察」とハルは言った。
「あなたがちらちら見る前から、私は見ていました」
ハルはミナを見た。
「どっちが多いんですか」
「私の方が多いと思います」とミナは言った。
「……そうですか」
「そうです」
月が、雲の向こうへ隠れた。
屋上が少し暗くなった。
「いつか」とハルは言った。「言います。今日じゃないですが」
「いつですか」
「近いうちに」
「どのくらい近いですか」
「弥三郎じいかマティアスさんに邪魔されない日が来たら」
ミナは少しの間、黙っていた。
それから「サレンさんもいますよ」と言った。
「そうでした」とハルは言った。「四百一号室も、いました」
「あの方、全然出てきませんよね」
「出てこないのが、逆に怖い」
「今夜は出てこなかった」
「今夜は」
「明日は出てくるかもしれない」
「来ないでほしい」
「来てほしくないですか」
「来てほしくないです」とハルは言った。「あなたと二人でいる時は、誰にも来てほしくないです」
ミナは、少しだけ間を置いた。
「言えましたね」と言った。
「……言えました」
「それを言いたかったんですよね。最初から」
「……そうです」
ミナはメモ帳を開いた。
「記録します」と言った。
「やめてください」
「残しておきたいので」
「残さなくていいです」
「残します」とミナは言った。几帳面な字で書きながら。「消えてほしくないから」
ハルは屋上の手すりに寄りかかった。
東京の夜景が広がっていた。
どこかの窓に、明かりがついていた。
「帰りますか」とミナは言った。
「もう少し」とハルは言った。「いていいですか」
「いていいです」とミナは言った。
二人はしばらく、夜景を見ていた。
木星は、雲の向こうにあった。
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(第二話 了)
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