第一話「初めてのご飯、のはずだった」
これは、どこかの巡りの、どこかの常火荘で起きた話である。
そこではハルは、常火荘の管理人をしていた。
常火荘は、東京の片隅にある古い木造アパートだった。
二階建てに見えるが、裏から見ると四階建てに見える。
階段はよく軋み、廊下は夕方になると橙と金の光を受ける。
その光を夕日だと言う者もいた。古い電球の反射だと言う者もいた。
しかし、ハルは時々思う。
あれは火の色だ、と。
どこかで、今も消えずに燃えている火の色だと。
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ハルがミナを夕食に誘ったのは、三ヶ月かかった末のことだった。
三ヶ月。
九十日。二千百六十時間。
その間、ハルは何度も誘おうとして、何度もやめた。
廊下でミナとすれ違うたびに、
「今夜、よければ――」
まで言いかけて、
「あ、郵便ですね。では」
と言い直して逃げた。
郵便が来ていない日も、そう言った。
「ポストに何も入っていませんでしたよ」とミナが言った時には、三日間、部屋から出るのが少し難しくなった。
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ミナは202号室の住人だった。
几帳面な人だった。
本をまっすぐ並べ、靴をまっすぐ揃え、話を聞く時は相手の言葉を途中で遮らず、必要なことはすぐにメモした。
何をそんなに記録しているのか、ハルには分からなかった。
ただ、ミナが小さなメモ帳に文字を書いている姿を見るたびに、胸の奥が妙に静かになった。
消えてほしくないものを、紙の上に留めている。
そんな気がした。
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四回目の試みで、ついに成功した。
「今夜、よければ一緒に夕食を食べませんか。近くに新しい店ができたので」
「行きます」とミナは言った。
それだけだった。
あまりにもあっさりしていたので、ハルは一瞬、断られたのかと思った。
「行きます、というのは」
「行く、という意味です」
「そうですよね」
「違う意味があるんですか」
「ありません」
「では、行きます」
ミナはそう言って、階段を上がっていった。
ハルはその背中に向かって言った。
「七時に、一階で待っています」
「分かりました」
ミナの声が、上から降ってきた。
ハルは自分の部屋に戻り、ドアを閉め、その場に崩れ落ちた。
成功した。
ついに成功した。
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六時五十五分、ハルは一階のエントランスに降りた。
五分前に来たのは、余裕を見せるためだった。
七時ぴったりに来るのは、必死に見える気がした。
六時五十六分、ミナが降りてきた。
紺のワンピースを着ていた。
普段は後ろで束ねている髪を、今日は下ろしていた。
ハルは、四秒ほど固まった。
「待ちましたか」とミナは言った。
「今来たところです」とハルは言った。
声が少し高かった。
「五分前に降りてきたのを、階段の踊り場から見ていましたが」
「気のせいです」
「管理人さんなのに、建物内で目撃されることを想定していないんですか」
「今日は想定外でした」
「記録しておきます」
「しなくていいです」
ミナはメモ帳を取り出しかけた。
ハルはそっと手で制した。
「今は、行きましょう」
「そうですね」
二人はエントランスを出た。
夜の街が広がっていた。
いい夜だった。風が涼しかった。街灯の下で、ミナの横顔が白く見えた。
ハルは、今夜はうまくいくかもしれない、と思った。
その時だった。
「あーっ」
声がした。
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振り返ると、常火荘の玄関から、白髪の老人が出てきた。
弥三郎じいだった。
101号室の住人。
年齢不詳。本人は「八十そこそこ」と言うが、誰も信じていない。
趣味は縄を編むことと、他人の気配を察知すること。
背筋が真っ直ぐで、歩くのが速い。
そして、なぜかハルとミナが二人で出かけようとする時に限って、必ず現れる。
「おお、ハル坊。どこへ行くんだ」
「食事に」とハルは言った。
「食事か」と弥三郎じいは言った。「わしも腹が減った」
「じいさん、今夜は」
「ミナ嬢もいるじゃないか。ちょうどよかった。三人で行こう」
「ちょうどよくないです」
「遠慮するな。わしは財布を持っている」
「そういう問題ではありません」
「では、何の問題だ」
ハルは詰まった。
弥三郎じいは、すでに二人の間に割り込んで歩き始めていた。
「ミナ嬢、あそこの蕎麦屋は知っているか。わしのお気に入りでな」
「知らないです」とミナは言った。
「連れていってやろう」
ハルはミナを見た。
ミナはハルを見た。
ミナの目が「どうしますか」と言っていた。
ハルの目が「どうすればいいんだ」と言っていた。
二人の目がそういう会話をしている間に、弥三郎じいは五歩先を歩いていた。
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蕎麦屋は、悪くなかった。
ハルが予約していた新しい店とは、まったく違ったが。
カウンターが三席だけの、古い蕎麦屋だった。
大将が一人で切り盛りしていた。
弥三郎じいとは顔なじみで、「いつもの」で注文が通った。
「いつものって何ですか」とミナが聞いた。
「天ざるの大盛りと、燗酒一本と、大根の漬け物だ」と弥三郎じいは言った。
「大食いですね」
「まだまだ食える」
三人はカウンターに並んで座った。
ハルの右にミナ。
ハルの左に弥三郎じい。
つまり、ハルはミナの横顔を見ようとするたびに、反対側から弥三郎じいの気配を感じる配置になった。
「ミナ嬢は蕎麦は好きか」と弥三郎じいが言った。
「好きです」とミナは言った。
「ハル坊と来たかったわけじゃなくて、蕎麦が好きだから来たのかな」
「どちらもです」とミナは言った。
ハルは、蕎麦を茹でる音を聞きながら、その「どちらも」という言葉を胸の中で三回繰り返した。
どちらも。
どちらも。
どちらも。
「ハル坊、何回同じことを心の中で言っているんだ」と弥三郎じいが言った。
「聞こえるんですか」
「顔に出ている」
「出ていません」
「三回繰り返す時の顔をしているぞ」
ミナがハルを見た。
ハルは蕎麦屋の壁を見た。
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蕎麦が来た。
三人で食べた。
弥三郎じいはよく食べ、よく飲み、よくしゃべった。
昔の常火荘の話をした。
三十年前はこんな住人がいた。
二十年前には井戸を掘ろうとした者がいた。
十年前には屋上で星を見続けていた男がいた。
四階には、今でもほとんど姿を見せない住人がいる。
「四階の方ですか」とミナが言った。
「そうだ。表札にはサレンとある」
「サレンさん」
「しかし、わしは別の名で呼んでいる」
「別の名?」
弥三郎じいは酒を一口飲んだ。
「サブレ様だ」
ハルは箸を止めた。
「じいさん、普通に聞き流せない名前を出しましたね」
「そうか」
「サブレ様って何ですか」
「サブレ様はサブレ様だ」
「説明になっていません」
「長く生きていると、説明できることと、説明しない方がいいことの区別がつく」
「それは説明しない方なんですか」
「今日はな」
ミナはメモ帳を取り出していた。
ハルはそれに気づいた。
「記録するんですか」
「します」とミナは言った。「今の話は、消さない方がいい気がします」
弥三郎じいが、少しだけ目を細めた。
「そうだな」と言った。「消さない方がいい」
その時、店の窓の外を、誰かが通った。
白い髪の、背の高い人影だった。
一瞬だけ、金色の目がこちらを向いた気がした。
ハルは振り返った。
しかし、もう誰もいなかった。
「今のは」とハルは言った。
「見えたか」と弥三郎じいが言った。
「見えた、というほどでは」
「なら、まだ見えていない」
「どういう意味ですか」
「そのうち分かる」
弥三郎じいは、また蕎麦を食べた。
ミナは何も言わずに、メモ帳へ一行を書き加えた。
ハルは、その文字を横から少しだけ見た。
きれいな、几帳面な字だった。
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帰り道、弥三郎じいが先に「足が痛い」と言って、一人でタクシーを拾って帰った。
本当に足が痛いのかどうか、ハルには分からなかった。
二人になった。
夜道を、二人で歩いた。
「楽しかったです」とミナは言った。
「弥三郎じいが来ても?」
「弥三郎さんの話、面白かったです。昔の常火荘のこと、全然知らなかったから」
「俺は、ミナさんと二人で――」
ハルは言いかけて、止まった。
「二人で?」とミナは言った。
「いえ」
「言いかけましたよ」
「気のせいです」
「記録します」
「しなくていいです」
「します」とミナは言った。「あなたが何かを言いかけて、言わなかったことも、残しておきたいので」
ハルは少し黙った。
「残しておきたいんですか」
「はい」
「どうして」
ミナは、少し考えた。
「消えてほしくないから」と言った。
常火荘が見えてきた。
古い建物の二階の窓に、橙と金の光が映っていた。
夕日はもう沈んでいるはずだった。
なのに、その光は、どこかでまだ燃えているように見えた。
エントランスの前で、ミナは立ち止まった。
「次は二人で来ますか」と言った。
ハルは、一秒固まった。
「来ます」と言った。
「予約しておいた方がいいですね。今度こそ」
「してあります」とハルは言った。「今夜行くはずだった店の予約が、まだあります」
ミナは少し笑った。
「来週、どうですか」
「来週」とハルは言った。「来週、行きましょう」
「弥三郎さんには内緒で」
「内緒で」
「難しいかもしれないですけど」
「難しいと思います」
二人は笑った。
今度は、二人の笑い声が重なった。
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エントランスを入った。
エレベーターで二階へ。
廊下で「おやすみなさい」を言った。
ドアが閉まる前に、ミナが振り返った。
「言いかけたこと、いつか聞かせてください」
「いつか」
「はい。消える前に」
ドアが閉まった。
ハルは廊下に一人で立っていた。
しばらく、そのままだった。
それから自分の部屋に入り、ドアを閉めた。
「よし」と言った。
一人で言った。
誰も聞いていなかった。
しかし、聞かれても構わなかった。
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101号室では、弥三郎じいがすでに帰宅していた。
縄を編みながら、天井を見上げていた。
「まだまだかかるな」と言った。
独り言だった。
しかし満足そうだった。
そのころ、四階の奥。
401号室の前で、橙と金の光が、ほんの少しだけ揺れていた。
表札には、こう書かれていた。
サレン。
けれど、古い者は知っている。
その名だけでは、足りないことを。
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(第一話 了)
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