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常火荘騒動記――逢瀬のたびに誰かが来る  作者: Kentarou Tou


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1/10

第一話「初めてのご飯、のはずだった」


これは、どこかの巡りの、どこかの常火荘で起きた話である。


そこではハルは、常火荘の管理人をしていた。


常火荘は、東京の片隅にある古い木造アパートだった。

二階建てに見えるが、裏から見ると四階建てに見える。

階段はよく軋み、廊下は夕方になると橙と金の光を受ける。

その光を夕日だと言う者もいた。古い電球の反射だと言う者もいた。


しかし、ハルは時々思う。


あれは火の色だ、と。


どこかで、今も消えずに燃えている火の色だと。


---


ハルがミナを夕食に誘ったのは、三ヶ月かかった末のことだった。


三ヶ月。


九十日。二千百六十時間。


その間、ハルは何度も誘おうとして、何度もやめた。

廊下でミナとすれ違うたびに、


「今夜、よければ――」


まで言いかけて、


「あ、郵便ですね。では」


と言い直して逃げた。


郵便が来ていない日も、そう言った。


「ポストに何も入っていませんでしたよ」とミナが言った時には、三日間、部屋から出るのが少し難しくなった。


---


ミナは202号室の住人だった。


几帳面な人だった。


本をまっすぐ並べ、靴をまっすぐ揃え、話を聞く時は相手の言葉を途中で遮らず、必要なことはすぐにメモした。


何をそんなに記録しているのか、ハルには分からなかった。


ただ、ミナが小さなメモ帳に文字を書いている姿を見るたびに、胸の奥が妙に静かになった。


消えてほしくないものを、紙の上に留めている。


そんな気がした。


---


四回目の試みで、ついに成功した。


「今夜、よければ一緒に夕食を食べませんか。近くに新しい店ができたので」


「行きます」とミナは言った。


それだけだった。


あまりにもあっさりしていたので、ハルは一瞬、断られたのかと思った。


「行きます、というのは」


「行く、という意味です」


「そうですよね」


「違う意味があるんですか」


「ありません」


「では、行きます」


ミナはそう言って、階段を上がっていった。


ハルはその背中に向かって言った。


「七時に、一階で待っています」


「分かりました」


ミナの声が、上から降ってきた。


ハルは自分の部屋に戻り、ドアを閉め、その場に崩れ落ちた。


成功した。


ついに成功した。


---


六時五十五分、ハルは一階のエントランスに降りた。


五分前に来たのは、余裕を見せるためだった。

七時ぴったりに来るのは、必死に見える気がした。


六時五十六分、ミナが降りてきた。


紺のワンピースを着ていた。

普段は後ろで束ねている髪を、今日は下ろしていた。


ハルは、四秒ほど固まった。


「待ちましたか」とミナは言った。


「今来たところです」とハルは言った。


声が少し高かった。


「五分前に降りてきたのを、階段の踊り場から見ていましたが」


「気のせいです」


「管理人さんなのに、建物内で目撃されることを想定していないんですか」


「今日は想定外でした」


「記録しておきます」


「しなくていいです」


ミナはメモ帳を取り出しかけた。


ハルはそっと手で制した。


「今は、行きましょう」


「そうですね」


二人はエントランスを出た。


夜の街が広がっていた。

いい夜だった。風が涼しかった。街灯の下で、ミナの横顔が白く見えた。


ハルは、今夜はうまくいくかもしれない、と思った。


その時だった。


「あーっ」


声がした。


---


振り返ると、常火荘の玄関から、白髪の老人が出てきた。


弥三郎じいだった。


101号室の住人。

年齢不詳。本人は「八十そこそこ」と言うが、誰も信じていない。

趣味は縄を編むことと、他人の気配を察知すること。


背筋が真っ直ぐで、歩くのが速い。

そして、なぜかハルとミナが二人で出かけようとする時に限って、必ず現れる。


「おお、ハル坊。どこへ行くんだ」


「食事に」とハルは言った。


「食事か」と弥三郎じいは言った。「わしも腹が減った」


「じいさん、今夜は」


「ミナ嬢もいるじゃないか。ちょうどよかった。三人で行こう」


「ちょうどよくないです」


「遠慮するな。わしは財布を持っている」


「そういう問題ではありません」


「では、何の問題だ」


ハルは詰まった。


弥三郎じいは、すでに二人の間に割り込んで歩き始めていた。


「ミナ嬢、あそこの蕎麦屋は知っているか。わしのお気に入りでな」


「知らないです」とミナは言った。


「連れていってやろう」


ハルはミナを見た。


ミナはハルを見た。


ミナの目が「どうしますか」と言っていた。

ハルの目が「どうすればいいんだ」と言っていた。


二人の目がそういう会話をしている間に、弥三郎じいは五歩先を歩いていた。


---


蕎麦屋は、悪くなかった。


ハルが予約していた新しい店とは、まったく違ったが。


カウンターが三席だけの、古い蕎麦屋だった。

大将が一人で切り盛りしていた。

弥三郎じいとは顔なじみで、「いつもの」で注文が通った。


「いつものって何ですか」とミナが聞いた。


「天ざるの大盛りと、燗酒一本と、大根の漬け物だ」と弥三郎じいは言った。


「大食いですね」


「まだまだ食える」


三人はカウンターに並んで座った。


ハルの右にミナ。

ハルの左に弥三郎じい。


つまり、ハルはミナの横顔を見ようとするたびに、反対側から弥三郎じいの気配を感じる配置になった。


「ミナ嬢は蕎麦は好きか」と弥三郎じいが言った。


「好きです」とミナは言った。


「ハル坊と来たかったわけじゃなくて、蕎麦が好きだから来たのかな」


「どちらもです」とミナは言った。


ハルは、蕎麦を茹でる音を聞きながら、その「どちらも」という言葉を胸の中で三回繰り返した。


どちらも。


どちらも。


どちらも。


「ハル坊、何回同じことを心の中で言っているんだ」と弥三郎じいが言った。


「聞こえるんですか」


「顔に出ている」


「出ていません」


「三回繰り返す時の顔をしているぞ」


ミナがハルを見た。


ハルは蕎麦屋の壁を見た。


---


蕎麦が来た。


三人で食べた。


弥三郎じいはよく食べ、よく飲み、よくしゃべった。


昔の常火荘の話をした。


三十年前はこんな住人がいた。

二十年前には井戸を掘ろうとした者がいた。

十年前には屋上で星を見続けていた男がいた。

四階には、今でもほとんど姿を見せない住人がいる。


「四階の方ですか」とミナが言った。


「そうだ。表札にはサレンとある」


「サレンさん」


「しかし、わしは別の名で呼んでいる」


「別の名?」


弥三郎じいは酒を一口飲んだ。


「サブレ様だ」


ハルは箸を止めた。


「じいさん、普通に聞き流せない名前を出しましたね」


「そうか」


「サブレ様って何ですか」


「サブレ様はサブレ様だ」


「説明になっていません」


「長く生きていると、説明できることと、説明しない方がいいことの区別がつく」


「それは説明しない方なんですか」


「今日はな」


ミナはメモ帳を取り出していた。


ハルはそれに気づいた。


「記録するんですか」


「します」とミナは言った。「今の話は、消さない方がいい気がします」


弥三郎じいが、少しだけ目を細めた。


「そうだな」と言った。「消さない方がいい」


その時、店の窓の外を、誰かが通った。


白い髪の、背の高い人影だった。


一瞬だけ、金色の目がこちらを向いた気がした。


ハルは振り返った。


しかし、もう誰もいなかった。


「今のは」とハルは言った。


「見えたか」と弥三郎じいが言った。


「見えた、というほどでは」


「なら、まだ見えていない」


「どういう意味ですか」


「そのうち分かる」


弥三郎じいは、また蕎麦を食べた。


ミナは何も言わずに、メモ帳へ一行を書き加えた。


ハルは、その文字を横から少しだけ見た。


きれいな、几帳面な字だった。


---


帰り道、弥三郎じいが先に「足が痛い」と言って、一人でタクシーを拾って帰った。


本当に足が痛いのかどうか、ハルには分からなかった。


二人になった。


夜道を、二人で歩いた。


「楽しかったです」とミナは言った。


「弥三郎じいが来ても?」


「弥三郎さんの話、面白かったです。昔の常火荘のこと、全然知らなかったから」


「俺は、ミナさんと二人で――」


ハルは言いかけて、止まった。


「二人で?」とミナは言った。


「いえ」


「言いかけましたよ」


「気のせいです」


「記録します」


「しなくていいです」


「します」とミナは言った。「あなたが何かを言いかけて、言わなかったことも、残しておきたいので」


ハルは少し黙った。


「残しておきたいんですか」


「はい」


「どうして」


ミナは、少し考えた。


「消えてほしくないから」と言った。


常火荘が見えてきた。


古い建物の二階の窓に、橙と金の光が映っていた。


夕日はもう沈んでいるはずだった。


なのに、その光は、どこかでまだ燃えているように見えた。


エントランスの前で、ミナは立ち止まった。


「次は二人で来ますか」と言った。


ハルは、一秒固まった。


「来ます」と言った。


「予約しておいた方がいいですね。今度こそ」


「してあります」とハルは言った。「今夜行くはずだった店の予約が、まだあります」


ミナは少し笑った。


「来週、どうですか」


「来週」とハルは言った。「来週、行きましょう」


「弥三郎さんには内緒で」


「内緒で」


「難しいかもしれないですけど」


「難しいと思います」


二人は笑った。


今度は、二人の笑い声が重なった。


---


エントランスを入った。


エレベーターで二階へ。


廊下で「おやすみなさい」を言った。


ドアが閉まる前に、ミナが振り返った。


「言いかけたこと、いつか聞かせてください」


「いつか」


「はい。消える前に」


ドアが閉まった。


ハルは廊下に一人で立っていた。


しばらく、そのままだった。


それから自分の部屋に入り、ドアを閉めた。


「よし」と言った。


一人で言った。


誰も聞いていなかった。


しかし、聞かれても構わなかった。


---


101号室では、弥三郎じいがすでに帰宅していた。


縄を編みながら、天井を見上げていた。


「まだまだかかるな」と言った。


独り言だった。


しかし満足そうだった。


そのころ、四階の奥。


401号室の前で、橙と金の光が、ほんの少しだけ揺れていた。


表札には、こう書かれていた。


サレン。


けれど、古い者は知っている。


その名だけでは、足りないことを。


---


(第一話 了)


---


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