第四話「映画に行く、のはずだった」
付き合い始めてから、最初のデートは映画だった。
評判のよいフランス映画で、上映時間は二時間ちょっとだった。
暗い映画館の中で二人で並んで見る、という計画だった。
何がいいかと言えば、暗くて静かな空間に二人でいられること、そして上映中は誰も乱入してこられないことだった。
「映画館なら邪魔されない」とハルは思った。
甘かった。
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映画館に着いた。
チケットを買った。
館内に入った。
G列の7番と8番に座った。
「来ましたね」とミナは言った。
「来ましたね」とハルは言った。
「邪魔されないですね」
「されないはずです」
「されませんよ」
「絶対されません」
暗くなった。
予告編が始まった。
G列の6番に、誰かが座った。
ハルは横を見た。
弥三郎じいだった。
「なぜいるんですか」とハルは小声で言った。
「映画を見に来た」とじいは小声で言った。
「この映画を見るんですか」
「フランス映画は好きでな」
「ここの席を選んだのはなぜですか」
「空いていたから」
ハルはミナを見た。
ミナはメモ帳を取り出していた。
「記録しないでください」とハルは言った。
「もう書きました」とミナは言った。
本編が始まった。
フランス語のセリフが流れた。字幕が出た。
美しい映画だった。
パリの街が映っていた。
二人の男女が出てきて、すれ違い続けていた。
すれ違い続けながら、少しずつ近づいていた。
「うまいなあ」と弥三郎じいがつぶやいた。
「しーっ」と後ろから声が飛んだ。
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映画の途中、ハルはそっとミナの手に手を重ねようとした。
暗い中で、腕置きのところで、ゆっくりと。
弥三郎じいの手があった。
「じいさん、なぜ俺の右側に座っているんですか」とハルは小声で言った。
「空いていたから」とじいは小声で言った。
「ミナさんが左にいるんですが」
「知っている」
「俺の左に座ればよかったでしょう」
「そっちは端っこだ。端の席は足が伸ばせない」
「足を伸ばさなくていいです」
「伸ばしたい年頃なんだ」
ハルは映画の画面を見た。
パリの男女が、やっと話していた。
ミナの方を見た。
ミナが静かに笑っていた。
「なぜ笑っているんですか」とハルは小声で言った。
「面白いから」とミナは小声で言った。
「何が」
「すべてが」
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映画が終わった。
館内が明るくなった。
席を立とうとすると、H列から知った声が聞こえた。
「やはり、最後の沈黙がよかった」
マティアスだった。
H列の端に座っていた。
「マティアスさんもいたんですか」とハルは言った。
「映画を見に来た」
「なぜこの映画を」
「すれ違い続ける二人が、時間をかけて繋がる話だと聞いた」
「誰にですか」
「弥三郎に」
ハルは弥三郎じいを見た。
弥三郎じいは目を逸らした。
「二人で来たんですか」
「偶然だ」と弥三郎じいは言った。
「偶然、同じ映画の同じ時間帯に?」
「そういう巡りもある」
マティアスは映画のパンフレットを見ながら言った。
「金と似ている」
「映画がですか」とミナが言った。
「時間をかけて近づくものは、たいてい金に似る」
「また金ですか」とハルは言った。
「金は変わらない。だが、それを見る者は変わる」
ミナは少し考えた。
「記録しておきます」
「しなくていいです」とハルは言った。
「します」とミナは言った。
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帰り道、四人で歩いた。
四人で。
弥三郎じいとマティアスが前を歩いていた。
フランス映画の感想を話し合っていた。思ったより話が合うらしく、盛り上がっていた。
ハルとミナが後ろを歩いていた。
「二人になれませんでした」とハルは言った。
「でも映画はよかったです」とミナは言った。
「よかったですね」
「すれ違い続ける二人が、ちゃんと繋がった」
「私たちとは違いますね」とハルは言った。
「どう違うんですか」
「私たちはすれ違っていない。ただ邪魔されている」
ミナは少し笑った。
「邪魔されても」とミナは言った。「ちゃんと繋がっていると思いますが」
「そうですか」
「そうです」とミナは言った。「映画より、あなたの隣で見ていた方が、面白かった気がします」
「あの状況のどこが面白いんですか」
「弥三郎さんとの手の置き場の争いを、端から観察できたので」
「観察しないでください」
「記録しました」
「見せないでください」
「後で見せます」
前を歩く二人が笑い声を上げた。
何かの映画の話をしているらしかった。
後ろを歩く二人も、笑った。
四人の笑い声が、夜道に広がった。
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(第四話 了)
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## 第五話「誕生日を祝う、のはずだった」
ミナの誕生日は、秋の初めだった。
ハルはそれを、ミナの住民票の写しから知った。
管理人として住民情報を把握することは、業務の一環だった。
しかしミナの誕生日を把握した瞬間に、それが業務ではなくなった。
「誕生日、何か好きなものはありますか」とさりげなく聞いた。
「ケーキが好きです」とミナは言った。
「どんなケーキが」
「苺のショートケーキ」
「了解です」とハルは言った。さりげなく。
さりげなく、メモした。
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誕生日当日、ハルはケーキを買って帰った。
白い箱を持って、エレベーターに乗った。
二階で降りた。
廊下を歩いた。
202号室の前に立った。
インターフォンを押そうとした。
廊下の端から端まで、人が並んでいた。
弥三郎じい。
マティアス。
そして最奥に、この物語で初めてまともに姿を見せる401号室の住人、サレンが立っていた。
白い髪。
古い山のような静けさ。
そして、金色の目。
「なぜみんなここに」とハルは言った。
「ミナ嬢の誕生日だ」と弥三郎じいは言った。
「知っていたんですか」
「三日前から知っていた」
「誰に聞いたんですか」
「マティアスだ」
マティアスを見た。
「私は掲示板の貼り紙を見ただけだ」とマティアスは言った。「管理人がケーキ屋のチラシに丸をつけていた」
「見ないでください」
「見える場所に貼ってあった」
「貼ったのは俺ですが」
「ならば見える」
サレンが口を開いた。
全員が振り返った。
サレンが自発的に話すのは、珍しかった。
「わしは」とサレンは言った。声が低く、静かだった。「誕生日というものに、特別な感情がある」
「どんな感情ですか」とミナが言った。
「長く生きると」とサレンは言った。「誕生日を迎えるたびに、また一年生きたと思う。それだけで、十分嬉しい」
全員が静かになった。
サレンの言葉は、少ないが重かった。
弥三郎じいが、そっと頭を下げた。
「サブレ様」と呼んだ。
ハルは目を見開いた。
「今、何と」
「聞こえたなら、それでいい」と弥三郎じいは言った。
サレンは否定しなかった。
ただ、金色の目で、ミナを見ていた。
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202号室のドアが開いた。
ミナが出てきた。
廊下に全員が並んでいるのを見た。
一秒、固まった。
「……誕生日おめでとうございます」と全員が言った。タイミングはばらばらだった。
ミナはしばらく、全員を見ていた。
それから、少し目が赤くなった。
「ありがとうございます」とミナは言った。
「泣いているんですか」とハルは言った。
「泣いていません」
「目が赤いです」
「泣いていません」とミナは言った。「ただ、記録したいと思って」
「今ですか」
「今です」
ミナはポケットからメモ帳を取り出した。
几帳面な字で、何かを書いた。
「何を書いたんですか」とマティアスが覗き込んだ。
「『誕生日に廊下に全員が並んでいた。嬉しかった』と書きました」
「嬉しかったんですか」とハルは言った。
「嬉しかったです」とミナは言った。「こんなことをしてもらったのは、初めてです」
弥三郎じいが縄編みの小物入れを渡した。
マティアスが、小さな真鍮の栞を渡した。
「金ではない」とマティアスは言った。「だが、長く残る」
サレンは、何も持っていない手で、ミナの頭をそっと一回だけ撫でた。
「長く生きろ」と言った。
それだけだった。
ミナはサレンを見た。
「はい」と言った。
ハルがケーキを渡した。
「苺のショートケーキです」と言った。
「覚えていてくれたんですか」とミナは言った。
「覚えていました」
「いつ聞いた話ですか」
「三週間前です」
ミナはケーキの箱を受け取った。
また目が赤くなった。
「泣いていません」とミナは言った。先に言った。
「分かっています」とハルは言った。
「一緒に食べましょう」とミナは言った。「全員で」
「全員でですか」とハルは言った。
「全員で」とミナは言った。「こういう日は、一人でも多い方がいい」
全員で、ミナの部屋に入った。
狭い部屋に、四人と一人が入った。
ケーキを切った。
五等分した。
全員で食べた。
ミナの部屋は、几帳面に整理されていた。
壁に、何かの記録が貼ってあった。
「何の記録ですか」とマティアスが言った。
「常火荘の記録です」とミナは言った。
全員が壁を見た。
ハルがちらちら見た回数。
屋上でマティアスが望遠鏡を持ってきた日時。
映画館での手の置き場事件の経緯。
弥三郎が何回「偶然」と言ったか。
サレンの目が一度だけ光ったこと。
「全部書いてあるんですか」とハルは言った。
「書いてあります」とミナは言った。「消えてほしくないから」
「俺のちらちら見た回数まで」
「大事なことだから」
ハルはケーキを食べながら、その壁を見ていた。
自分のことが、ミナの記録に残っている。
それが、少し嬉しかった。
「ハル坊」と弥三郎じいが言った。
「何ですか」
「顔に出ているぞ」
「出ていません」
「嬉しそうな顔をしている」
「出ていません」とハルは言った。
「出ています」とミナが言った。
「出ている」とマティアスが言った。
「出ておる」とサレンが言った。
全員に言われた。
ハルはケーキを食べた。
苺のショートケーキは、甘かった。
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(第五話 了)
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