12.最愛〜Dearest〜
ーー冴えた空気が夜を鮮明に映し出す。くっきりとしたオリオン座が浮かぶ、冬の夜のこと。
ホラ、見てごらん。
まだいくらか若く両の瞳がアメジストだった頃の父が言った。二階のバルコニー、星空に魅入る小さな息子の隣に立って。
あれがオリオン座。父さんの名は、あの青い星だよ。
指で指し示すと見開かれていった、父と同じ色の瞳。表情の薄い気弱そうな少年が手すりに掴まりわずかに身を乗り出した。声もなく、だけど食い入るように見ている彼の背中を父の大きな手がそっと包み込む。そしてまた語る。
「英雄オリオンはとても強かった。だけど、そんな彼にも恐れる存在があったんだ」
「…そうなの?」
円らな目で見上げる少年へ父は頷く。月明かりにキラキラと光る滑らかな髪を優しく撫でてくれる。
「…蠍さ。地の女神の怒りを買ったオリオンは蠍に仕留められた。今では夏の星座、それもデカデカと夜空を占めているその存在から、オリオンは未だに逃げ続けている…」
【シャウラ】
ーー蠍の象徴。
父は呼んだ。穢れの一つも知らないような幼い我が子を愛おしげに見つめながら告げた。いや、命じた。
「私を…オリオンを超えなさい。お前はいずれ目覚めるだろう。そのときは毒を放ちなさい、正義の毒を」
英雄さえ恐れる、したたかな闇の覇者となるのだよ。
いつもと違って聞こえた父の口調。幼い頃、その意味はわからなかった。ただ自分のこの名はきっとこの人が与えたのだろう、と知ったくらい。
目覚める…そう言われたのに、いくつになっても目覚めることはなかった。記憶の断片すら手に入らない孤独で心細い日々の中、時折向けられる父の眼差しはあの頃みたいに優しい色をしていたと、本当は気付いていた。そして、今。
ますますわからない。遠い記憶と思っていた少年の頃が今ではやけに近く感じられる。更に遠くが見えているから。
背中から貫かれた激痛に震えながらも腕で身体を起こした。ポタポタと下へこぼれる赤の雫が彼女の服を染めていく。一時は焦燥した。だけど、やがて気付いた。
矢の切っ先はここで止まっている。血まみれの服を纏った彼女の水色の瞳にははっきりと意識が見られる。傷は負っていない…そのことに心の底から安堵するなり、激しくむせ返ってしまった。
口から溢れた赤を彼女の頬にまで飛ばしてしまった。更に大きく壊れそうに見開かれたアクアマリン。小さな小さな女の子。だけど、もう誰だかわかっている。【ミラ】…自身で名付けたその、もっと前。柔らかな頬をそっと撫でた。ポロポロと涙をこぼしていく彼女へシャウラはかすれた声で。
やっと見つけた…
自身も溢れる雫に両目を満たしながら。
「…ラナ」
しばらくぶりに口にした懐かしい名の最後は情けなく裏返ってしまった。ニコル…彼女は返す。こちらもまた、懐かしい響き。シャウラは言った。もうありありと思い出せていることを。
「ごめんね、もう二度と君を失いたくなかった。例え傍に居られなくても、君に生きていてほしか…っ…」
最後まで言い切れない喉はまた苦しく突き上げてむせ返る。真っ直ぐ見上げる彼女の瞳はやがて悲壮に満たされた。激しくかぶりを振った彼女がせきを切ったように声を枯らして叫んだ。
「死なないで!独りにしないで!愛してる…今でもずっと変わらないの」
愛しているの、シャウラ…!!
「ミラ…」
そんな顔をさせてしまったって、罪悪感はある。だけどそれ以上に安堵してしまう。こうして何もかも封じて生きてきた目的は他でもない、ここにあるのだから、と、実感を覚えながら、ただ溢れる彼女の涙を指先で拭ってあげるだけ。
痛みは続いていた。頭もクラクラする。だけど、気が付いたら笑っていた。彼女に言っていた。
ーー僕もだ。
こんなかすれ切った息のような声で、ちゃんと届いたかはわからない。だけど伝えたかった。意識は遥か遠く、あの場所へと旅立ち始めた。