11.切望〜Longing〜
叔父と甥。二人の死闘は双方の軍からも見てとれる。あらかたの状況もきっと把握できたことだろう。
特にルナティック・ヘブンの前例に立つ者にはある程度の声まで聞こえていたようだ。聴力の長けた蝙蝠魔族ならなおのこと。
「ニコル…」
ぽつりと落ちた、シャウラの呟きが示していた。頭が痛むのか、額を手で押さえている。その間からわずかに覗く眉は中央へ寄っている。ミンタカの黄の目がちら、とそちらへ動く。
「僕のこと…なのか?父さんもレグルスも…前世から、知っていた…?」
「若…」
ミンタカは背後から近付きその大きな手で彼の薄い肩を掴んだ。行き場を失くしたかのようなシャウラの心細げな顔を覗き込んだ。彼は言った。
「これでわかったでしょう?あのレグルスという男はあなた様が死に瀕する元凶を作った挙句、あなた様を見捨てて逃げたのです。許されざる罪人なのですよ」
憐れむ口調と優しい微笑みはあざといくらい、完成度が高い。それでもシャウラはそちらを見ようとはしない。いや、そんな余裕さえないくらい混乱している為か。ミンタカは困ったようにため息を落として彼から手を離した。それから、低く、静かに。
「このままではルシフェル様が危ない。あのお方は止めるかも知れませんが、私は加勢しますよ」
ミンタカの黄色の瞳の奥が渦巻き始める。それに気付かないシャウラは代わりに別の方へ目を止めた。
炎の獅子を背に従え、ルシフェルを追い詰めようとしているレグルスの姿に見入っている王宮側の者たち。その中の一人がゆらりと立ち上がった。鎖で後ろ手に拘束されたままのスピカだった。
我に返って振り返ったマラカイトを彼女はすらりと長い脚で一瞬のうちに蹴り倒した。低い呻きと鎖の金属音に皆が振り返った。
マラカイトの手からすり抜けた鎖を引きずり、不気味な霊気を放つ彼女の足は確実に婚約者である彼の方を目指している。止めようとする他の仲間たちを容赦なく蹴散らして進んでいく。
これまでにない程の魔力を使っている為か、レグルス一人が、気付いていない。
「ミンタカ…!」
シャウラが無我夢中といった様子で隣のミンタカにしがみ付いた。集中を遮られた彼の動揺を鏡で映したかのように、スピカの足取りが不安定に揺れた。
「若…何故あのような者を庇うのです!」
黙ってかぶりを振るシャウラにミンタカは言う。
「ルシフェル様から聞きました。前世でもあの者を庇おうとして、あなた様は…!」
「違う…違う…っ!」
華奢な腕から伝わる凄まじい力に驚いている様子のミンタカ。意地でも離さないシャウラ。
虚ろな目でフラフラと歩くスピカは今にも王宮勢に追い付かれそうになっている。そのとき、獣のようにけたたましい叫びが響き渡った。
平静を保てた者などいなかった。固く目をつぶっているか、大きく見開いているかのどちらかだ。
ルシフェルの全身から色として見える程の魔力が放出されている。紫がかった闇のオーラ。雄叫びの出処はもはやはっきりしている。
ルシフェルがゆっくりと立ち上がった。そして、恐ろしく低い声で。
「何故貴様は私の甥なのだ…何故、ガルシアを選んで生まれてきた…!」
苦しそうな吐息混じりの声。魔力は更に濃さを増していく。何処までいくのかというくらい。
「これ以上、時間をかけている暇はない…」
ーー今ここで、終わらせてくれようーー
その一言が皮切りだった。
片腕を天高くへかざしたルシフェル。
辺りがざわつき出した。
みるみる暗雲に埋め尽くされていく空のせいだった。
まさか、という呟きが何処からか漏れた。
シャウラは声のした方を見上げた。そこにあったのは大きく目を見開いて上空を仰いでいる、ミンタカの横顔。恐れ…なのに、何処か恍惚としたような色をした、目。
やがて暗雲の中からおびただしい数の黒点が不気味に浮かび上がった。それは徐々に大きさを増していく。間近まで迫ったところでようやく何人かが気付いた。
…点ではなかったのだ。
「みんな…!」
高い声を上げたのは王宮側、セレスだった。瞬時に張られたバリアに降り注いだ闇色の矢が弾かれていく。その外では入り損ねた者たちが貫かれてはばたばたと倒れていく。
ーーものの数秒で何十人もの亡骸が出来上がる光景を誰もが地獄と感じたことだろう。組織側からも矢の量を示すようなおびただしい数の悲鳴が上がった。
ルシフェル様!おやめ下さい!
これでは我々まで…!
名を呼ぶいくつかの叫び声はルシフェルの耳にも届いたようだった。彼は振り返った。淀んだ薄ら笑いが浮かんでいた。
「死を恐れる君たちが弱いってことだよ。この男と同じようにね!だから私が救ってあげるのだよ。大丈夫、すぐに楽になるから」
ハハ…!とあの無邪気な少年みたいな声で笑う。潤いが飛んでバサバサに乱れた前髪の間から焼け爛れた肌と見開かれたオッドアイが覗いている。もう自身でも抑えがきかないのか、すっかりたがが外れてしまっている様子。
「やめろっつってんだろ、気違いが…!」
炎を滾らせたままのレグルスが彼へ掴みかかる。地面を転がり、もつれ合う二人。レグルスの炎は更に勢いを増してルシフェルと降り注ぐ矢を焼き焦がしていく。
「何とかならないのか、ミンタカ!」
自分へ覆い被さっている人にシャウラが叫んだ。しかし、返事は返ってこない。静か過ぎるその様子にシャウラは眉をひそめた。
ミンタカ…?
もう一度、呼んだ。その直後、被さっていた大きな身体が揺らいだ。受け止めようとしたシャウラはそのままコンクリートの地面に押し倒された。彼はやっと目を見開いた。やっと、察したように。
「若…どうか、このまま私を…盾に……」
「馬鹿を言うな、ミンタカ!今、お前を…っ」
見上げるシャウラの顔は子どもの泣き顔のよう。必死に手で傷を探り、唯一の力を放とうとしている彼にミンタカは柔らかく微笑みかける。まるで、我が子を慈しむような笑顔。
いいのです…
細くかすれた声の後。
「例えここで果てても、この世の未来の人柱となれるのなら……ルシフェル様は最後に若を守るという役目を私に与えて下さった…私は、幸せ、です」
なおも名を呼び続けるシャウラに降り注ぐ声は徐々に痩せて小さくなっていく。最後はもはや吐息のようだった。
「ルシフェル様…そして、若に…光、あらんことを…」
消え入る声の後、ミンタカの首ががくりと垂れた。下の彼が呻いたのは全身にのしかかる重さのせいか、それとも、彼にしか持ち得ない感情のせいか。
シャウラはそのまま、動こうとはしなかった。そこへ遠くから飛んできた、声。
「若、早くこっちへ…!」
バリアの中のマラカイトが手を差し出す仕草を彼へ向けている。彼は力いっぱい叫んでいる。
「ミンタカ様を…その身体と一緒に来てください!」
露骨には言えなかったのだろうが、その亡骸を盾にしろ…つまりそういうことだ。しかしこの状況なら妥当だ。生身で向かったりすればどうなるか、その答えは誰が見たって明らかだ。
ミンタカの亡骸を肩で支えたまま、ゆらりと虚ろな顔を傾けたシャウラ。しかしその紫の双眼はやがてはっきりと開いた。
向かってくる、真っ直ぐ、向かってくる姿を映して。
ミラ…!!
彼は身体を起こした。亡骸をそっと横たえて立ち上がる、それから走り出す、その仕草に、迷いは見えなかった。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
ーー地獄絵図。
17年、フィジカルの日本で生きたセレスの脳裏にはそんな言葉が真っ先に浮かんだ。とっさにバリアを張って防いだ。近くにいる仲間を多く、出来るだけ多く、招き入れるので精一杯だった。
入り損ねた者がいることに気付いたとき、セレスの目の奥はまた痛く突かれた。ルシフェルともつれているレグルスだっていつどうなってしまうか…気が気じゃなかったけれど、それでも今は、今はこれを維持するしかない、そんな思いで埋め尽くした。
マラカイトは必死に声を上げている。何とか無事でいる様子の“友達”を呼んでいるのだとわかった。あっちの大多数はもう貫かれ、倒れている。黒い群れがおぞましく地面を埋めている。敵味方関係なく道連れ…悪魔を称する男の恐ろしさを実感してしまう。まさか、こんなことになるなんて、と。
そのとき、気付いた。実感を覚えた、もう一つ。セレスは息を飲んだ。
いない。
彼女が、いない。
見渡してみても見つからない。こんなに寒いのに、焦燥に汗が吹き出てくる。セレスはついに声を張り上げる。
「ミラは?ミラは…何処!?」
降り注ぐ闇色の矢が心底邪魔だった。これじゃあ見えない…!そう苛立っていた。なのに、何故だろう。
ミラ…!!
彼女を呼ぶ声を耳にしたその瞬間、見えた。闇色の矢がまるで察したみたいに透けて、はっきりと、見えたのだ。
降り注ぐ矢の雨の中を駆け抜ける少女。スローモーションで宙を踊る薄桃色の髪。
そして反対側からも、来る。長めの銀色の髪。黒服の細いシルエット。
行き交う、二つの名。
共に同じタイミングで両手を伸ばした小さな彼女と痩せた彼は、しっかり抱き合うなりその場に倒れた。カサ、と木の葉みたいに乾いた音がした。
セレスは動きを止めた。動き、だけじゃない。息も、瞬きも、全て、忘れて、見入った。
「嘘…でしょ…」
しばらくして、やっと唇だけが震えた。声とも言えない声がこぼれたようだった。
闇の雨は、止んだ。だからこそ、今、はっきりと、更にはっきりと、見える。そこに、居る。
倒れたままの二人。下にミラ。上にシャウラ。
被さっている方の背中には何か生えている。黒、闇の色……否定できない。したくてもできない。あれ程の凄まじい量で凄まじく降り注いだ矢。長さなんてわからなかったけれど…それにしたって覗いている長さが短すぎる。貫かれている。それを示している。
きっと誰もが呆然としていた。若……隣で呟いた彼もきっと。レグルスも、そして、魔力の放出をやめた、ルシフェルも。
片方が動くのが見えた。その後に続いた。はらはらと下へ、儚くこぼれる花弁のような鮮血。そして……
シャウラ…!
嫌…!!
悲痛な叫びを聞きながら、思い出していた。マラカイトが怒った、あの言葉。
ーー僕なら、どうなってもいいからーー
冗談じゃない、本当に冗談じゃないわ。
勝手に彼女の手を離して、勝手にこんな場所へ身を隠して、勝手に戻って来たと思った矢先に、勝手に……
「そんなのって、ないわよ」
セレスは呟いた。そして、胸の内でも…
ーー本当に、勝手な男ーー
言葉にしきれなかった、思いが。




