10.自分勝手〜Selfish〜
稲光を思わせる眩い閃光の後、事態は急変した。捕らえられたばかりの妖精二人が駆け出してくるのを目の当たりにしたルシフェルからは魔力の波が薄れ始めた。
ねじ伏せられたスピカは虚ろな顔をしたまま立ち上がろうともしない。ルシフェルの側で呟きが漏れた。ミンタカのものだった。
「馬鹿な…何故、私の洗脳が…?」
目を見張って立ち尽くしている彼からもまた、魔力の波動が薄れている。それこそがまさに、スピカが動かない理由。黒服に身を包んでいる誰もが呆然としている。そんな中、やがてルシフェルが口を開いた。
「…だって、私の息子だもの」
そうこぼす彼はただ一点を見つめていた。激しく変動する光景の中で彼の目を奪うものがあった。その答えは確実に彼の元へと迫り、そして足元へと放り出された。
「ーー申し訳ありません、ルシフェル様。若にこんな手荒な真似はしたくなかったのですが…」
がたいのいい魔族の男が心底ばつが悪そうに深々と頭を下げる。後ろ手に捕らえられたシャウラはやがて押さえる手をすり抜け、コンクリートの地面に両の膝を着いた。
抵抗でもしたのか、それとも何らかの一撃を加えられたのか、苦痛に歪んだ表情からは切れ切れな吐息が漏れている。ルシフェルの表情が一変した。鬼の形相とも言える顔だった。
「救いようのない軟弱者だな。ここまで失望させてくれるとは…」
地響きのような低い声と共に黒の袖に包まれた腕が下へ向かった。胸ぐらから強制的に立ち上がらされたシャウラが小さく呻く。そこへルシフェルがぐっと顔を近付ける。
「約束を守ってほしいのなら、まずは自分が守ることだと教えたはずだぞ、シャウラ」
「黙れ!!」
鋭い声が天まで上がった。目を尖らせたシャウラが続けて言い放った。
「貴様は最初から約束を守る気なんかない。世界もろとも滅ぼそうとしているクセに…誰がそんな奴のことなんか…!」
鋭利な刃物のような波動が彼を中心に辺りへ広がり振動を与える。感じ取ったのだろうか、ミンタカを始めとする取り巻きたちがびく、と後ろへたじろく。そんな中でもルシフェルだけは堂々たる姿勢を崩さない。呆れたようにため息を落とした後、彼はまた。
「滅ぼすのではない、創り直すのだ。誰だって失敗したらやり直そうとするだろう」
少年じみた口調など嘘だったように低く沈んでいる。それは次第に語気を強めた。シャウラのものを上回る殺気が放たれていた。もはや周囲の誰もが声一つ漏らさない。シャウラ…武者震いと思える震えと共にルシフェルは言う。
「お前がいつもどっちつかずな態度で周りを振り回すのは何故だ?お前の信念を揺るがすものとは何だ?それは弱者という悪に他ならない」
暗く陰を落とす顔と、唸る声。止まない尖った波長。
「お前は記憶がないと言うが、それはお前が誰よりも過去にすがり付いている証拠だ。その魂はちゃんと覚えているし、私もお前の本当の強さを、知っている」
目を覚ませ。
突き離す勢いをつけてルシフェルは手を離した。解放されたシャウラは一、二歩千鳥足でふらつき、何とか踏みとどまった。恨めしげなその顔は上へではなく別の方へと向いた。
離れた場所に居る者たち。大きさも特徴も異なっている、6人の姿。とりわけその中の一点で止まった紫の目がやがて形を変えた。苦しそうな、悶えるような形へ顔全体も変わっていく。
息子を一瞥したルシフェルがふい、と同じ方を向くと、その先で立ち上がった一つの影。静かに見据えていた、ルシフェルが口を開いた。
「お前にとっての悪が滅される瞬間をその目でしかと見ろ。そのときお前は真の強さを取り戻すだろう」
シャウラ、私は…信じているよ。
願いのような響きを残した彼がゆっくりと息子から遠ざかり始める。向かい合う者も同時に一歩を踏み出した。同じ色の髪、同じ形状の翼、共通するものを持つ二人が距離を縮めつつあった。
「来い、罪人レグルスよ!どちらが正義を貫けるか、決着をつけようではないか」
「望むところだ。俺は俺の正義を貫かせてもらう…!」
歩みゆく二人はどちらからともなく剣を手にした。激しく渦巻く魔力の波。新たに動き出す予感をきっと誰もが感じたことだろう。
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東から白々と明るみ始めていく空の中に、月はもう、ない。遠いものが見えづらくなったのは、濃度を増す霧のせいだろうか。
湿った空気が身体に貼り付くよう。ミラを胸に抱えているセレスも思わず身震いしてしまう。容赦のない晩冬の夜明けの中、宙を切り裂くような金属音が響いた。
交わる二つの剣。操るレグルスとルシフェルは雄の野生動物の如く額を付き合わせて睨み合う。ルシフェルの指示なのだろうか、組織側も誰一人争いに加わろうとはしない。双方共に少しでも気を緩めたが最後、見るも無残な八つ裂きにされてしまう…そんな勢いだ。
声はいくつか聞こえてきた。
「胸糞悪いんだよね…一人で大きくなったようなその顔を見てるとさぁ」
重なり合う剣の向こうで醜く吊り上がっていく悪魔の口角も、見えた。
すでに赤く染まっていたレグルスの肩からは、力を込める度にポタポタと雫が落ちていく。それでも彼は言う。目の前の悪魔のものにも劣らない好戦的な嘲笑まで浮かべて。
「てめぇも相当過去にすがり付いてやがるな。シャウラのことを言えたクチじゃねぇだろ」
彼が言い終わったか終わらないかという辺り、刹那のうちに空気が変わった。それからはもう、あっという間で。
「レグルス!」
地に仰向けに身体を打ち付けられた彼を目にしてセレスは思わず叫んだ。しかし待ってなどくれない。彼の首を押さえ付けるルシフェルは、すでにもう片方の手を宙へ振り上げている。
「知ったようなことを…!!」
響いたのはぞく、と逆立ってしまう、おぞましい声。銀の長髪に覆われた下向きのルシフェルの表情を見ることはできない。だけど確かに声はそこから。
「すがり付くだと?私は過去を糧にしているのだ。もう二度と貴様のような愚者から尊きものを奪わせない為に…!」
いよいよ平静を保てなくなった、そんな感じの声には荒々しい息遣いさえ混じっている。レグルスは何度か身構えようと立ち上がりかけている。ところがその都度、黒の片手にねじ伏せられてしまう。もう片方がまた上へ向かう。そこに握られているギラリと光る太い塊がぶれずに、下へ。
瞬間を目にしたセレスは息を飲んだ。直後けたたましい悲鳴が上がった。
無防備に天に向いたレグルスの手のひらが銀の塊に貫かれていた。激しく身をよじるその姿が耐え難い苦痛を示している。
レグルス…レグルス…っ!!
思わず顔を伏せてしまった。セレス…少し落ち着いた様子のミラが手を握ってくれたけれど、全身の震えは治まらなくて。
「逃げた貴様にはわかるまいな。ニコルの死がどれ程多くの人間の心に陰を落としたか。死ぬ必要のない者が巻き込まれるところを目の当たりにしたニコルがどれ程の絶望の中で息絶えていったか…」
続く憎しみの言葉は近いようで何処か遠いものに感じられた。ここ最近になってから耳にし始めた。ニコル…それが誰を指すのか、はっきりとは聞いていなくても、もう見えてきているよう。
きっと、今も、この場所に。
もう、やめて…!
悲痛な叫びはすぐ傍から上がった。やっと気が付いた。いつの間にかこちらを向いていた、ルシフェルの視線と胸の中の彼女のものとが交わっていることに。
「お願い、もういいの!私たちは…っ…!」
続くミラの呼びかけが聞こえているのかいないのか、ルシフェルはまた向き直り力いっぱいに振りかぶった。凄まじい勢いにレグルスの頬が音を立てた。
「大人しく守られていればいいものを、兵士になどなりやがって…!」
右から左からと立て続けの衝撃が彼の顔を襲う。口から伝う血液は白い頬によく映えて、いくらか距離のあるこちらにもはっきりと見てとれた。もう無理、そう思った。セレスは立ち上がった。その場所へ向かおうと踏み出したとき…
俺は…
かすれた声を捉えた。かぶりを振ったレグルスが力まかせといった勢いで叫んだ。
「俺は…っ、アイツのようになりたかったんだ…!」
ずっと、ずっと、憧れていた!
それが期だった。ルシフェルの拳が動きを止めた。口に溜まった血を吐き出したレグルスが仰向けのまま、彼を睨んだ。
「幼い頃から守ってくれたアイツの…ニコルの背中を見ていた。いつかは自分も強くなって、大切な人を守るんだって誓った。あのときはアイツを助けられなかったけど、その後、俺は俺の役目を果たしたつもりだ!」
へっ、と鼻で笑う音が聞こえた。ルシフェルのものが。
「役目?逃げることか?」
「違う!!」
軽蔑的な笑みで見下ろすルシフェルへレグルスは噛み付くように。
「生きることだ。そして、悲劇を繰り返さないように後世に伝えることだ」
それがニコルの望んだことだった…
セレスも完全に動きを止めていた。意味はまだ見えなくても彼の痛みならリアルに自分のもののように伝わってくる。自然と溢れた雫が前を霞ませ、頬を伝う。彼の声が今度は“問う”。
「ニコルの死の後、てめぇがしたことは何だ?自暴自棄になって兵士という枠を超えて、誰彼かまわぬ殺戮に走った。ニコルが最も嫌った悲劇の連鎖をてめぇは起こした。俺が、知らないとでも思ったか!?」
長い髪の隙間からルシフェルの目が見開かれていくのが見えた。呆気にとられたように半開きになった唇が震え始めるのも見えた。レグルスはなおも続ける。もう止まらない。しっかり上を見上げ、抉るような鋭さで言い放つ。
「てめぇは知っていたのか?ニコルの願いを。アイツはてめぇみたいな偏った人間じゃなかった。知ったかぶりはてめぇの方だ、ルシフェル!今すぐアイツを解放しろ!」
アイツは…
一度息を整えた。その後に続いた言葉が解き明かした。
「ニコルは、今はシャウラとして生きてんだ!新しい世界で新しい人生を歩む為に、ここへ生まれた魂だ!そして…たった一人を守る為に記憶さえ封じた。こんなことの為に生まれ変わったんじゃないと何故わからない!?これ以上アイツの邪魔をするなッ!!」
動きを止めて表情を凍り付かせた、ルシフェル。セレスは思い立った。声ではなかったけど、確かに彼へ投げた、念。
レグルス…!!
それは届いたとすぐにわかった。覆い被さるルシフェルの身体を一気に押しのけた彼は唸り声を上げながら身体を起こした。…手のひらに刺さった剣が指の股まで切り裂いていた。
それでも彼は前へと向かう。激痛を掻き消すように雄叫びを上げ、がむしゃらに掴みかかった。沸いて絡み付こうとしているあの呪いの茨…だけど。
ーー炎の獅子!!ーー
一瞬のうちに炎の柱が天を突いた。中心の彼に絡み付いた茨も焼き払われた。
身体の大きさをはるかに上回る巨大な炎はやがて獅子に姿を変え、ゆらりと口を開いた。抗おうとするルシフェルをレグルスは決して離そうとはしない。
鋭い牙と爪をむき出した獅子は、真っ直ぐ前へと容赦なく突き進んだ。断末魔のような叫びは襲われた男の激しいダメージを伝えてきた。
「…マジかよ」
後ろから声がした。マラカイトの呟き。
「これが…獅子座の力…」
セレスも思わずこぼした。こんなの知らない。トレーニングのときだって見せてもらったことはないと、呆然としてしまって。
灰になったのではないかと思う程、軽い音を立てて崩れ落ちたルシフェルを獅子を背負ったレグルスが見下ろす。その姿はゆらめく炎の逆光で陰っている。
やがて、低く呻きながらやっと片膝を上げたルシフェルに向かって、彼は。
「ーー昔話はもう聞き飽きた」
今の俺は、違う。
燃え盛る炎に反して、レグルスの表情は落ち着き払ったものだった。威厳ある場所へと登る覚悟を決めた…“百獣の王”そんな名が脳裏をよぎった。