9.執念〜Tenacity〜
ーー冷たい空気の張り詰める廊下はしんと静寂の音が占めていた。それでも確かに感じる、何者かの気配…
セレスとマラカイトは息を潜める。前を行くシャウラも曲がり角に差しかかる度、忍者のように壁に張り付いて行く先の様子を伺う。彼の頷く合図で進み出す、その繰り返し。
数分前まであの部屋に居た。ある依頼を受けるまで。
ーー頼み…?
そう聞き返したセレスに悲しげな瞳の若頭は言った。
「ミラを助けて欲しい。まだ、この建物の中に居るんだ…」
勝手なのは、わかってる…自責を思わせる陰った表情と共にそう小さくこぼした彼はまた続けた。
「僕もあなた方に協力します。一緒に抜け出してレグルスたちに加勢して下さい。ミラを守って下さい」
その後また小さく続いた言葉を、セレスは聞き逃さなかった。同じようにマラカイトの耳にも届いたようだ。
「若も妹さんも、俺らが守ります!だから、そんなこと…!」
身を乗り出して説得する彼の前、うつむいたままのシャウラの落とす陰が晴れることはなかった。セレスは一人、唇を噛んでいた。
ーー本当に、勝手な男。
そう思ってしまって。
煮え切らない思いはあった。とは言え、今こうして彼が導いてくれることで何とか先が見えそうな感覚を覚えている。順調、そんな二文字が浮かんですらいた。しかし。
何をしている…!?
突如思いがけない方向から野太い声がした。人気がないと判断して進んだはずの後方から。
「わ…若…!一体、何を!?」
「来ないで、くれ…!」
血の気のない顔を更に蒼白させたシャウラも振り返った。武器も戦う力もないのに中腰で構えているその姿は追い詰められた草食動物の威嚇のよう。そこへマラカイトが彼を守るべく立ちはだかる。妖力をみなぎらせ、腕を這う緑の蔓を剣の形にして睨む先へと突きつける。騎士と姫…そんな風にさえ見えてしまう。
「おのれ妖精め…若を人質にとるつもりか…!」
向かい合う魔族の男は何を勘違いしたのか低く呟きながらじりじりと迫ってくる。だけどいい。元々話の通じる相手ではない。この場を切り抜けられさえすればどんな汚名を着せられようと構わないのだから。
もう伝説である必要なんて、ないのだから。
セレスは隣の彼を見上げた。そのタイミングは彼も同じだった。
「なっ…!?」
目にも止まらぬ速さで床から沸いてきた蔓に巻き込まれていく魔族の男。セレスも念を込める。強く、自身へ言い聞かせる。
消さないで。
消すのではなく、鎮めるの。
「こっちだ…!若もご乱心でおられる…早く…!」
ぐるぐる巻きの男が呻くような声を上げると遠くからいくつかの足音が響いてくる。ぞろぞろと現れた黒服の数人を視界に捉えた…今がそのタイミング。
ーー鎮静ーー
自然と出てきた響きは天から降りる光の筋とかすかな水音を連れてきた。その中へと飲み込まれた彼らがドサドサと床へ伏した。そしてまた鎮まる。願った通りに。
「さすがセレスだ…」
小さく呟くマラカイトの横でセレスはふぅっと息を吐き出した。それから向き直った。目を見開き立ちすくんでいる、お姫様じみた彼へ。
「眠っているだけだから安心して。さぁ、ミラのところへ…!」
「…はい!」
三人はついに駆け出した。見つかってしまった以上、もう誰が何処から何人沸いてこようが覚悟の上、とばかりに一目散に先を目指す。
もう一刻の猶予もない…まだ記憶に新しい空の上で覚えた感覚を思い出した。セレスの表情は焦燥に険しくなっていく。…もう、あんなのは御免よ。何としてでも、ミラは…!
角を曲がった。幸いなことに人気のない廊下の側面に戸が現れた。ここです!そう言うシャウラの声を聞いた。もう少しだった。なのに。
また思い知らされた。ここは、ここに居る者たちは、一体如何にしているのか…ともかく気配を消すという戦法に長けているのだ、と。
「若…っ!」
それは一瞬だった。ミラが居るという部屋を目前にして、彼が捕らえられたのだ。
シャウラの首元を羽交い締めにしている男。覚えのある魔力の気配、背後から攻撃された私たちは今、始めてその顔を正面から見ている。それでもわかる、私たちを連れ去った者だと。
「若を離せ!」
マラカイトが叫ぶとがたいのいい魔族の男がフン、と鼻を鳴らす。顎を突き上げ、目だけでこちらを見下ろしながら。
「裏切り者がついに誘拐犯に成り下がったか…このお方はアストラルの希望なのだぞ!」
「誰が何と言おうがその人は俺の友達だ!勝手に決めんじゃねぇよ。嫌がってるのかわかんねぇのかッ!」
「…何とおこがましい…!」
二人の男の荒々しい声が交差するその中へ。
マラカイト…
ふと混じった。同じ男のものでありながら、悲しいくらいにか細い声。シャウラのものだった。彼は言った。
「ミラを、お願い。女帝殿も、どうか…お願いします。僕なら…」
最後にまたあの言葉を言った。マラカイトはいよいよ目を吊り上がらせた。そして叫んだ。
「若、ふざけないで下さい!」
同感だった。聞くだけで苛立ちを覚える言葉…冗談じゃない。
それでもその人は続けて言う。懇願する眼差しで更に願いを口にする。
「ミラには、言わないで下さい。僕のこと…これ以上知らせないで…!」
また追っ手の迫る気配を感じた。今度は容赦なく飛んでくる魔力の攻撃。セレスとマラカイトはとっさに構えた。共に妖力を滾らせて、捕らえては眠らせていく。それを何度も何度も繰り返して…
やがて辺りは静まった。いや、静か過ぎた。ひと段落したばかりの戦いに息を切らせながら、ようやく我に返って振り返った。
そこにはもう、居なかった。巨体の男も、捕らえられた彼も。
次々とキリがないくらいやってくる敵側の者たちを眠らせて、一人っきりで目を赤くしていたミラをやっとの思いで引っ張り出した。他でもないあの人の身を案じているであろう彼女に何も告げることはなく、ただ夢中で外を目指した。
敵を蹴散らしやっと仲間の元に戻った。そして今、私たちは見ている。身動きも取れないまま、泣いている小さな彼女に何もしてやれないまま、離れた位置で起こっている事態を、見ているだけ。
そんなやるせない状況の中、セレスは思い返していた。二つの声を。
ーーシャウラーー
彼女の放った響きと
ーーミラーー
彼が放った響き。
二つの声質は当然ながら全くもって異なっていた。性別も歳も違うのだから当たり前だ。血の繋がりがない兄妹は容姿だって全く似ていない。そもそもわずかに妖精の血縁が混じった人間の少女と、蝙蝠魔族・ガルシア家の青年。それもまた当たり前のこと。
なのに、気付いてしまった。よく似ていたことに。互いを呼ぶその声は切なく何処か甘くって。本当に無意識なのだろうか?特に彼は…まさか、とよぎった感覚はやがて限りなく、確信へ。
この二人は……恋人?




