地獄9:もうどうにでもなれ!諦める時空旅行者!
タイガ・ガリレイという異常殺人鬼を撃退してから、数週間の時が流れた。
王都の東端、薄汚れたスラム街にほど近い寂れたバーの二階。そこが、レイジ・オルフェンの新しい世界のすべてだった。
用心棒まがいの便利屋としてその日暮らしの小銭を稼ぎ、安い酒で感覚を麻痺させて眠る。未来の知識で歴史を変えるという傲慢な野望はとうの昔に砕け散り、彼はただ、迫り来る「何らかの破滅」から逃げ隠れるだけの完全なる負け犬として息を潜めていた。
ヘレナの狂気も、エラーラとアリシアの冷戦も、遠い世界の出来事のように思えた。
束の間の平和だった。
だが、運命という名の巨大な歯車は、無力な凡人の休息など一切考慮してはくれない。
ある日、酒場のカウンターの上で埃を被っていた魔導ラジオから流れてきたニュースが、その脆弱な平和を木端微塵に粉砕した。
『臨時ニュースです。王都騎士団の女団長であり、北の武門クライフォルト家の次期当主と目されていたアリア・クライフォルト氏が拷問の末、一族から永久追放の処分を受けました』
レイジは、グラスを口に運ぶ手を止めた。
アリア・クライフォルト。数週間前、人々を襲う人喰い熊、霊峰の魔獣『クロウ・オブ・マウンテン』を見事討伐し、英雄として凱旋したばかりの女剣士だ。
『処分の理由は、アリア氏が独断で魔獣を討伐したことによる、クライフォルト家と自然界との「霊的な契約」の重大な違反とされています。関係者によりますと、アリア氏は実の両親や親族たちによって数日間に及ぶ魔導的な拷問を受け、騎士団の地位も剥奪されたとのことです。現在、アリア氏の行方はわかっておりません』
「……はあ……?」
レイジの口から、間の抜けた声が漏れた。
意味がわからない。クロウ・オブ・マウンテンとは、言ってしまえばただの巨大な人喰い熊だ。放置すれば近隣の村々に甚大な被害が出る。それを撃退した騎士が、なぜ裁かれなければならないのだ?
自然界との霊的な契約?
そんな、安っぽいスピリチュアルな理由で、名門の当主たちが実の娘を数日間にわたって拷問し、すべてを奪って野に放つなど、常軌を逸している。
社会のシステムが、根底から狂い始めているのか?
人々を守るための正義が、内部からの集団的な狂気によって徹底的にリンチされ、排除されている。
嫌な予感が、レイジの背筋を氷のように撫で上げた。
この不条理で画一的な集団狂気。まるで、関わった人間たちの思考が、一つの目的に向かって強制的に……
「……まさか!」
レイジは椅子を蹴り倒し、バーを飛び出した。
息を切らしながら向かったのは、数週間前、自分が逃げるようにして書きかけの原稿を売り飛ばした、あの裏通りの古本屋だった。
「あ?ああ……あの原稿なら、もううちにゃあ、無いよ」
古本屋の店主の老婆は、血相を変えて飛び込んできたレイジを見て、怯えながら答えた。
「売れたのか!?いったい誰に!いつだ!」
「売れたんじゃないよ……。アンタが置いてった次の日の朝だ。名前も名乗らねえ『少年』がフラッと店に入ってきてな。その原稿をジッと見つめて……なんだか、逆らっちゃいけねえような恐ろしい目をしててよ……だから、タダで譲っちまったんだよ……」
レイジは、頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われ、カウンターに崩れ落ちた。
間違いない!
レイジが放った【存在消滅・因果改変魔法】は、対象の記憶と外見、そして因果律そのものを無茶苦茶に改変し、「何者でもない少年A」に変えてしまうものだった。
だが!
その魔法の隙間を縫って、名もなき少年の中に残っていた『悪意』が、自らの力を取り戻すための鍵として、あの「最適化」の原稿へと彼を導いたのだ!
人の知識や経験や、記憶はいくらでも捏造できる!
だが!
魂の形だけは変えることはできなかったのだ!
点と点が、最悪の形で線となって結びついていく!
あの少年、タイガ・ガリレイは、名を変え、記憶を失いながらも、本能的に『最適化』の魔法を習得した。
そうして、その恐るべき洗脳能力を使って、武門の名門であるクライフォルト家に入り込み、養子として潜り込んだ。
彼は、当主や親族たちの精神を『最適化』という名の魔法で洗脳し、操り人形に変えたのだ。
正義感の強いアリア・クライフォルトは、タイガにとって名門を乗っ取る上で最も邪魔な存在だった。だからこそ、人喰い熊を討伐したという言いがかりをつけて親族を操り、彼女を凄惨な拷問にかけ、追放という形で排除したのである。
「俺の……せいだ……」
レイジは、乾いた笑いを漏らした。
自分が良かれと思って書いた哲学が。自分が恐怖から逃れるために放った未熟な魔法が。
すべてが!すべてが裏目に出て、最悪の怪物を、最高の権力層に解き放ってしまったのだ!
レイジは、タイガの行方とクライフォルト家の内情を探るため、王都の裏社会のネットワークを使って決死の捜査を始めた。
その過程で、彼はもう一つの信じがたい事実に行き当たった。
あのエラーラ・ヴェリタスが、王都政府から追放されているというのだ。
【救国の紋章】を持ち、すべてを見下していた世界最強の大魔導師。
しかし、彼女のその過剰な傲慢さは、ついに、なんらかの致命的な「失策」を引き起こしたらしい。詳細は隠蔽されているが、おそらく政府の重鎮たちの顔に泥を塗り、民衆の支持すらも失うような何かをやらかしたのだ。
結果、彼女はその危険すぎる魔力ゆえに家を借りることすら許されず、王都の片隅にある小さな獣病院に潜伏し、細々と『探偵業』を営んでいるという。
晴れ渡る秋空の下。
レイジは、王都の郊外にある古びた看板の掛かった建物の前に立っていた。
『獣病院兼、ヴェリタス探偵事務所』
扉を押し開けると、薬の匂いと、動物たちの穏やかな鳴き声が迎えてくれた。
そこには、レイジの知る「歴史の登場人物」たちが、奇妙な形で集結していた。
「や、いらっしゃい。……ん? 君はたしか、いつかバーで会った……レイジさん、だったね」
診察台の上で子猫の怪我を治療していたのは、あの善良なる獣医師、ケンジ・ガリレイであった。
相変わらずの、嘘偽りのない清らかな笑顔だ。
そして、その奥の応接スペース。
すり減った革のソファに深く腰掛け、山盛りのドーナツを頬張りながら、分厚い魔導書をめくっている女がいた。
白衣は汚れ、かつての威光は見る影もない。だが、その銀色の髪と、知的好奇心に満ちた青い瞳の輝きだけは一切失われていない。追放された大魔導師、エラーラ・ヴェリタスだ。
さらに、驚くべき人物がもう一人。
奥の厨房から、エプロン姿の凛とした長身の女性が現れた。
透き通るような金糸の髪。鋭く、しかし今は穏やかに澄んだ瞳。数日前に凄惨な拷問を受け、すべてを失ったはずの女騎士、アリア・クライフォルトであった。
「ケンジ、スープができたぞ。患者の治療が終わったら、温かいうちに……客人か」
アリアは、レイジを一瞥すると、ピンと背筋を伸ばして静かに言った。
その立ち振る舞いには、拷問の傷跡を感じさせない、高潔な騎士の誇りが満ちていた。
レイジは目眩を覚えた。
歴史の絵の具は、もう二度と元には戻らないほどに、無茶苦茶に混ざり合い、全く別の模様を描き出していた……
「ほぅ?クライフォルト家を内部から乗っ取った正体不明の『少年A』。そして、彼が用いているのが、他者の精神を同調させる『最適化』の魔導理論……。なるほど、実に興味深いねぇ」
エラーラは、ドーナツの粉を口の周りにつけたまま、レイジの持ってきた情報に目を輝かせた。
レイジは、ケンジの弟であるタイガ・ガリレイという少年の恐ろしさ、自分が手放してしまった最適化の理論の危険性、そしてこのままでは王都の中枢が完全に洗脳され、破滅が訪れるということを、必死にエラーラに説明した。
今、この王都でタイガの狂気を止められるのは、皮肉にも、権力を失い、しがらみから解放されたこの最強の魔導師しかいないと思ったからだ。
「エラーラさん!聞いてるのかよ!?あいつは名門の当主たちを洗脳し、アリアさんを拷問して追い出したんだぞ! 次は間違いなく、政府の中枢を狙う!あんたのその魔力で、あの少年を叩き潰してくれ!」
レイジは、テーブルに身を乗り出して叫んだ。
だが。
エラーラの反応は、レイジの期待とは全く別の、絶望的なほどに冷酷なものであった。
「叩き潰す?フム……?キミねえ、一体なぜそんな勿体無いことをしなければならないんだい?」
エラーラは、ケラケラと笑いながらコーヒーを啜った。
「精神の最適化を用いて、集団の意識を洗脳し、一つの名門を丸ごと乗っ取る。成程、素晴らしいじゃあないか!それは、人間という不完全な生物が群れをなす社会において、いかにして絶対的なシステムを構築できるかという、極めて合理的な『実験』だよ。彼が次に政府をどう操るのか、私としてはぜひ最後まで観察してみたいものだねぇ!私の知的好奇心を、大いに満たしてくれる!ハーッハッハ!」
「な……ッ!?」
レイジは絶句した。
狂っている!
この、天才は、自分が何を言っているのか完全に理解した上で、一切の危機感を抱いていないのだ!
レイジの説明も、アリアの受けた痛みも、タイガの危険性も、彼女の天才的な頭脳は完璧に理解している。だが、彼女の『知的好奇心』という圧倒的なエゴの前では、他人の命も、王都の崩壊も、単なる「面白い実験データ」に過ぎないのだ。
レイジは悟った。
(……話にならない)
この大魔導師は、底なしに傲慢だ。
彼女は間違いなく、この傲慢さゆえに、いつか自らの足元をすくわれて命を落とすだろう。
しかし、自分よりはるかに「弱い」凡人であるレイジからいくら正論を説かれたところで、彼女は理解した上で、鼻で笑って無視をするだけだ。
天才とは、そういう生き物だ……
自分が納得しない限り、他者の声など一切届かない……
「俺は未来から来たんだ、未来の歴史では……」などと知識をひけらかしたところで、彼女の巨大なプライドと知的好奇心を刺激し、「フム?未来人?面白い!ならば君の脳を解剖させてくれ!ホラ吹きの非検体くん!」と暴走を加速させるだけなのは火を見るより明らかであった。
絶対的な才能の壁。
住む世界の違い。
レイジは、深く、深く息を吐き出し、立ち上がった。
「……わかったよ。あんたには、何を言っても無駄だ」
レイジの瞳から、光が消えていた。
もう、説得しようという気力すら湧かなかった。
「おやおやあ?もう帰るのかい?もう少しあの『少年A』とやらの与太話について詳しいデータを聞きたかったんだがねぇ……フフフ」
エラーラは、無邪気な子供のように残念そうな顔をした。
「勝手にしろ。あんたがその好奇心のせいで破滅しようと、王都が火の海になろうと、もう……もう!……俺の知ったことじゃない!」
レイジはそれだけを言い残し、探偵事務所のドアを閉めた。
秋の涼しい風が、彼の火照った頬を撫でた。
足取りは重かったが、心は不思議と軽かった。
彼はもう、歴史の主人公になることを完全に諦めたのだ。
これからは、世界がどうなろうと、自分一人が生き延びるためだけに、暗がりを這いずり回って生きていく。
こうして、レイジ・オルフェンの絶望の物語は、ここで一旦幕を閉じる。
彼はその後、王都の裏路地で名もなき泥にまみれて生きていくことになる。
だが。
レイジ自身も気づいていない、一つの『最大の、そして致命的なミス』が残されていた。
彼は、タイガ・ガリレイの脅威についてはエラーラに語った。
しかし、その狂気の根源であり、エラーラを破滅させるためにシュピーゲル邸の奥深くで底なしの悪意を煮詰めている女。
【ヘレナ・ヴェリタス】の存在と、彼女の恐るべき暗躍について、エラーラに一切話さなかったのである!
単に、タイガの脅威に気を取られて忘れていただけなのか。
それとも、ヘレナの底知れぬ気味の悪さに精神が動転し、無意識のうちに記憶から蓋をしてしまったのか。
その理由は、もう誰にもわからない。
ただ一つ確かなことは。
レイジという未来からの唯一の警告者が去ったことで、エラーラ・ヴェリタスの周囲からは、真の死角から忍び寄る『狂気の妹』に関する情報が完全に失われたということだ!




