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ヴェリタスの最終定理6:憎悪篇 ヘレナ・ヴェリタス  作者: LIU
●第22章:私の罪と罰

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8/20

地獄8:襲撃される時空の孤児!

レイジは、裏路地の古びた喫茶店に身を潜めていた。

色褪せた魔導モニターからは、昼下がりのニュース番組が淡々と流れている。


『続いてのニュースです。北部の霊峰に巣食うとされた魔獣「クロウ・オブ・マウンテン」が、討伐されました。撃退に成功したのは、北の武門の誉れ高きクライフォルト家の……』


画面には、身の丈の三倍はあろうかという巨大な魔獣を軽々と担ぎ、不敵に笑う屈強な女性の姿が映し出されていた。

そのニュースを見た瞬間、レイジの思考はピタリと停止した。


「……クライフォルト家……?」


レイジは、未来の歴史書を暗記するほど読み込んできた。

世界を救った大英雄エラーラ・ヴェリタスの生涯の伴侶となる人物の名前こそが、竜人の女性『アスナ・クライフォルト』であった。

だが、どうだ。

今、この新暦105年の現実において、アスナという名の少女は『人間』であり、ファントム・シュピーゲル博士の『実の娘』であるアスナ・シュピーゲルとして存在している。

エラーラの妻となるべき竜人アスナは影も形もなく、代わりに人間のアスナが、地下室で実の父親から生きたまま生命力を啜られるという絶望の拷問を受けているのだ。


さらに、違和感はそれだけではない。


史実の記録では、エラーラ・ヴェリタスはこの時期、王立研究所を辞し、実の妹であるナラティブ・ヴェリタスと共に王都の片隅で『探偵事務所』を営んでいるはずだった。

しかし、現実の彼女はどうだ。妹など存在せず、権力に溺れ、ソフィア大学の特別室に寝泊まりしながら、傲慢の限りを尽くして暴れ回っている。


そして、別のニュースキャスターが、沈痛な面持ちで原稿を読み上げる。


『王都を震撼させている謎の連続殺人鬼ですが、未だ犯人の手掛かりは掴めておらず……』


レイジの天才的でありながら、神の視点から見れば限りなく凡庸な頭脳が、膨大な情報のズレを高速で演算し、やがて、一つの『究極の絶望』という名の答えを導き出した。


例えるならば、こうだ。

コップの中に、赤色と青色の絵の具が複雑に混ざり合い、黒く濁った液体が入っているとする。

「時間を過去に戻せば、混ざり合う前の、綺麗な赤色と青色の絵の具にそれぞれ分離するだろう」と考える。それが当然の物理法則であり、因果だ。

すなわち。

レイジが未来から持ってきた知識。エラーラの探偵事務所、竜人のアスナ、起きていない連続殺人鬼。それらすべては、『赤と青が混ざり合った後にできた、黒く濁った歴史の残骸』に過ぎなかったのだ。

そして、レイジがタイムトラベルの目的地として適当に指定したこの「新暦105年」という座標は、時空が混ざり合う前のさらに前の、『赤色の絵の具』、もしくは『青色の絵の具』だけの純粋な歴史軸だったのである。


(だとしたら……俺がこの時代で、何をどう足掻こうと……)


そう。無駄である。

この「赤色の時代」と、どこか別の次元にある「青色の時代」が、将来何らかの劇的な事象によって衝突し、強制的に混ざり合わない限り、レイジが知っている『濁った時代』には絶対に辿り着かない。


辿り着かないということは、修正したところでまた別の時間に行ってしまうし、そもそも歴史を修正することなど、この時点では論理的に不可能なのだ。


自分がこの時代にやってきた意味。これまでの葛藤。未来を救うという使命。

すべてが、根底から崩れ去った。


その日の夜。

心が完全に折れ、泥のような疲労に襲われたレイジは、王都の歓楽街のさらに奥底、薄暗い路地裏にある地下バーへと足を運んでいた。

そこは、屈強な獣人たちが集う、むせ返るような体臭と安酒の匂いが充満する荒くれ者たちの溜まり場だった。

カウンターで強い蒸留酒を煽っていると、背後から巨大な影がいくつも近づいてくる気配がした。


「おいおい……こんなむさ苦しい穴倉に、随分と線の細いお上品なエルフの兄ちゃんが迷い込んだもんだなァ……いじめちゃうよ?」


「その尖った耳、くすぐられたくなかったら、持ってるモン全部置いていきな……!」


振り返ると、筋骨隆々の虎の獣人や、鋭い牙を剥き出しにした狼の獣人の女性たちが、レイジを半円状に取り囲んでいた。

彼女たちの瞳は爛々と輝き、喉の奥から「ゴロゴロ」などという不気味な唸り声を上げている。

レイジはため息をつき、拳を握りしめて殴られる覚悟を決めた。接近戦で、魔力特化のエルフが獣人の圧倒的な身体能力に敵うわけがない。

だが、レイジが目を閉じたその時である。


「みんな、やめるんだ。彼を困らせちゃいけないよ」


透き通るような、それでいて芯のある青年の声が、酒場の喧騒をスッと切り裂いた。

獣人の女性たちが、弾かれたように振り返る。


「先生!いや、アタシらは別に、この兄ちゃんに手荒な真似をしようってんじゃなくて……その……発情期、的な……」


声の主は、質素なシャツにサスペンダーという飾らない服装の、穏やかな瞳を持った人間の青年だった。

年齢はレイジと同じ二十代前半だろうか。彼の姿を見た瞬間、さきほどまで凶暴な牙を剥いていた獣人たちが、まるで借りてきた猫のようにおとなしく引き下がり、青年を取り囲んだのだ。


「大丈夫ですか?彼女たち、悪気はないんです。少し血の気が多いだけで」


青年はレイジの隣の席に座り、優しく微笑みかけてきた。


「僕は、この近くで獣医師をやっている、ケンジ・ガリレイ。……君は?」


ケンジ・ガリレイ。


その真っ直ぐで嘘偽りのない瞳、弱き者を慈しむ柔らかな空気。

次元規模の絶望に打ちのめされていたレイジの心に、一筋の温かい光が差し込んだ気がした。

だからこそ。レイジは、一瞬だけ言葉に詰まった。

『レイジ・オルフェン』という偽名を名乗ることに、躊躇いを感じたのだ。


「俺は……レイジ。レイジ・シュピーゲルだ」


ケンジは疑う様子もなく、温かい手を差し出した。

その時のレイジは知る由もなかった。この希望に満ちた出会いが、数日後にレイジを最悪の恐怖のどん底へ突き落とす引き金になることを。


数日後の昼下がり。

レイジは、シュピーゲル邸の美しい中庭で、アスナ・シュピーゲルとお茶を飲んでいた。


「ふふっ、このお茶菓子、とっても美味しいですね!レイジさんもいかがですか?」


アスナは、雲一つない青空のような笑顔で、レイジにクッキーを勧めてきた。

その無邪気な顔には、陰りなど一切ない。

レイジは、心の中で戦慄していた。

つい三日前の夜、彼女は、身の毛もよだつ拷問を受けていたはずだ。その際、四肢を切り裂かれ、腹を突き破られていた。

だが、今の彼女の体には、傷痕一つない。

そして何より、あの地下室での絶望も、レイジに向けた狂気の殺意も、完全に『なかったこと』になっているのだ。


「なぁ、アスナ。……お前、夜中に地下室に連れて行かれたこと、覚えてないか?」


レイジは、慎重に言葉を選んで尋ねた。


「地下室?うーん……お父様からは、危ないから絶対に近づいちゃダメって言われてますけど……私、何かしましたか?」


アスナは不思議そうに首を傾げるだけだ。完全に、聞く耳を持たない。いや、持てないのだ。


「……なぁ。俺と一緒に、この屋敷を出よう。ここは危ない。ヘレナも、お前の親父も、何かがおかしいんだ」


レイジは必死に訴えた。

しかし、アスナはクスッと笑って、レイジの肩を軽く叩いた。


「もう、レイジさんったら!居候が、私とヘレナお姉様を連れて家出だなんて。そんなこと、お父様が許すわけないじゃないですか」


軽やかな笑い声。それは、完全な拒絶であった。

温室で育てられた令嬢が、自らの意思で自分の進路を決めるなど……あり得るはずがなかった……

箱入り娘というものは、何でもかんでも親のせいにして、若さをドブに捨てて、40代も間近になるまで、親に文句を言い続けながら親元にいて、そうして、誰からも相手にされなくなってから、今度は社会を恨み始めるものなのだ……


そして。


レイジがアスナを説得しようとしているその様子を、屋敷の三階の窓のカーテンの隙間から、ファントム・シュピーゲル博士が冷酷な眼差しで見下ろしていた。

博士の研究室には、『絶対の魔導防壁』が張られている。

外からの物理攻撃はもちろん、音声、魔力探知、透視魔法に至るまで、いかなる手段をもってしても内部を覗き見ることは不可能とされる、この時代の最高傑作の防壁である。


しかし、レイジはあの夜、地下室の様子を覗き見ていた。


理由は簡単だ。魔法というものは、例えるならばコンピューターの『OS』であり『アプリケーション』である。

いかに新暦105年において「絶対に破れない完璧な暗号化ソフト」であったとしても、100年後の未来から来た人間……それも、魔導のOSそのものを根本から理解しているエルフのレイジからすれば、セキュリティの脆弱性は丸見えなのだ。バージョンが古すぎるソフトのロックなど、どんな無能でもやすやすと解除できてしまうのである。

窓からレイジを見下ろす博士の眼鏡が、冷たく光った。


シュピーゲル邸の静かな昼下がり。

レイジは、気づかぬうちに、狂気の天才科学者から完全なる『排除対象』としてロックオンされていた。


その晩、レイジは息苦しい屋敷から逃れるように、再びあの獣人の地下バーを訪れた。

ケンジに会えば、少しは心が休まるかもしれないと思ったからだ。


「やあ、レイジさん。こんばんは」


カウンター席で、ケンジがいつものように穏やかな笑顔で手を挙げてくれた。

だが、その隣には、見慣れない小柄な少年が座っていた。


「あ、紹介します。僕の弟の、タイガです。タイガ、レイジさんにご挨拶を」


「……あ、初めまして……タイガ・ガリレイ、です……」


タイガと呼ばれた少年は、背中を丸め、自信なさげに目を伏せながら頭を下げた。

青白い肌。ひ弱そうな体躯。どこか怯えたような、か細い気弱な声。

誰がどう見ても、無害で、無知で、無能な、守ってやらねば生きていけないような哀れな少年に見えた。


だが。


レイジの脳内に組み込まれた魔導感覚が、鼓膜を突き破るほどのけたたましい警報を鳴らしたのだ。


(……ッ!?こいつは……!!)


レイジは、息を呑み、全身の毛穴が粟立つのを感じた。

タイガの全身から立ち上る、可視化すらできそうなほどのドス黒い魔力。それは、純粋な『悪の波動』であった。

レイジは直感した。

いや、確信した。

この気弱そうな少年こそが、連日ニュースを騒がせている『王都の連続殺人鬼』の正体だ、と。

レイジの瞳孔が一瞬だけ収縮し、明確な『畏怖』と『敵意』が顔に浮かんだ。

ほんのコンマ1秒の表情の変化。

だが、うつむいていたはずのタイガの目が、そのコンマ1秒の間に、レイジの瞳の奥を完全に読み取っていた。

タイガは、気弱な少年の仮面を被ったまま、おどおどとした態度でレイジに一歩すり寄ってきた。

そして、レイジの耳元で、震える声でこう囁いたのだ。


「あの……最近、この辺りで、とっても不審な殺しが頻発してて……僕、すごく、怖いんです……。レイジさんは、怖くないですかぁ……?」


レイジの額から、どっと冷や汗が噴き出す。

タイガの言葉は、怯える少年の SOS ではない。

『僕に気づいたね。ならば、次はお前を殺してやるよ』という、死刑宣告に他ならなかった。

隣では、善良な兄であるケンジが、「タイガは怖がりで困っちゃうよ」などと呑気に笑っている。

レイジは、逃げ出すようにバーを後にした。


それからというもの。レイジの日常は、常に何者かの視線に晒されることになった。


街を歩いていても、路地裏を曲がっても、振り返ると誰もいない。しかし、首筋にネットリと絡みつくような悪意の視線が、24時間彼を監視し続けていた。


気にしすぎかもしれない。


しかし、タイガという異常殺人鬼に見つめられているという事実が、レイジの精神を確実に削り取っていった。


そして、限界を迎える出来事が起きた。

ある日、用事を済ませてシュピーゲル邸に戻ったレイジは、居間の入り口で立ちすくんだ。

居間のソファで、ヘレナが楽しそうに談笑している。

だが、そのヘレナの向かいに座り、彼女と親しげに会話をしている人物の背中。

ヘレナと向かい合って座っていたのは……紛れもなく『レイジ・オルフェン』自身の姿をした何者かであった。

服装も、髪型も、背格好も、寸分違わぬ自分自身。

「もう一人の自分」が、ヘレナと狂気に満ちた作戦会議でもしているかのように、低く笑い合っているのだ。

タイガが、レイジに見せつけるためにわざわざ変装したのか。

あるいは、極度のストレスによるレイジ自身の幻覚か。

レイジは肝を潰し、声をかけることすらできず、後ずさりして屋敷を飛び出した。


街では、エラーラとアリシアという二人の天才が、いつ爆発するとも知れない戦乱の火種をばら撒いている。


そして家の中では、狂気の発信源であるヘレナと、連続殺人鬼タイガ、あるいはシュピーゲル博士が、自分を排除するための罠を張り巡らせている。

レイジにはもう、この王都のどこにも『安全な居場所』など存在しなかったのだ。


その日の晩、ついに、レイジは手荷物一つ持たずにシュピーゲル邸から夜逃げをした。

王都の東の果て、スラム街にほど近い町外れの寂れたバー。そこでマスターに泣きつき、「いかなる時代遅れの魔法をも凌駕する、未来の魔法を使える便利屋」として用心棒まがいの仕事をもらい、店の二階の物置部屋に潜伏した。

だが、そんな時代を超越した奇術を使う余所者は、この閉鎖的な時代では逆に悪目立ちしてしまう。


潜伏から数日後の、月のない暗い夜。

レイジが物置部屋のベッドで浅い眠りについていた時、突然、部屋の空気が歪んだ。

レイジが飛び起きると同時に、部屋に仕掛けられていた三つの『殺人魔法』が同時に発動した。


一つ目は、部屋の空間自体の重力ベクトルを四方八方に反転させ、中心にいるレイジの肉体をバラバラに引き裂こうとする不可視の処刑場。


二つ目は、レイジの脳神経に直接干渉し、目に入るあらゆる物体を「絶対に殺さねばならない敵」と誤認させ、発狂して自死に追い込む精神汚染。


そして三つ目は、あまりにも古典的すぎて逆に防壁の盲点を突く、超高熱の圧縮火炎弾の連射。


どれもこれも、通常の魔導士ならば一瞬で肉片に変わる凶悪な魔法陣だ。

しかし、レイジは未来のエルフである。


「甘いんだよ……!」


レイジは指先で虚空に数式を描き、それらの魔法陣を瞬時に解体し、無効化して霧散させた。

だが、消えゆく魔法陣の残滓の底に、あからさまに分かりやすい、血文字のような魔力のサインが刻まれているのが見えた。


タイガ・ガリレイの署名だ!


レイジは窓を蹴破り、裏路地へと飛び降りた。

ガス灯の薄暗い光の下、そこに立っていたのは、やはりあの気弱そうな少年、タイガだった。


「見つけた。……ねえ、レイジさん。ヘレナお姉さんが言ってたよ。君が持っている『最適化』の書物、僕に渡してくれないかな?」


タイガは、舌舐めずりをした。

やはり、あのシュピーゲル邸でヘレナと談笑していたのは、タイガだったのだ。

タイガが何か恐るべき呪文を唱えようとした、その瞬間。

極限の恐怖と生存本能が、レイジの理性を吹き飛ばした。

レイジは、未来の禁忌魔法である【存在消滅・因果改変魔法】の術式を起動させた。


「消えろってんだよッ!」


レイジの手から放たれた極光が、タイガの全身を包み込む。


「あ、れ……?ぼく……なにを……」


タイガの顔が、粘土のようにドロドロと崩れ、再構築されていく。

記憶、人格、魔力、さらにはタイガ・ガリレイという名前の因果律そのものが、レイジの魔法によって完全に上書きされたのだ。


数秒後。


そこに立っていたのは、連続殺人鬼のタイガではない。ケンジの弟でもない。

特徴のない顔つきをした、記憶も目的も持たない、名もなき『少年A』であった。

少年Aは、ポカンと口を開け、ふらふらと夜の闇の中へ歩き出し、やがて視界から完全に消え去った。


見上げれば、いつもの王都の夜空が広がっていた。

無数の巨大な飛行船が、何事もなかったかのように優雅に宙を舞い、規則正しく並んだガス灯の青白い光が、石造りの美しい街並みを冷ややかに照らし出している。

レイジはその場にへたり込み、荒い息を吐いた。

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