地獄7:物言う豚!馬鹿な俺が道を選ぶ!
ある日の午後。
シュピーゲル博士は、王都の郊外にある別宅から一人の少女を本邸に引き連れてきた。
彼女の名は、アスナ・シュピーゲル。
艶やかな黒髪と、星屑を閉じ込めたような美しく純粋な瞳を持つ、博士の『実の娘』であった。
「初めまして、レイジさん!お父様からお噂は伺っております。私、アスナと申します!」
アスナは、初めて本邸に招かれた喜びからか、顔を紅潮させ、希望に満ちた眩しい笑顔でレイジに挨拶をした。彼女の立ち振る舞いには、名家の令嬢としての気品と、生命の輝きが満ち溢れていた。
(アスナ……?史実の記録では、エラーラの婚約者となる『竜人』の名前だったはずだ。だが、目の前にいるのは、どう見ても人間の、しかもシュピーゲル博士の実の娘……。また歴史の記述と現実が食い違っている。一体?)
レイジは混乱しながらも、アスナの純真な笑顔に少しだけ救われる思いがした。ヘレナの得体の知れない薄気味悪さに当てられていた彼にとって、アスナの存在は一筋の光のようにも見えたのだ。
しかし。
その光は、その日のうちに、底なしの暗黒へと引きずり込まれることになる。
その日の真夜中。
シュピーゲル邸の深い静寂を切り裂いて、微かな、悲鳴が響いた。
眠れずにベッドで本を読んでいたレイジは、飛び起きた。悲鳴は、普段は厳重に施錠されている地下室の方から聞こえてきた。
レイジは足音を殺して地下へと続く階段を降りた。
重厚な鉄の扉が、半開きになっている。
そこから漏れ出る青白い魔導灯の光の向こうで、レイジは『地獄』を見た。
「……ちぎぃぃい!……ぁ……がァゅッ!?……」
手術台のような冷たい鉄の台の上に、アスナが拘束されていた。
彼女の美しい黒髪は汗と涙で顔に張り付き、その純粋だった瞳は極限の苦痛によって白目を剥いている。
そして、彼女を見下ろしているのは、他でもない実の父、ファントム・シュピーゲル博士であった。
博士の顔には、かつての知的で温厚な面影は微塵もない。瞳孔は完全に開き切り、口元には涎を垂らしながら、おぞましい笑みを浮かべていた。
博士が行っていたのは、単なる暴力ではない。高度な魔導知識を悪用した、およそ人間の発想とは思えない悪魔の拷問であった。
文章でその全容を記すことは到底できない。
それは魂そのものを解体し、冒涜するような、おぞましい儀式であった。
だが、その中でも一つ、レイジの脳裏に焼き付いて離れない、最も分かりやすく、かつ残忍な行為があった。
博士は、アスナの腹部や四肢に、血肉を苗床とする『魔導植物』の種を植え付けていた。
それは音を立ててアスナの皮膚を突き破り、不気味な紫色の蔓を伸ばしていく。この魔導植物は、寄生した宿主の『生命力』そのものを養分として吸い上げ、宿主の肉体を急速に干からびさせていくという恐るべき性質を持っていた。
「でぃ!?いぎっ!?あぁ……お、お父様……どうして……痛い……体が、干からびちァ……!?」
アスナの瑞々しかった肌が、見る間に老婆のようにシワシワになり、生命の灯火が消えかかる。
すると博士は、アスナの体から生え、彼女の生命力をたっぷりと吸い上げて丸々と太った植物の実をもぎ取り、それを無理やりアスナの口の中にねじ込んだ。
「食え。アスナ。……お前の命だ。これを食わねば、死ぬぞ」
「ぬぐっ……ゆぐっ……おえぇぇぇっ!!」
アスナは、死の恐怖と本能に抗えず、自らの生命力を吸い取って育ったその醜悪な果実を、涙と血を流しながら咀嚼し、飲み込んだ。
自らの体を、自らで食らわされるという究極の凌辱。
飲み込めば生命力は一時的に回復する。だが、回復した途端に、再び植物がそれを吸い上げる。永遠に終わらない、無間地獄の永久機関。
レイジは、胃液が逆流するのを感じ、両手で必死に口を押さえた。
狂ってる……!助けなきゃ……俺が!
そう『思った』。
思ったのだ。
人間であるならば、誰しもがこの惨状を見て助けに入ろうとするだろう。
そう。
天才様の、正義の味方様の自認のあるレイジ様は、ただ……『思っただけ』だったのだ!
秀才であるレイジの足は、コンクリートに縫い付けられたかのように一歩も動かなかった。恐怖で、そして、保身で、体が完全に麻痺していたのだ!
レイジは、自分が何者でもないと気がつき始めていた。
だが、気がつこうとする自分の心を必死に抑えた。
さらに。
恐るべきは、この魔導植物の『副次効果』であった。
この植物の果実には、二つの相反する極端な精神作用がある。
一つは、「自分がいかに理不尽で絶望的な状況に置かれているか」を細胞レベルで直視させる【覚醒効果】。
もう一つは、そのあまりの苦痛から逃れるために、脳が「これは真実ではない」と強烈に事実を歪めてしまう【催眠効果】である。
アスナの脳髄は、この二つの効果によって完全に破壊されていた。
彼女は、自分が実の父親からおぞましい拷問を受けているという事実、そして、血の繋がらない赤の他人である『ヘレナ』が上の階で博士から溺愛され、温かいベッドで安らかに眠っているという絶望的な不条理を、寸分違わず『直視』させられていた。
しかし、その絶望に耐えきれなくなった彼女の脳は、催眠効果によって、一つの狂った『逃避の論理』を導き出してしまったのだ。
「ああ……あああ……ちがう……お父様は悪くない……ヘレナお姉様も、悪くない……」
アスナは、血だらけの口で、虚ろに笑いながら呟き始めた。
「悪いのは……この家に、突然やってきた……あの男だ……。レイジ・オルフェン……あいつが、お父様を狂わせたんだ……! 殺してやる……レイジ……お前だけは、絶対に……私が、この手で……!」
扉の隙間からその言葉を聞いた瞬間。
レイジの全身から、体温という体温が完全に消え失せた。
地獄は、遠い未来や世界の裏側にあるのではない。今、壁一枚隔てたすぐ下で、口をポッカリと開けてレイジを待ち構えていたのだ。
翌朝。
レイジは、逃げるようにシュピーゲル邸を飛び出していた。
彼の顔は土気色に染まり、目の下には濃い隈ができている。腕の中には、彼が心血を注いで書き上げていた魔導哲学の論文、『最適化』の原稿用紙の束が抱えられていた。
彼は、王都の裏通りにある古本屋に駆け込み、その原稿を店主のカウンターに叩きつけた。
「いいから!これを買い取ってくれ!タイトルも著者名もない!クズ紙の値段でいいから、今すぐ俺の目の前から消してくれ!」
店主が怪訝な顔で原稿を受け取るのを見届けると、レイジは代金も受け取らずに店を飛び出した。
何故、あんなにも理想に燃えて書いていた本を手放したのか。
理由は一つだ。彼には『分かってしまった』からだ。
もし、自分が書き上げたこの『最適化』の理論が、今の狂いきったシュピーゲル邸の住人たちの手に渡ってしまったらどうなるか。
博士の狂気と、ヘレナの虚無が、王都中の人間の精神に『最適化』され、伝染してしまう。
それは、炉心の爆発などという物理的な破壊とは次元の違う、人類の精神そのものを食い破る、真の破滅のトリガーになり得るのだ。
そして……捨てることも惜しかったのだ。
いずれ、強大な敵が現れた時に利用できるかもしれないという、保険として、残してもおきたかったのだ。
その、甘い、二兎を追う、スケベ根性の判断。
レイジは、やはり単なる凡人であった。
「ハァッ……ハァッ……俺は、馬鹿だ……!」
重い足取りでフラフラと王都の大通りを歩いていたレイジは、不意に、前方が異様な熱気に包まれていることに気がついた。
人だかりができている。いや、それは単なる人だかりではない。まるで神の降臨を祝うかのような……統制されたパレードのような、静かな熱狂であった。
群衆の中心、陽の光が降り注ぐオープンカフェのテラス席に、『彼女』はいた。
エルフの星。
完璧な善性と博愛を体現する、齢15歳の絶世の美少女、アリシア・ガバナンス。
透き通るような白い肌に、陽光を反射して輝く金髪のセミロングポニーテール。彼女がそこで優雅に紅茶を飲んでいる。ただそれだけのことで、周囲の群衆の心からはあらゆる悪意や疲労が消え去り、誰もが晴れやかな、希望に満ちた表情を浮かべていた。
彼女がそこに存在するだけで、世界は浄化される。それが、天に愛された本物の『天才』の姿であった。
だが。
レイジの視線は、アリシアの向かいの席に座っている、もう一人の人物に釘付けになった。
褐色の肌。だらしなく着崩した白衣。ぽっちゃりと少しだけ出たお腹。そして、月光を煮詰めたような銀色のセミロングヘア。
【救国の勲章】を持ち、今や世界最強の権力を手にした傲慢の化身、エラーラ・ヴェリタスであった。
「おやおやあ?フム……これは驚いたねぇ。エルフの至宝と謳われるお嬢さんが、まさか、こんな大衆のカフェで安物の茶を啜っているとは。君のその完璧なまでの善性は、私の知的好奇心を大いに刺激してくれるよ!」
エラーラは、目の前に積まれた山盛りのドーナツを無作法に頬張りながら、ハスキーな声で笑った。
「ごきげんよう、ヴェリタス女史。わたくしは、この王都の空気を肌で感じ、皆様と同じ目線で世界を見つめることが好きですの。女史のように、強き者の特権として上から世界を見下ろすことには、少々、興味が持てませんわ」
アリシアは、完璧な微笑みを崩すことなく、鈴を転がすような声で優美に答えた。
群衆は、二人の天才少女の微笑ましいお茶会だと信じ込み、温かい目で見守っている。
だが、レイジの目には、その光景が全く違って見えていた。
(……この肌を刺すようなプレッシャーは……こいつら、まさか……!)
レイジは、歯の根が合わなくなるほどの恐怖を感じ、群衆の影に身を潜めた。
これは単なる会話ではない!
紛れもない『殺し合い』だ!
エラーラの瞳の奥にあるのは、「合理」。
強者が世界を牽引し、弱者はそのための犠牲になるべきであり、あわよくば強者のおこぼれで弱者を救えばいいという、傲慢極まりない選民思想。
対するアリシアの瞳の奥にあるのは、「理想」。
弱者を最初から一人も見捨てない完璧な世界を目指すがゆえに、強者の手足を縛り、足を引っ張り、結果として全体を停滞させる狂信的な博愛。
水と油。
光と闇。
絶対に相容れない二つの究極の『天才』が、今ここで運命的に交錯してしまったのだ。
「君のその『誰も見捨てない』という理想は美しいがね。フム……だがね、生命体の進化の過程においては、切り捨てる勇気こそが種を存続させる唯一の最適解なのだよ。君の愛は、いずれこの星を窒息させるだろうねぇ!」
「あら、切り捨てられた弱者の屍の上に築かれた未来に、一体何の価値がありますの?女史のその合理こそが、人の心を砂漠に変え、いずれは、ご自身をも滅ぼす猛毒になることに、なぜ、お気づきになりませんの?」
言葉遣いはどこまでも優美だ。
しかし!
その背後で、目に見えない巨大な魔力と思想の刃が、火花を散らして激突している!
一歩間違えれば、王都を消し飛ばすほどの戦争が、このカフェのテーブルの上で今まさに始まろうとしていた。
レイジは、声を発することなく、群衆の中でただひっそりと……涙を流していた!
何故、泣いているのか?
この二人の天才が衝突した時、王都を、いや世界全体を巻き込む、とてつもない大戦争が勃発することは火を見るより明らかであったからだ!
そしてレイジが泣いた本当の理由は、その『本当の天才たちの冷戦』において、一体次に何が起きるのか、自分のような単なる、量産型の秀才の頭脳では、一切の想像がつかなかったからである!
(俺は……今まで、自分のことをちょっと頭のいい天才だと思い上がっていた。知識さえあれば、歴史をコントロールできると……)
だが、それは思い上がり『ですら』なかった!
自分が、歴史の深さも、学問の底なしの闇も、人間の持つ業の深さも何も知らない、ただの、汚らしい『虫ケラ』に過ぎないということを、圧倒的な現実の前に突きつけられたのだ!
そもそもだ。
人という生き物は愚かなもので、誰もが、自分の知能を平均より少し上だと勘違いしている。
人は、自分以上の秀才を、理解することなどけしてできないのに、だ。
知性とは、例えるなら、匂いだ。
馬鹿な自分が放つ体臭に、自ら気がつくことはできないし、自分より臭い馬鹿にクレームをつけることしかできないのだ。
自分よりマシな匂いの秀才がいても、自分の知性という腐り切った嗅覚では、嗅ぎ分けることができない。
故に……そのことにすら気がつけないような、教科書通りのことしかできない視野の狭い秀才は、自分以外の全てをうっすらと見下しているのだ。
そう。
レイジはいま、たまたま、自分が悪臭を放つ馬鹿であると、事故的に、ようやく察せたのだ!
そして。
勝負とは、会話とは、いや、仕事であろうとゲームであろうと恋愛であろうと、本当の頂点の世界においては、「やってみなくちゃわからない」などという、甘い寝言は存在しない。
剣を交えずとも、言葉を交わさずとも、相対してわずか1秒で、実力差という残酷な『結果』は確定する。
歴戦の剣豪の前に、木刀を持った素人が「やってみなくちゃわからないだろ!」と決闘を挑む。
それは勇気ではない!
ただの「馬鹿」だ。人間、いや生き物であるならば、一目で、ただ見ただけで決着がつくことくらい、本能で悟らなければならない。
たいした社会経験もなく、絶望の底を見たことすらない無邪気な大人は、無責任に「頑張れば夢は叶う」「歴史は変えられる」と嘘っぱちを吐く。
だが、現実は違う!
例えば。
どうしても手が届かない、星のように輝くアイドルがいたとする。
自分がそのアイドルの隣に立ちたいと願った時、自分の顔が平凡で、才能もないと自覚しているのならば、どうするべきか。
頭の中身がイノシシのような猪突猛進の馬鹿は、己の無力さを認めず、自分がアイドルになろうと無謀なオーディションを受け続ける。そうして失敗と屈辱を重ね、誰の記憶にも残らない負け豚として去っていくだけだ。
その過程を「熱い」と持て囃すのは、まともに何かに取り組んだこともない、三流の愚か者の戯言に過ぎない。それは『最適』とは程遠い。
本当にアイドルの隣に立ちたいのなら。
自分が表舞台に立つ器ではないと1秒で早々に自覚し、主人公になることを辞退し、裏方に回ればいいのだ。
泥水にまみれてマネジメントを学び、広告活動に奔走し、会計計算係として死に物狂いで働き、アイドルのための土台を作り上げる。そうやって裏から接近し、アイドルの生命線を握る存在になること。
『選択』だ!
『選択』こそが、レイジのような、いや、我々凡人に許された唯一の、そして最も残酷な『最適解』なのだ!
レイジは、涙を拭い、エラーラとアリシアの背中を静かに見つめた。
(……俺に、歴史は、変えられない)
ヘレナの暗躍も、シュピーゲル博士の狂気も、地下室で憎悪を滾らせるアスナの地獄も、そして目の前で始まった二人の天才少女の冷戦も……レイジの手には負えない。
「……だったら俺は……選択する!」
レイジは、震える足に力を込め、立ち上がった。
レイジは、来るべきその『何らかの破滅』が起きた時、決して表舞台には立たず、影のマネージャーとして、死に物狂いで『被害を最小限に食い止める策』を講じることに決めたのだ!




