地獄6:制限のない自由!馬鹿息子を育てよう!
政府の致命的な怠惰と管理体制の甘さが引き起こした……とされる、「龍脈制御炉」の崩壊事故。
その「大爆発が起きたにも関わらず、被害が完全にゼロであった」……という奇跡的な事実は、恐怖に震え上がっていた世界中の人々を安堵させ、やがて熱狂的な感動の渦へと巻き込んだ。
実際には、その奇跡は『グリッチ・オーディナル』という一人の天才少女や、その場にいた者たちが完全に跡形もなく消滅させられたという『完全犯罪』によってもたらされたものであった。だが、その事実を知る者は、今やこの宇宙のどこにも存在しない……
事故から数週間が経過した、新暦105年の初秋。
王都の空は抜けるように青く、澄み切った風が祝福のように街を吹き抜けていた。
中央広場に設置された巨大な魔導モニターの群れは、連日のように「星を救った英雄」の姿を映し出し、街中には色とりどりの紙吹雪が舞い散っていた。
シュピーゲル邸の広々とした居間でも、その歴史的な中継番組が流されていた。
革張りの高級なソファに腰を下ろしたレイジ・オルフェンとヘレナ・ヴェリタスは、息を呑んで画面を見つめていた。
『星の消滅という未曾有の危機から我々を救い出したエラーラ・ヴェリタス女史に対し、王都政府を代表し、我が国における最高位にして、あらゆる法と権力の上に立つ特権【救国の紋章】を授与する!』
モニターの中で、豪奢な王宮のバルコニーに立つ政府高官が、声を震わせて宣言した。
群衆の歓声が、地鳴りのように王都を揺るがす。
その歓声の中央で、白亜の玉座のような椅子に深く腰掛けていた女性、エラーラ・ヴェリタスが、ゆっくりと立ち上がった。
かつての漆黒の髪は、あの事故の極限状況下で魔力が暴走した結果、月光を束ねたような美しい銀髪へと変貌していた。
「やっぱすげえな!あの若さで【救国の紋章】をもらうとは!」
レイジは画面に向かって手を叩き、感嘆の声を上げた。
【救国の紋章】とは、単なる名誉ではない。国家予算の自由な使用権、あらゆる立ち入り禁止区域へのフリーパス、果ては免責特権に至るまで、文字通り「この世に存在するすべての特権の上位に位置する」究極の権利である。
星の消滅を防いだ英雄に与えられる栄誉としては、決して過分ではなく、むしろこれでも足りないくらいだと、誰もが思っていた。
「ふふっ!エラーラさん、とっても綺麗ですねぇ!本当によかったですぅ」
ヘレナもまた、いつもの笑顔で拍手をしている。彼女の淹れた紅茶の甘い香りが、平和な居間を満たしていた。
だが。
レイジの賞賛の笑みは、モニターの中のエラーラの「その後の振る舞い」を見た瞬間、徐々に引き攣り、やがて……青ざめていった。
彼女は、政府高官からうやうやしく差し出された「救国の紋章」が刻まれたメダルを、まるでつまらない石ころでも見るかのように片手でひょいと受け取ると、それを自分の首にかけることもなく、ポケットに投げ入れ、彼女は再び玉座にドカリと座り直す。
そして、長い脚を組んでふんぞり返りながら、祝いの席に用意された最高級のヴィンテージワインのグラスを手に取った。彼女はグラスを軽く揺らし、香りを嗅いだだけで、露骨に「こんな安酒が飲めるか」とでも言わんばかりに顔をしかめたのだ。
レイジは、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
コミカルですらある、傲慢な振る舞い。だが、その根底にあるのは、他者をひたすらに見下し、世界を自分の足元にひれ伏させようとする、底なしの……増長であった!
「レイジさん、どうかしましたかぁ?お顔の色、少し悪いですよぉ?」
ヘレナが、レイジの顔を覗き込みながら、小首を傾げた。
その瞳はどこまでも純粋で、温かさに満ちている。
レイジは慌てて表情を取り繕い、「なんでもないぜ!エラーラの美しさにちょっと見惚れちまっただけさ!」と笑って誤魔化した。
ヘレナはくすくすと笑い、ティーカップに口をつけた。
平和で、穏やかで、満ち足りた日常のひととき。
しかし、その無邪気な笑顔の裏側、ヘレナの精神の深淵では、誰にも知られることのない、氷のように冷たく、そしておぞましい悪意が、静かにとぐろを巻いていた。
しかし。
彼女自身、自分がなぜエラーラに執着しているのか、明確な理由は分からない。「妹として見捨てられたから」という根源的な絶望は記憶の底に沈殿しているが、それに付随するはずの「グリッチ」という存在が消去されているため、彼女の心には『エラーラを破滅させなければならない』というぼんやりとした「手段」と「目的」だけが、呪いのようにこびりついているのだ。
ヘレナの脳裏に、一つの冷酷な哲学が浮かび上がる。
人は、いや、生き物は、他者から『与えられすぎる』と、一体どうなるのか?
例えば、親に過剰に愛され、何一つ不自由なく、すべての要求を与えられ続けて育った少年や少女はどうなるか。
彼らは「足る」ということを知る機会を永遠に奪われる。他者の痛みを理解する想像力を育てられず、自分の欲求が通らないことに対する耐性を持たないまま大人になる。結果として、彼らは他者を平気で傷つける、極めて残忍で自己中心的な中年へと変貌するのだ。
例えば、自然界の獣たちはどうだろうか。
百獣の王であるライオンも、あるいは狡猾なネズミでさえも。彼らを檻の中に入れ、毎日最高の餌を与え、外敵のいない温室で完璧に保護し続けたらどうなるか。
彼らは戦う術を忘れ、牙はなまくらになり、生きるための本能を腐らせていく。そうしてグズグズと太り、完全に温室暮らしに染まりきった後に、再び過酷な野生の荒野へと放り出されたら、彼らは、餌を狩ることも、敵から逃げることもできず、ただ無様に死んでいくしかない。
それは、生物の細胞レベルでも同じことだ。
細胞は、適度な栄養とストレスを与えられ、周囲の細胞と協調することで健全な組織を形成する。
しかし、もし一つの細胞にだけ、ひたすらに、過剰なまでに栄養を与え続けたらどうなるか。
その細胞は周囲との調和を忘れ、際限なく肥え太り、やがて自らの限界を超えて、無惨な「破裂」を迎える。あるいは、周囲の細胞を食い荒らす「ガン細胞」として滅びの道を歩むのだ。
ヘレナは、目を細めてモニターの中のエラーラを見つめた。
エラーラは今、世界中から賞賛という無尽蔵の栄養を与えられ、【救国の紋章】という絶対的な権力で温室の中に隔離され、すべての我儘を許される過保護な環境に置かれている。
ヘレナは、誰にも聞こえない心の奥底で、悪魔のように嗤った。
自らの手で刃物を握る必要などない。直接的な暴力を振るう必要もない。
ただ、彼女にすべての特権と栄誉を「与え続ければ」いいのだ。
そうすれば、世界最強の魔導何某であるエラーラ・ヴェリタスであっても、自らの内に抱えきれないほどの傲慢さで肥え太り、他者を見下し、やがて必ず、自分自身の重みに耐えかねて自壊する。
世界から最も愛された英雄が、己の傲慢さゆえにすべてを失い、最も惨めな形で破裂する瞬間。それこそが、ヘレナの用意した、最高の復讐のシナリオであった。
「……ケーキ、もう少し食べますかぁ?レイジさん」
ヘレナは、何事もなかったかのように、とびきり愛らしい笑顔で皿を差し出した。
凄まじい緊迫感と冷酷な殺意が、明るく穏やかな日常の皮を被って、静かに息を潜めていた。
「あ、ああ……でも、俺はそろそろ部屋に戻って、作業の続きをしなくちゃならないからさ」
レイジは、ヘレナから差し出されたケーキを丁重に断り、自室へと逃げるように戻ってきた。
自室の机に向かい、レイジは大きく深呼吸をした。
机の上には、インクの瓶と、書きかけの分厚い原稿用紙の束が積まれている。
最近のレイジは、この新暦105年の世界における情報収集と並行して、ある一つの「執筆活動」に没頭していた。
それは『人とはどうあるべきか』『社会における最適な生き方とは何か』を探求する、壮大な「魔導哲学」の論文であった。
彼がこんな小難しい執筆にハマり始めたのには、切実な理由があった。
テレビのモニターで見た、あの傲慢にふんぞり返るエラーラの姿。
あの姿が……未来の世界で……両親の権力と富に甘え、何一つ不自由なくワガママ放題に生きていた……「かつての自分」の醜い姿と、酷似していたからだ!
自分のボンボンさ加減に、心底嫌気がさしたのだ。
だからこそレイジは、己への戒めも込めて、人が他者と協調し、社会全体が最も効率的かつ幸福に機能するための理論を、ペンに託して書き綴っていた。
「……レイジさん、お邪魔してもいいですかぁ?」
ドアが少し開き、ヘレナが顔を出した。手には、先ほどレイジが断ったケーキが乗った皿が握られている。
「お。ヘレナ。どうした?」
「レイジさんにやっぱりケーキ食べてほしくてぇ。……あ、またその難しい紙、書いてるんですね。それ、一体なんの原稿なんですかぁ?」
ヘレナは、机の上に広げられた原稿用紙を不思議そうに覗き込んだ。
レイジは少し照れくさそうに頭を掻きながら、ペンを置いた。
「ああ、これか。これはな、魔導的な視点から見た『適材適所』の考え方をまとめているんだ。言い換えるなら、社会と人間の『最適化』の理論ってやつさ」
「さいてきか……?なんだか、難しそうですぅ」
「要するにだ。人間ってのは、えー、一人ひとりが違う魔力や才能を持ってるだろ? それをー、えーと、自分勝手に振り回すんじゃなくて、全体のシステムの中で一番輝ける場所に配置する。つまりだ、パズルのピースを正しくはめるように、誰もが無駄なく、互いを補い合いながら生きていくためのルールさ」
レイジは、熱を込めて語った。それは、未来から来た彼だからこそ到達できた、一つの理想論であった。
「素晴らしい。実に理にかなった、美しい思想だ」
突然、背後から落ち着いた声が響いた。
レイジが弾かれたように振り返ると、そこには、いつの間にか部屋に入ってきていたファントム・シュピーゲル博士の姿があった。
「すまないね、ノックはしたのだが、君が熱中していたようだから。……その『最適化』の理論、少し読ませてもらってもいいかな?」
博士はレイジの承諾を得る前に、机の上の原稿用紙を手に取り、スラスラと目を通し始めた。
その沈黙の数秒間、部屋の空気がピンと張り詰める。
やがて、博士は原稿をゆっくりと机に置き、レイジを真っ直ぐに見据えた。
「……驚いたよ。この数式の、魔力力学の応用……現代では、まだ到達していない概念だ。つまり。君は、本当は一体、何者なんだい?」
「えっ、あ、だから、いや、俺はただの放浪の学者でして……」
レイジはしどろもどろになりながら、必死で言い訳を探した。
だが、博士はふっと優しく微笑み、こう告げた。
「隠さなくてもいい。……君は、私の未来の『子孫』だね?」
レイジの心臓が、早鐘のように激しく跳ねた。
だが、シュピーゲル博士は両手を軽く挙げて、敵意がないことを示し、温かい声で言った。
「安心しなさい、レイジくん。私は君の味方だ。警戒を解いておくれ」
「……なぜ、俺が未来から来たって……?」
レイジは銃から手を離さず、低い声で尋ねた。
博士は眼鏡の位置を直し、理路整然と説明を始めた。
「理由は二つある。一つは、君が数ヶ月前、この屋敷に初めて来た時、私のことを自然に『博士』と呼んだことだ。……私は学者ではあるが、世間的には『シュピーゲル卿』という爵位で呼ばれるのが一般的だ」
レイジは舌打ちをした。自分の不用意な発言が、こんな初期から見抜かれていたとは。
「そして二つ目。君が今書いているその『最適化』の理論だ。実は、それこそが、我々シュピーゲル家が代々、極秘裏に研究し続けている最終命題なのだよ。君の原稿には、私の研究の『その先』の答えが、あまりにも自然な形で書かれていた。……それが書けるのは、私を継ぎ、その研究を完成させた未来の者しかありえない」
博士の言葉には、確信と、そして未来を生きる子孫への深い慈愛が込められていた。
レイジと博士、そして二人の会話を不思議そうに聞いていたヘレナの三人は、再び1階の居間へと戻ってきた。
魔導モニターの画面では、相変わらずエラーラ・ヴェリタスの特集番組が延々と流されていた。
今度は、エラーラが高級レストランを貸し切りにし、給仕の態度が気に入らないと叫んでいるという、傲慢の極みのような映像だった。
「ひどい有様だね。あれが星を救った英雄の姿とは……」
博士は眉をひそめ、嘆息した。
レイジはソファに座り直し、博士とヘレナに向かって、熱を込めて語り始めた。
「俺が書いている『最適化』の魔法。あれが完成すれば、社会のシステムが効率化されるだけじゃない。人間の精神レベルでの繋がりが変わるんだ」
「精神の繋がり、ですかぁ?」
ヘレナが首を傾げる。
「ああ。最適化の魔法の最終段階は、自他の境界を緩やかに繋ぐことにある。すなわちなんだよ、それが実現すれば、人は『他者の気持ちや苦しみを、自分のこととして分かち合えるようになる』んだ。自分が傲慢に振る舞えば、他者がどれだけ傷つくか。その痛みがダイレクトに自分にフィードバックされる。そうすれば、争いも、他者を見下す傲慢さも、この世から消えてなくなる……はずだ!」
レイジは拳を握りしめた。
それは、彼なりの純粋な希望の光であった。
他者の痛みが分かる世界になれば、あの画面の中のエラーラのように、権力に溺れて他人を虐げるような悲劇はなくなる。だからこそ、この魔法は絶対に必要なのだ、と。
レイジの熱弁を聞き終えた居間に、静寂が訪れた。
ヘレナは、いつもと変わらない無邪気な声で、口を開いた。
「そうですねぇ……。その魔法」
彼女は、静かに微笑んだ。
モニターの中では、エラーラが不敵な笑みを浮かべ、ワイングラスを掲げている。
「今のあの彼女にこそ、最も必要みたいですね」




