地獄5:完全犯罪!大量殺人は起きなかった!
その日、レイジ・オルフェンの脳内に閃いたのは、ごく単純な、「視覚的な矛盾」からの帰結であった。
「……髪の色」
薄暗いシュピーゲル邸の自室で、レイジはベッドに座り込み、自分の白銀の髪をわしづかみにしていた。
史実の記録。
新王都を築き上げた偉大なる魔導技師エラーラ・ヴェリタスもまた『銀髪』であったと記されている。
しかし、現在、新暦105年のソフィア大学で研究に没頭しているエラーラの髪は、漆黒の『黒髪』である。
「古来より、規格外の魔力を内包する魔法使いは、白髪の者が多かった。あれは単なる加齢による白髪じゃあない。究極的に高密度な魔力が体内を循環し続けることで、肉体の色素が焼き切れ、白や銀へと変貌するからだ。……つまり」
レイジの背筋に悪寒が走る。
現在、ヘレナの髪はすでに銀色だ。つまり彼女は、この時点で誰も到達し得ないほどの絶大な魔力を無自覚に保有している。
そして、数日前に出会った、エラーラの婚約者を名乗る『グリッチ・オーディナル』という少女。彼女の髪もまた、透き通るような白髪であった。彼女の魔力もまた、ヘレナに匹敵する次元にあるということだ。
「エラーラは……おそらくこの先、何らかの魔導爆発に巻き込まれ、魔導被曝し、体内の魔力が臨界を突破した結果として『銀髪』になるんだ。……だが、それよりも問題なのは……」
レイジは、ガチガチと鳴りそうになる奥歯を噛み締めた。
史実の記録において、エラーラの伴侶として名を残しているのは『アスナ』という竜人のみである。
『グリッチ・オーディナル』などという天才学者の名前は、歴史書のどこをひっくり返しても記載されていない。
「最初から『ない』……?いや……歴史の闇に葬られたとか、誰かに情報を『消された』とか、そんなレベルの話じゃあない……」
もし、彼女が死んだのであれば、エラーラの「かつての婚約者」として悲劇の記録が残るはずだ。
だが、記録がない。
人々の記憶にも残らない。
それはつまり、グリッチという存在が「最初からこの世界にいなかったことになっている」、あるいは「自分から消えた」という、宇宙の因果律そのものをへし折るような異常事態を意味している。
「……俺は、致命的な勘違いをしていた……?」
レイジは頭を抱え、絶望にうめいた。
この時の彼は、新暦108年になるまでに、ヘレナの暴走を食い止め、未来を「変えさえすればいい」とのんきに構えていた。だが、それはあまりにも、甘すぎる考えだったのだ。
真の破滅のトリガーは、3年後ではなかった。
新暦105年の夏。
しかも、明日だった。
この平和な王都の裏側で、すべてが狂い始める。その絶望のカウントダウンがすでにゼロに達しようとしていることを、まだ、誰も知らないまま、のうのうと、無様に、楽しげに生きていたのである!
翌日、7月31日。
王立魔導研究所の地下深く。星の心臓へと続く、王都の莫大なエネルギーを賄う心臓部、「龍脈制御炉」。
その分厚い鋼鉄と魔導ガラスに覆われた制御室の前に、グリッチ・オーディナルはいた。
「今日のお仕事もあと少し!お姉ちゃん、喜んでくれるかなぁ」
彼女は、持ち込んだコーヒーをストローで啜りながら、ご機嫌な様子で計器のチェックを行っていた。
ここに来る前、彼女は王都の広場で、たまたまヘレナ・ヴェリタスに会った。
『グリッチちゃん。お仕事頑張りすぎちゃダメですよぉ。これ、私が淹れた特製のコーヒーですからぁ、飲んでくださいな』
そう言って、聖母のように微笑むヘレナと仲良く会話をし、そのコーヒーを受け取っていたのだ。
グリッチは、「大人の味ってやつかな!」と明るく笑って飲み干した。
その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!
突如として、研究所全体が、巨大な激震に見舞われた。
「わ!じ、地震!?」
制御室のモニターが、一斉に血のような赤色に染まり、警報音が鳴り響く。
計器が示すのは、炉心内部の圧力の異常な逆流。
「炉心が崩壊してる!? なんで!?」
逃げ惑う研究員たちの悲鳴が響く中、炉心の分厚い隔壁の隙間から、それ」は漏れ出し始めた。
どす黒い、泥のような「粒子」の群れ。
それは物質ではない。
魔力ですらない。
触れたものをジワジワといたぶり、苦しめ抜き、その空間そのものを「無」へと消滅させていく、この宇宙の法則に対する絶対的なバグ、『空間破断粒子』であった。
逃げ遅れた研究員の腕に一滴の粒子が跳ねた瞬間、彼は言語を絶する絶叫を上げた。
肉が溶けるのではない。
彼の腕が存在していたという「空間の座標」そのものが、ピアスの穴を開けるように、優しく、執拗にほじくられ、ゆっくりと削り取られているのだ。
存在が消滅していく際の、究極の激痛。
しかし、その痛みは長くは続かない。
空間に開けられた穴が「固着」し、完全に開き切った瞬間、研究員は痛みを訴えるのをやめた。
なぜなら。
彼の右腕は「元からなかった」ことになったからだ。
右腕がないのが彼の正常な姿として世界に上書きされ、彼自身も「あれ? 最初から腕なんてなかったのになんで叫んでたんだろう?」という顔をして、そのまま次の黒い泥に飲み込まれ、全身が「元からいなかった存在」として消滅していった。
グリッチは戸惑った!
なぜ、急に炉心が崩壊し始めたのか?
なぜ、自分がこの地下深くに足を踏み入れた、まさにこの瞬間に?
誰かが何かを仕組んだのか?
いや…………「仕組んだ」のは、他でもない、グリッチ自身であった!
だが、彼女は気がついていない!
ヘレナ・ヴェリタスが、あの聖母のような優しい笑顔の裏で、極限まで圧縮した自身の絶望の魔力を変質させ、一滴の「空間破断粒子の種」を、グリッチのコーヒーに混入させていたことに!
そして、グリッチがそのコーヒーを喉に流し込んだ時点で、グリッチ・オーディナルという存在は、すでにこの宇宙において「死んで」いたのだ!
彼女は今、そこに立っている。
呼吸をし、思考をし、逃げ惑う研究員たちの目にも映っている。
だが!
それは慣性の法則で動き続けている幻影に過ぎない!
彼女の魂の座標、いや、存在証明は、すでにこの世界から完全に切り離されているのだ!
そうして何も知らぬグリッチは、ただ、真面目に研究員として、星の心臓へと向かう通路である「龍脈」に近づいてしまった!
この世の存在ではなくなった「無」の塊が、「有」の存在の中心に触れればどうなるか。
次元の拒絶反応が起こる。龍脈は彼女の中にある空間破断粒子を際限なく吸い上げ、増幅させ、そのまま爆発して世界中に撒き散らし、この星を完全なる「無の破滅」へと導こうとしていたのだ。
「逃げて!みんな、早く地上へ!!」
グリッチはパニックになりながらも、持ち前の明るく通る声で叫び、同僚たちを避難口へと誘導した。
その時、制御室の重い扉が蹴り開けられ、一人の女性が転がり込むように入ってきた。
白衣を汚し、息を荒らげ、漆黒の髪を振り乱したその姿。
エラーラ・ヴェリタスであった。
彼女は、最愛の婚約者がいるこの場所に異常を察知し、崩落する瓦礫を抜け、命からがら駆けつけてきたのだ。
モニターが示すのは、完全なる星の消滅まであと数分という現実。
そして、炉心へのハッチの前に立つ、小さな白髪の少女の背中。
暴走を止めるには、炉心の内部に入り、手動でメインバルブを閉めるしかない。
しかし、内部はすでに致死量の空間破断粒子で満たされている。防護服を着る時間などないし、着たところで無意味だ。
あそこに入れば、確実に消滅する。死ぬのではない。最初から「いなかったこと」になるのだ。
エラーラは、悲鳴にならない悲鳴を上げながら、グリッチに向かって手を伸ばし、駆け寄ろうとした。
だが、グリッチは、黒い粒子の嵐が吹き荒れる中を、防護服も着けずに歩き出していた。
「お姉ちゃんが教えてくれたよね。『君は世界を救う人になる』って!」
グリッチの明るい声が、轟音を切り裂いて制御室に響いた。
「中のバルブを閉めれば、暴走は止まる。……私が、世界を……救ってくるね!」
グリッチは、ハッチを開けた。
圧倒的な黒い泥の奔流が、彼女の華奢な体を打ち付ける。
彼女は、文字通りの地獄の中へと飛び込んだ。
炉心内部。
そこは、人間の精神が耐えきれない、存在を否定する「無」の空間だった。
彼女の白い肌が、肉が、血液が、黒い泥に食われ、ゴリゴリと、ヌルヌルと、しっかりと、空間の彼方へと抉り取られていく。
「……痛い……!熱い……!!」
物理的な痛みではない。自分が自分であるという魂の輪郭を削り取られる、究極の精神的苦痛。
左足の感覚が消えた。なぜなら、彼女の歴史から「左足」という概念が消去されたからだ。
エラーラと初めて出会った日の記憶が、黒く塗りつぶされて消えた。自分が何のためにここにいるのか、一瞬分からなくなりそうになる。
だが、グリッチは、ドロドロに溶けかけ、骨すらも透けて見えなくなった両手で、巨大なメインバルブにしがみついた。
グリッチは、溶け落ちる自らの命と魂のすべてを燃やし尽くし、巨大なバルブを回した。
ギギギギギ……ガァンッ!!
閉まった。
星の心臓から噴出していた黒い粒子の嵐が、嘘のようにピタリと止まり、炉心の暴走が急速に収束へと向かう。
制御室のモニターが、絶望の赤から『安定』を示す緑色へと変わった。
「……やった……」
グリッチは、すでに形を保てなくなり、肘から先が虚空に消えかけている両手で、小さくガッツポーズをした。
顔の半分が消滅し、片目だけになった彼女の口元に、純粋な喜びの笑みが浮かぶ。
これで、帰れる。お姉ちゃんの元へ。私、褒めてもらえる。
一方、制御室。
エラーラは、飛散したガラスの破片で血まみれになった体を引きずり、制御盤に這い上がっていた。
緑色に変わったモニターを見る。
炉心内部の圧力が下がった。グリッチが、あの地獄の中でバルブを閉めてくれたのだ。
だが、モニターの片隅で点滅する警告灯が、冷酷な現実を突きつけていた。
噴出は止まったが、まだ炉心内には致死量の粒子が残留している。そして、バルブの隙間からは微量の漏出が続いている。
今すぐ、この制御室と炉心を隔てる「緊急隔壁」を閉鎖し、炉心を真空状態で完全隔離しなければ、わずかな漏出でも王都は汚染され、世界は崩壊する。
エラーラの血に濡れた手が、閉鎖レバーにかかる。
それは、究極の選択だった。
エラーラの心臓が、肋骨を突き破らんばかりに激しく鼓動し、張り裂けそうになる。
彼女の喉から、声にならない絶叫が漏れ、血の涙が頬を伝ってボタボタと制御盤に落ちた。
愛する者を助けるために、世界を捨てるか。
グリッチは自らの存在を捨ててまで、世界を救ったのだ。
ならば、その成果をここで無駄にすることこそが、彼女への最大の冒涜では、ないのか?
彼女の「世界を救う」という無邪気で崇高な偉業を、科学者として、愛する者として、完遂させなければならない。
エラーラは、しゃくり上げ、全身を痙攣させ、泣き叫びながら、そのレバーを引き下ろした。
それは、科学者としての極限の理性が下した、最も残酷で、最も正しい決断だった。
ゴォォォォォォッ!!
重厚な鉛と魔導ガラスで構成された緊急隔壁が、轟音を立てて下り始める。
強化ガラスの向こう。
暗闇の炉心の中で、それに気づいたグリッチが、ゆっくりと振り返った。
その瞬間。
分厚いガラス越しに、二人の視線が交差した!
グリッチには、ハッキリと見えてしまった!
絶望と悲痛のあまり、体内の魔力が臨界を突破し、漆黒だった髪が根元から真っ白な『銀髪』へと変わり果てていくエラーラが、自らの手でレバーを引き、自分を「死」へと、「無」へと閉じ込める姿が!
その瞬間、グリッチの天才的な頭脳が、極限状態のパニックと孤独感の中で、最悪の「解」を導き出してしまった。
彼女の残された片目から、希望の光がスッと消え失せた。
(お姉ちゃんは、私を、捨てたんだ)
誤解。
あまりにも悲しく、痛ましい、論理の飛躍。
エラーラがどれほどの地獄の苦しみの中でレバーを引いたかなど、ガラスの向こうのグリッチには伝わらない。
グリッチの目から、最後の光が消える。
憧れが、愛が、絶対の信頼が、音を立てて崩れ去り、底なしの絶望と怨嗟へと反転する。
彼女の明るい笑顔は、見開かれたまま凍りつき、血の涙を流す凄惨な怨霊の顔へと変わった。
「私……頑張ったのに……。約束、守ったのに……!」
ガラスの向こうで、銀髪に変わったエラーラが、顔をくしゃくしゃにして何かを叫んでいる!
ガラスを叩き割りそうな勢いで、血みどろの手を叩きつけている!
だが、厚いガラスと轟音に阻まれ、その声は一切、グリッチには届かない!
無慈悲な黒い粒子が、ついにグリッチの首元までを飲み込む!
肉体が、消滅していく!
彼女は、残された最後の力で、胸のポケットから小さな「指輪」を取り出した。エラーラと共に作り上げた、二人の絆の証。
もう、手の指の感覚はまったくない。骨すらも黒い泥に溶けている。
それでも彼女は、それを口に咥え、無くなりかけている左手の薬指に、無理やり押し込むようにはめた。
「……結婚、したかったな」
絶望の底で、グリッチは、泣きながら、それでも最期は愛する人に向けて笑った。
その笑顔は、あまりにも純粋で、あまりにも残酷だった。
「……約束通り、世界を救ったよ」
そして、炉心内に残留していた粒子が臨界点に達し、大爆発を起こした。
閃光。
分厚い強化ガラスが粉々に吹き飛び、エラーラはその衝撃で制御室の壁まで弾き飛ばされ、意識を失った。
だが。
それほどの大爆発が起きたにも関わらず、王都は消滅しておらず、研究所も崩壊を免れていた「ように見えた」。
誰一人として、存在を消滅していなかった「ように見えた」のである。
エラーラは、瓦礫の中で目を覚ました。彼女の髪は、月光のように美しい銀色へと変貌していた。
彼女は、自分がなぜここで血まみれで倒れているのか、なぜ緊急隔壁を下ろしたのか、まったく理解できなかった。
彼女の記憶から、「グリッチ・オーディナル」という存在のすべてが消え去っていた。
共に笑い、共に研究し、結婚を誓い合った婚約者の記録が、脳のシナプスから完全に、跡形もなく削除されていた。彼女の心に残ったのは、理由のわからない、心臓をえぐり取られるような喪失感と悲しみだけであった。
それだけではない。
同じ時刻。王都の反対側にある、シュピーゲル邸の自室。
「ヒャハハハハハハハハハハッ!アハハハハハハハハハッ!!くたばりやがれよッ!!!!キヒヒヒヒヒヒヒ!!!!」
ヘレナ・ヴェリタスは、ベッドの上でのたうち回りながら、狂気的な笑い声を上げていた。
その笑みは、普段の聖母のような笑顔とは対極にある、地獄の底から這い出た悪魔でさえも、あまりの残忍さに涙を流して自害し始めてもおかしくないほどの、純粋な悪意と狂気に満ちていた。
「アハハハハハ!お姉ちゃん、お姉ちゃぁん!今、どんな顔してる!?大切なものを奪われて、どんな顔して泣いてるのぉ!?悔しいだろお!ざまぁみろ!私を捨てた罰だよぉ!苦しめよ!もっと苦しみ抜いてよぉ!ヒキキキキキヒヒ!!!!」
扉の隙間からその光景を覗き見ていたレイジ・オルフェンとファントム・シュピーゲルは、顔面を蒼白にし、全身をガタガタと震わせていた。目の前で繰り広げられる「悪魔を超えた悪魔」の狂喜に、歯の根が合わないほどの恐怖を抱いていた。
だが。
グリッチが炉心で完全に消滅しきった、まさにその瞬間。
「……あれ?」
ピタリと。
ヘレナの狂い笑いが止まった。
彼女の足元で渦巻いていた、部屋の家具を軋ませるほどのどす黒い魔力も、嘘のようにスッと霧散していく。
ヘレナはキョトンとした顔で、自分の両手を見た。そして、不思議そうに首を傾げる。
「……私……誰のことを考えてたんだっけ……?」
誰も、ヘレナの狂気を覚えていなかった。
いや、ヘレナ自身も覚えていなかったのだ。自分が「誰の」コーヒーに「何を」細工したのか。「誰から」「何を」奪おうとしたのか。その憎悪の対象すらも。
レイジとシュピーゲル博士も同様だった。
「何か、恐ろしいものを見た」という生理的な恐怖だけがうっすらと残ったが、それが何だったのか、数秒後には完全に思い出せなくなっていた。
なぜなら。
嫉妬の対象が、憎悪の座標が、存在が、グリッチ・オーディナルにまつわるすべての因果が、この世界から消滅したからである。
後から証拠隠滅のために消されたのではない。
最初から空白だった「ことになった」のでもない。
この宇宙において、グリッチの存在は、本当に『最初から空白だった』のだ。
動機も、手段も、被害者も、すべてが「無」。
これ以上の完全犯罪があるだろうか?
いや、その表現すらもおかしい。
何故なら、犯罪など起きていないのだから。
誰も殺されていないし、誰も「いなくなってすらいない」のだから……




