地獄4:少女の心を抉りトラウマを呼び起こす者!
新暦105年の王都に潜り込んでから、早くも三ヶ月が経過していた。
「今日の日雇い仕事もパーフェクトにこなしてきたぜ!このレイジ様の手にかかれば、重い荷物運びも魔導回路の配線修理も、なああんだって朝飯前ってわけだ!」
シュピーゲル邸の居間に飛び込んできたレイジは、汗を拭いながら大げさにポーズをとった。
白銀の髪は少し伸び、着古した服はあちこちに汚れがついているが、その顔つきには以前の甘さが消え、鋭い洞察力を湛えた精悍さが加わっていた。
この三ヶ月間、レイジは昼は街に出て日雇いの労働をしながら情報収集に奔走し、夜はシュピーゲル邸でヘレナの世話を焼くという二重生活を送っていた。
エルフとしての卓越した知性と、未来の歴史を知る者としての冷徹な計算によって、レイジはこの時代の裏側に隠された「重大な秘密」の数々を突き止めていた。
「お疲れ様ですレイジさん!今日も大変でしたねぇ。はい、冷たいお水どうぞですぅ」
ぽわんとした笑みを浮かべ、ヘレナがグラスを差し出してきた。その胸元が揺れるのを見て、レイジは内心で冷や汗を拭いつつ、グラスを受け取った。
レイジが掴んだ情報によれば、ヘレナは元々、王都のはずれにある過酷なスラム街の捨て子だった。それをファントム・シュピーゲル博士が養子として引き取り、今の温かい環境で育て上げたのだという。
だが、問題はその出自や育成環境ではない。
レイジが調査の中で耳にした、ある学術機関の極秘の噂。それは、ヘレナ・シュピーゲルの体内には、現在王都の栄華を支えているあの天才魔導技師・エラーラ・ヴェリタスに匹敵するか、あるいはそれを凌駕するほどの「底知れぬ魔導の潜在能力」が眠っているというものだった。
さらに調査を進める中で、レイジは一つの決定的な矛盾に突き当たっていた。
ヘレナは、自分が孤児であり、シュピーゲル博士に拾われたこと以外の記憶をほとんど持っていない。そして当然のように、「自分に血の繋がった家族がいること」、ましてや「エラーラという名前の姉がいること」を、まったく知らなかったのだ。
(……間違いない。史実における新暦108年の悲劇。その引き金は、ヘレナの内に眠る暴走した魔力だ。だが、それだけじゃない。なぜ彼女が絶望し、世界を壊そうとするに至ったのか……?……そのパズルのピースを繋ぐのは、間違いなく『ヘレナとエラーラの確執』だ)
レイジは本能で確信していた。
歴史を改竄し、未来の地獄を回避するためには、この姉妹の運命の交錯を絶対にコントロールしなければならない、と。
それから数日後のことだった。
秋風が心地よい王都の大通りを、レイジとヘレナは並んで歩いていた。
「あ、レイジさん! あそこの露店で売ってるドライフルーツ、すっごく美味しそうですよぉ!」
「おっ、本当だな。よし!奮発して奢ってや——」
その時だった。
「みーつけたっ!」
パッと明るい声と共に、通りの雑踏から一人の少女が飛び出してきた。
勢いよくヘレナの背中に飛びついたその少女は、小柄で、フワフワとした白髪のセミロングヘアが特徴的だった。鮮烈な赤い瞳をパチパチと瞬かせながら、彼女はヘレナの顔をのぞき込んだ。
「えっ?あ……あれれ?お姉ちゃん、いつの間に髪を銀色に変えちゃったの? ……って……お姉ちゃんじゃない!?」
少女はヘレナからパッと飛び退くと、両手で自分の口を押さえて、申し訳なさそうに首を傾げた。
「ごめんなさいっ!私、人違いしちゃいましたぁ。驚かせちゃってごめんなさいね、お姉さん!」
「あ、あのぉ……大丈夫ですよぉ。怪我はありませんかぁ?」
いつもの調子で、ヘレナは目を丸くしながらも優しく微笑みかけた。
だが、レイジの背筋には一瞬で凍りつくような緊張が走った。
(……エルフの俺でも気配を完全に殺されていた。それに、この纏う魔力……ただ者じゃない!)
レイジが鋭い視線を向ける中、少女はけろっとした顔で笑った。
「あの、さっき……?」
ヘレナが不思議そうに問いかける。
少女は胸を張り、得意げに自分を指さした。
「ん?私のこと?私はグリッチ・オーディナル!……じゃなくて、エラーラお姉ちゃんの……婚約者!ええと、私、エラーラお姉ちゃんに頼まれて買い物に来たの! あ、そうだ、お姉ちゃんのこと、知りたい?」
「え、ええ……なんだか気になってしまって……」
「ふふーん、教えてあげる! 私のお姉ちゃんはね、王都のソフィア大学にいる、超絶天才魔導技師のエラーラ・ヴェリタスだよ!いつも黒髪を揺らして、難しい顔して研究してるんだから!」
エラーラ。
その名を聞いた瞬間、ヘレナの胸の奥で、何かが小さく、しかし鋭く痛んだ。なぜだか分からない。聞いたこともないはずの名前なのに、その響きが心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚える。
「あ、ああ……エラーラさん……ソフィア大学の……」
「そう!じゃあね、私、お姉ちゃんに怒られちゃうから急ぐの!」
グリッチと名乗った白髪の少女は、ひらりと手を振ると、瞬く間に人混みの雑踏の中へと消えていった。
「……なんだったんだ、今の少女は」
レイジは険しい顔でグリッチが消えた方向を見つめた。
「なんだか、不思議な女の子でしたねぇ……。でも、『エラーラ』さん、か……」
ヘレナは自分の胸元にそっと手を当て、遠い目をしていた。その横顔には、なぜか言いようのない切なさが漂っていた。
その日の夜。シュピーゲル邸のヘレナの自室。
窓から差し込む月明かりの中で、ヘレナはベッドに膝を抱えて座っていた。
昼間、白髪の少女、グリッチから聞いた「エラーラ」という名前が、頭から離れなかった。
(エラーラ……お姉ちゃん……)
頭の奥底で、錆びついた歯車が無理やり回されるような痛みが走る。
閉ざされていたはずの記憶の扉が、音を立ててこじ開けられていく。
鮮明に蘇るのは、今から十数年前の記憶。
まだ幼かった頃の、寒くて暗いスラム街の路地裏。飢えと寒さに震え、泣き叫ぶ自分。
『エル、助けて……寒いよ、怖いよ……』
頼れるのは、少し年上の「お姉ちゃん」だけだった。「エル」と呼ばれていたその少女は、ボロボロの服を纏いながらも、必死でヘレナの手を握りしめ、温めようとしてくれていた。
『フム……大丈夫だよ、ヘレナ。この私が絶対に、あなたを守るからねぇ』
だが、状況はあまりにも過酷だった。ある日、食べ物を探して外に出たエルは、二度と戻らなかったのだ。
戻れなかったのではない。
「戻ってこなかった」のだ。
大粒の涙が、ヘレナの頬を伝ってポタリと布団に落ちた。
記憶の断片が、繋がっていく。
スラムを出たエルは、その驚異的な天才的頭脳を見出され、やがてソフィア大学へと見出された。名を「エラーラ」と改め、王都の最高峰の富と名声を手に入れ、今は誰もが羨む大天才の魔導技師として君臨している。
(お姉ちゃんは……生きていたんだ……)
最初は、純粋な喜びだった。血の繋がったたった一人の肉親が、あんなにも素晴らしい、世界を救うような大天才になって生きていた。
だが、その喜潮は、次の瞬間、底なしの絶望と憎悪に近い悲しみに塗りつぶされた。
(じゃあ……どうして?)
震える声が、静かな夜の部屋に響く。
(どうして、私を迎えに来てくれなかったの……?)
エラーラほどの頭脳と富があれば、その気になればスラム街の片隅に放置された妹を探し出すことなど、簡単なはずだった。王都のどこにいたって、見つけ出す手段はいくらでもあったはずだ。
それなのに。
お姉ちゃんは、栄光の世界に登り詰めた一方で、スラムの暗闇に置き去りにされた自分のことなど、まるで最初からいなかったかのように、一度も振り返らなかった。
「うっ……ぐすっ……どうして……どうして私を置いていったの……?」
ヘレナの小さな肩が激しく震えた。
捨てられたという事実。忘れ去られたという恐怖。そして、自分が愛されていなかったという決定的な孤独感が、彼女の心の奥底に眠っていた「底知れぬ魔導の潜在能力」を刺激し、黒く、おぞましい濁流となって溢れ出し始めた。
部屋の空気が重く歪み、家具の端がミシミシと音を立てて軋む。
本人はまだ気づいていない。しかし、その内側で、世界を滅ぼす「魔女」の芽が、確実に覚醒しようとしていた。
同じ頃、シュピーゲル邸の反対側の廊下。
自分の部屋に向かって歩いていたレイジは、ふと足を止めた。
背筋がヒリつくような、尋常ではない魔力の圧迫感。レイジは瞬時に状況を察知し、ヘレナの部屋の方向を睨みつけた。
焦燥感がレイジの胸を突く。
だが、彼が直面している異常事態は、それだけではなかった。
レイジは自分の頭をガシガシとかきむしりながら、冷や汗を拭った。
「待て待て待て……!なんだ!?根本的なところで、俺の頭がバグを起こしかけてるぞ!」
レイジの脳裏にあったのは、新暦208年で叩き込まれた、そしてあの石から流れ込んできた「史実のデータ」である。
そこには明確にこう記されていた。
『新暦108年、世界を破滅へと導いた魔女ヘレナ・ヴェリタスの実姉であり、新王都の基礎を築いた偉大なる魔導技師、エラーラ・ヴェリタス。彼女のトレードマークは、美しく輝く【銀髪】であった』
だが、先ほどグリッチという少女が言った言葉を思い出せ。
『私のお姉ちゃんはね、王都のソフィア大学にいる、超絶天才魔導技師のエラーラだよ! いつも【黒髪】を揺らして、難しい顔して研究してるんだから!』
「……黒髪?」
レイジの瞳が、恐怖と疑念で大きく見開かれた。
歴史の教科書でも、未来の記録でも、エラーラは間違いなく「銀髪」だった。しかし、今この新暦105年において、エラーラの髪の色は「黒」なのだ。
「どういうことだ……?髪を染めたとか?いや、そんなレベルの話じゃねえ……!歴史の記録そのものが、最初から書き換わっている……?いや、これから変わるとでもいうのか……?」
レイジの脳内では、この矛盾を説明する合理的な答えが出なかった。




