地獄3:楽しいね!過去へ向かう男!
鼓膜を突き破らんばかりの風切り音の中、レイジ・シュピーゲルは絶叫していた。
時空跳躍魔法が彼を吐き出した場所。それは、ロマンチックな過去の街角でも、荘厳な神殿の中心でもなく、容赦のない「上空30メートル」であった。
「あの石ころ、座標設定がガバガバじゃあないかァァァ!せめて地上50センチのふかふかなベッドの上に出してくれってんだよォ!」
彼は空中でクルリと身を翻すと、風の魔力を足元に集中させ、落下速度をギリギリまで殺す。
「ゲハッ……!」
膝についた泥を払いながら、レイジは周囲を見渡した。
そこは、手入れの行き届いた美しい庭園だった。色とりどりの薔薇が咲き誇り、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
見覚えがあった。あるどころの騒ぎではない。
「……んんんんん?ここ、ウチの庭じゃあないか?でも……なんか狭いな。それに、あっちにあるはずの噴水も、別館の塔もない」
無理もない。彼がいた新暦208年のシュピーゲル邸は、幾度かの増改築を経て要塞のようになっていたが、ここは今から103年前の新暦105年。レイジの知る屋敷よりもひと回り小さかったのだ。
「なるほど、どうやら無事に新暦105年のシュピーゲル邸に着地できたってわけだ。ここから俺の、歴史大改竄の伝説が始まるってわけ……」
「あらあらぁ〜っ!?大丈夫ですかぁーっ!?」
レイジが一人でカッコよくポーズを決めようとしたその時、背後の茂みから、やたらと間延びした声が響いた。
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
年の頃は16歳くらい。健康的な褐色の肌に、白銀の髪。そして、年齢に似合わぬほど豊満な胸元を揺らしながら、彼女は慌てた様子でこちらへと駆け寄ってくる。
レイジの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
エルフの冷徹な頭脳が、石から得たヴィジョンと目の前の少女の特徴を瞬時に照合し、一つの強烈なアラートを鳴らす。
(……間違いない。褐色の肌、銀髪。こいつが、新暦108年にすべてを破壊した、歴史の転換点の『鍵』ッ!)
レイジの全身から冷や汗が噴き出した。
エルフの俺ですら感知できなかった恐るべき魔力が、その体内に圧縮されているに違いない。もしここで俺が不審な動きを見せれば、その瞬間にこの屋敷ごと消し飛ばされるかも……!
レイジは咄嗟に身構え、体内の魔力を臨戦態勢へと引き上げた。だが……
「空から落ちてくるなんて、痛かったですよねぇ。かわいそうにぃ……よしよしですよぉ」
「…………は?」
次の瞬間、レイジは拍子抜けするほど柔らかな感触に包み込まれていた。
ヘレナ・ヴェリタスは、臨戦態勢のレイジをまったく警戒する様子もなく、まるで迷子の子犬をあやすかのように、その豊かな胸元にレイジの頭をギュッと抱き寄せ、白銀の髪を優しく撫で始めたのだ。
「よしよぉ〜し。もう大丈夫ですよぉ。怪我はありませんかぁ?お腹、空いてませんかぁ?」
「な、なんだこの甘ったるい香りと、圧倒的な母性オーラはァァァ!?」
顔を真っ赤にしてジタバタと逃れようとするレイジだったが、ヘレナの腕は思いのほかホールド力が高かった。
(……待て待て待て。こいつから殺気も、破壊衝動も感じないぞ!?むしろ、日向ぼっこしてるネコみたいな平和なオーラしか出てねぇ!本当にこいつが、あの魔女になるってのか!?)
「あ、あのな、お嬢さん。俺は18歳で、君より年上……」
「まぁまぁ〜。遠慮しなくていいんですよぉ。泥んこになっちゃってぇ、今、綺麗にしてあげますからねぇ〜」
ヘレナはニコニコと笑いながらハンカチを取り出し、レイジの頬の汚れを丁寧に拭き取り始めた。
毒気を完全に抜かれたレイジは、されるがままになりながら、心の中で白旗を揚げた。
「怪我もないみたいですしぃ、気分転換にお散歩に行きましょうかぁ〜」
ヘレナに手を引かれるまま、レイジは屋敷の外、新暦105年の街へと足を踏み出した。
屋敷の門をくぐった瞬間、レイジの視界に飛び込んできた光景は、彼の想像をはるかに超えるものだった。
「…………すごいぜ」
思わず、素の感嘆が漏れた。
見上げれば、新暦208年では分厚い灰色の雲に覆われていた空が、抜けるような青空を広げている。太陽の光が建物の白い壁に反射し、キラキラと輝いていた。
街路樹は青々と茂り、通りには多くの人々が行き交い、誰もが明るい表情で笑い合っている。
(そういえば、この時代はまだ『新王都』じゃなくて、単に『王都』って呼ばれてるんだったな……)
レイジは歴史の授業を思い出した。後にヘレナの計画により魔導核爆弾が落とされてから、「新王都」と改名されるのだ。つまり、今はまだ「王都」である。
「ほらほらぁ、レイジさん、あっちで美味しそうなパンが焼けてますよぉ〜」
ヘレナが指差した先には、屋台のパン屋があった。香ばしい小麦の香りが、風に乗ってレイジの鼻腔をくすぐる。
「……パン。肉。野菜……」
レイジは呆然と呟いた。
彼がいた時代では食糧流通は破壊されており、配給されるのは「ジュギル」という、見ているだけで吐き気がするグロテスクな魔導生物のペーストだけだった。特権階級のエルフであるレイジでさえ、まともな自然食を手に入れるのには苦労していたのだ。
だが、ここにはある。
焼きたてのパンの隣では、ジュージューと肉が焼かれ、色鮮やかな野菜が籠に山盛りになっている。人々はそれを当たり前のように買い求め、歩きながら頬張っている。
「どうしましたぁ? 食べたいですかぁ? ふふっ、私が買ってあげますねぇ〜」
ヘレナは小銭入れを取り出すと、パンを二つ買ってレイジに手渡した。
「……サンキュー」
レイジはパンを受け取り、一口かじった。
外はサクッと、中はフワッとした食感。小麦の自然な甘みが口いっぱいに広がる。毒も、魔導的な不純物も一切混じっていない、本物の食べ物の味。
物質的に豊かであるだけではない。街を行き交う人々の、獣人もエルフも人間も関係なく、互いを尊重し合って暮らすその精神的な余裕。新暦208年の、あの地獄とは大違いだ。
レイジの胸の奥に、かつてないほどの熱い感情が湧き上がった。
冷徹な天才としての計算を超えた、明確な「怒り」と「決意」がレイジの目に宿った。
太陽が西の空に傾き、空が美しい茜色に染まる頃。
二人は、再びシュピーゲル邸の門をくぐっていた。
「はぁ〜、今日はとっても楽しかったですねぇ〜。レイジさん!……そういえばレイジさん、これからどうするんですかぁ? 見るからに遠くから来た旅人さんみたいですしぃ……」
「そうそう!……実は、ひょんなことから財布を落としちまってね。今日の寝床どころか、明日のパンを買う金もないありさまなのさ!」
レイジは大げさに両手を広げ、肩を落としてみせた。
「あらあらぁ!それは大変ですぅ!……あの、もしよかったら……」
「うちの空き部屋を使ってくださいな、お父様にお願いしてみますからぁ……ってやつだろう?そいつぁハッピーだぜ!」
計画通り。レイジは内心でガッツポーズをした。
ヘレナの側に潜り込むには、この屋敷に滞在するのが一番だ。何よりここは、未来の自分の家でもある。
「よし、それじゃあお言葉に甘えさせてもらうとするかな。実はな!俺の本名はレイジ・シュピ……」
「……ほう。ヘレナが身元も知れぬ殿方を屋敷に招き入れるとは、珍しいこともあるものだね」
その声が響いた瞬間。
レイジのエルフとしての「直感」が、全身の毛穴をブワッと開かせた。
背筋を凍るような悪寒が駆け抜ける。
振り返った先、屋敷の玄関の前に一人の男が立っていた。
年の頃は40代半ば。整った顔立ちに、知性を感じさせる銀縁の眼鏡の奥に穏やかな笑みを浮かべている。
だが、レイジの目には、その男が纏うオーラが、先ほどまでの平和な街の空気とは完全に異質なものとして映った。
本能が警鐘を鳴らしていた。この男に、不用意に本当の名を明かしてはいけない、と。
「お父様!おかえりなさいませぇ〜」
ヘレナは無邪気に男に駆け寄り、その腕に抱きついた。
「ただいま、ヘレナ。少し目を離した隙に、ずいぶんと賑やかなお友達を作ったようだね」
男はヘレナの頭を優しく撫でながら、レンズの奥の鋭い瞳をレイジに向けた。
その視線は、レイジの白銀の髪、着ている服の素材、そして微かに漏れ出る魔力の質まで、一瞬にして値踏みしているようだった。
「初めまして、若き旅人くん。私はこの屋敷の主、ファントム・シュピーゲルだ。娘のヘレナ・シュピーゲルが世話になったようだが……君の名を聞かせてもらってもいいかな?」
穏やかな口調。しかし、それは絶対に逃れられない尋問のようでもあった。
レイジは冷や汗を流しながらも、脳内で超高速の計算を走らせた。
(おそらく、ここで『シュピーゲル』と名乗れば、間違いなく、過去の改竄計画に致命的なバグが生じるに違いないぜ!)
レイジは口角を上げ、極めて自然な、そして不敵な笑みを作った。
「……そんな怖い顔しないでくれよ、お義父さん!俺はただの、通りすがりの旅人さ!」
「お義父さんとは随分と気が早いね。で、名前は?」
シュピーゲル博士の笑みが、ほんの数ミリだけ深くなる。
レイジは胸元に手を当て、芝居がかった優雅なお辞儀をした。
「俺の名前は、レイジ。そうね……レイジ・オルフェンだ。行く当てのない天涯孤独の身でね。ヘレナちゃんの女神のような優しさに救われた、しがない風来坊ってやつさ。以後、お見知りおきを、シュピーゲル博士」
レイジ・オルフェン。
とっさの偽名。だが、その響きは不思議とこの時代に馴染むように感じられた。
シュピーゲル博士は数秒間、無言でレイジの目を見つめ返し、やがて、ふっと息をつき、柔らかな笑みを取り戻した。
「『博士』?……フム……なるほどね?……レイジ・『オルフェン』くん、か。いいだろう。ヘレナが拾ってきた縁だ、しばらくはこの屋敷を好きに使いたまえ。我がシュピーゲル家は、客人には寛大でね!」




