地獄19:【この醜くも美しい世界】
イメージソング:heats
https://youtu.be/E7QuhzJqDp8?si=t6k1WvcXlLlsnqDh
新暦138年。
絶対的な虚無。
空間破壊爆弾「ニヒリスティック・ヴァイオレンス」の閃光が収束し、新王都を構成していたあらゆる物理的実体が消滅した。
アスナに残されたのは、時間も空間も存在しない、ただ、果てなく広がる純白の、死の概念空間だけであった。
光の粒子となって完全に消滅した義姉、ヘレナ。
彼女から託された、無限のエネルギーを胸に抱き、アスナは立ち尽くしていた。
「……お姉ちゃん。私……決めたよ」
アスナは、託された力を使って、すぐにでも世界を再生させるつもりだった。エラーラがいて、ヘレナがいて、誰もが笑い合える、簡単な、新しい世界を。
だが、アスナが魔力を解放しようとしたその瞬間。
純白の空間が、突如としてドス黒いヘドロのような色に染まり始めた。
空間の底が抜け、無数の怨嗟の叫びが渦を巻いて這い上がってくる。
アスナは悟った!
物理的な世界が消滅しても、人類が蓄積してきた「悪意」の残滓は、消え去ってはいなかったのだ!
これらは今、実体を失ったことで、純粋かつ極限の呪いの塊としてこの概念空間に凝縮されようとしている。
もし今、この状態で世界を再生させれば、新たな世界はまたしても、この無数の呪いによって瞬時に喰い破られ、無惨な地獄と化すだろう。
「……世界を創り直す前に、ここを、掃除しなきゃいけないんだね」
アスナの青い瞳に、覚悟の炎が宿る。
彼女の肉体が爆発的な青白い光に包まれ、天を衝くほどの巨大な質量を持った漆黒の『飛竜』へと完全覚醒を果たした。天空を覆い尽くすほどの巨大な翼が、概念の海を激しく打ち据える。
数億、数十億という人間の業の結晶を、たった一匹の飛竜が鏖殺し尽くす、血塗られた聖戦の幕開けであった。
現世のどこかで、かつて、こんな地獄があった。
多額の借金を背負った一人の父親。彼は、自らの保身と享楽のためだけに、妻と三人の幼い子供たちを睡眠薬で眠らせ、臓器売買の組織へと売り飛ばした。
父親は、家族の命と引き換えに得た大金で王都の一等地に豪邸を構え、高級なワインを傾けていた。そのまさに同じ時刻、地下の解体施設では、麻酔もなしに腹を裂かれた彼の子供たちが、泣き叫びながら、血を吐きながら絶命していった。父親は、その事実を知りながら、何一つ罪悪感を抱くことなく、ただ、ステーキの肉を咀嚼して笑っていた。
その極限の利己主義と肉親への裏切りが、概念空間で一つの怪物として顕現した。
『暴食』。
それは、数百メートルに及ぶ巨大な百足のような異形であった。何千本もの脚はすべて、金貨を握りしめた人間の腕。その頭部には顔がなく、代わりに、巨大な鋼鉄の顎が絶えず回転している。その顎は、自らの体内から無数の子供たちの顔をした肉塊を吐き出しては、それを再び泣き叫ぶままに噛み砕き、血の雨を降らせていた。
「……貴様のような下劣な魂が、新しい世界に混ざり込むことなど、私が絶対に許さない!」
飛竜アスナの咆哮が、事象地平を揺るがした。
彼女は、巨大な翼を畳み、弾丸のような速度で百足の怪物へと突進した。
怪物が無数の腕を伸ばし、アスナの漆黒の鱗を削り取る。凄まじい激痛。だが、飛竜は決して止まらない。
アスナは怪物の腹部に食らいつき、その強靭な顎で百足の装甲をバリバリと噛み砕いた。噴き出す黒い血液がアスナの顔面を焼き焦がすが、彼女は一切怯まない。
「燃え尽きろッ!」
至近距離からの、極大の青白い魔力ブレス!
太陽の核のごとき超高熱の炎が、怪物の体内へと直接流し込まれる!
断末魔の悲鳴を上げながら、血肉の暴食者は内側から爆発し、黒い灰となって消滅した!
しかし、休む間もなく、その灰の中から次なる数万の怪物が這い出してくる!
現世のどこかで、かつて、こんな地獄があった。
不治の奇病が蔓延する寒村。一人の若き女医が、寝食を忘れて研究を重ね、ついに特効薬を完成させた。しかし、彼女を妬んだ恩師の老医師が、密かに特効薬に猛毒を混入させたのだ。
薬を飲んだ村人たちは、血を吐きながら苦悶の内に死んでいった。老医師は泣き崩れる女医を指差し、「この女が村人を人体実験に使った悪魔だ!」と扇動した。
激怒した村人たちは、女医を広場に引きずり出し、生きたまま火炙りにした。女医が信頼していた親友すらも、保身のために真っ先に松明を投げ入れた。
火の粉の中で絶望に焼かれて死んだ女医。そして老医師は、女医の研究ノートを奪い、「自分が真の特効薬を開発した」と王都で発表し、莫大な富と名声、そして救国の英雄としての称号を手にし、天寿を全うした。
その嫉妬と欺瞞、そして群衆の狂気が凝縮された怪物が、アスナの前に立ち塞がった。
『嫉妬』。
それは、神々しい天使の羽を持つ巨大な水晶の彫像だった。しかし、その水晶の内部には、火炙りにされて炭化した無数の死体が詰め込まれ、蠢いている。怪物の顔には目も鼻もなく、ただ巨大な「舌」だけが垂れ下がり、そこから猛毒の嘘と絶望の呪詛を撒き散らしていた。
怪物の舌から放たれる光線が、アスナの肉体を貫いた。
それは物理的なダメージではなく、精神を直接破壊する「絶望の波」だった。
(どうして、こんな世界を救う必要があるの)
(エラーラも、ヘレナも、結局は傲慢なだけだったじゃないか)
(人間なんて、救う価値のないゴミじゃないか)
アスナの脳内に、どす黒い幻聴が響き渡る。
飛竜の巨大な肉体が、力なく概念の海に墜落しかける。漆黒の鱗が剥がれ落ち、青い瞳から絶望の血の涙が流れた。
怪物から放たれる無数の水晶の棘が、アスナの翼を貫き、胴体を串刺しにする。
「……あ、ぁぁ……」
意識が遠のく中。アスナの脳裏に、エラーラの顔が浮かんだ。
そして、自分を狂おしいほど憎み、それでも最後に自分を「妹」と呼び、すべてを託して散っていったヘレナの、あの不器用で温かい笑顔が浮かんだ。
『……私は、上から目線でお前を救おうとはしない。……この世界は、醜く、残酷で、救いようがない。でも……お前が信じるように、美しい場所でもあるのかもしれない』
「そうだ……!」
アスナの瞳に、再び強烈な光が宿る。
串刺しにされたままの状態で、飛竜は渾身の力で首をもたげた。
「人間は、嘘にまみれ、嫉妬に狂い、弱者を踏みにじる! ……でも!絶望の底で過ちを悔い、誰かを想って涙を流せるのも人間だ!私は、お前のような醜い嘘に、私の家族の真実を汚させはしない!」
アスナの体内から、暴走するほどの魔力が逆流し、突き刺さっていた水晶の棘をすべて粉砕した!
飛竜は空へ舞い上がり、自らの魔力で巨大な『雷の槍』を無数に創り出し、空を覆い尽くした!
「消え失せろ!」
無数の雷槍が、嫉妬の偽神の水晶の体を粉々に打ち砕いた!
飛び散る破片ごと、アスナのブレスがすべてを灼き尽くし、跡形もなく消滅させた!
さらに時は流れた。
果てしない殺戮。休むことのない痛み。数億という怪物を引き裂き、燃やし、砕き続けたアスナの肉体は、すでにボロボロだった。漆黒の鱗は剥がれ落ちて痛々しい赤身をさらし、かつて美しかった巨大な翼は、穴だらけの襤褸切れのようになっていた。
それでも、彼女は戦い続けた!
現世のどこかで、かつて、こんな地獄があった。
戦災孤児たちが、瓦礫の街で身を寄せ合い、互いを家族と呼んで必死に生きていた。一番年上の少年は、弟や妹たちを守るためならどんな苦労も厭わなかった。
ある日、彼らは人間狩りを楽しむ貴族の私兵に捕らえられた。貴族は、一番年上の少年に恐ろしいゲームを提案した。
「お前がこの剣で、弟と妹たちを全員殺せば、お前だけは裕福な養子として迎えてやろう。拒否すれば、全員を拷問した上で殺す」
少年は、弟妹たちを守るために抵抗したが、凄惨な拷問の末に心を完全に破壊された。
焦点の合わない虚ろな目のまま、少年は剣を握った。
「お兄ちゃん、痛いよ……でも、大好きだったよ……」
幼い妹の首を自らの手で刎ね飛ばした時、少年の魂は完全に死んだ。その後、少年は約束通り貴族の犬として引き取られ、何の感情も持たず、ただ主人のために罪のない人々を殺し続ける人形として生涯を終えた。
その「純真の喪失」と「無力な自己嫌悪」から生まれた、最強にして最悪の敵が、アスナの前に立ち塞がった。
『絶望』。
それは、プラチナの甲冑を纏った巨大な騎士であった。しかし、その甲冑の隙間からは、絶え間なく黒い血の涙が滝のように流れ落ちている。騎士の持つ大剣は、触れたものの「希望」や「魔力」という概念そのものを切断し、無に還す絶対的な力を持っていた。
『…………』
怪物は何も語らない。ただ、底知れぬ空虚な殺意だけが、空間を凍らせる。
絶望の冠が、ゆっくりと大剣を振り上げた。
その一振りから放たれた黒い斬撃が、空間そのものを切り裂きながらアスナに迫る。
「ガアアアアッ!」
アスナは残された左翼で必死に回避するが、斬撃の余波だけで、彼女の左脚が切り裂かれた。
血が噴き出し、激痛に飛竜の体が痙攣する。
立て続けに放たれる無数の黒い斬撃。アスナの体は切り刻まれ、誇り高き角はへし折られ、ついには概念の海へと力なく墜落した。
ドスッ、という鈍い音と共に、飛竜の巨体が沈む。
絶望の冠が、ゆっくりと歩み寄り、アスナの首筋に大剣の切っ先を突きつけた。
(……もう、限界だ……)
アスナの右目から、ツーッと血の涙が流れた。
たった一人で、世界中の悪意を相手に戦い続けてきた。
数億の怪物を殺した。
全身の骨が砕け、肉が裂け、魔力はとうの昔に枯渇している。
こんなにも人間は醜い。こんなにも世界は残酷だ。
子供を売り飛ばす親。恩人を火あぶりにする群衆。家族を殺させる悪魔。
そんな連中が作り上げたこの悪意の残滓の前に、私はたった一人で、どうしてここまでボロボロになって戦っているのだろう。
(……世界なんて……本当に、救う価値があるのかな……)
大剣が、無慈悲に振り下ろされようとした、その瞬間。
『——泣かないで、アスナ』
アスナの胸の奥底。
ヘレナから託された、あの黄金のエネルギーの核から、温かい声が響いた。
それは幻聴ではない!
ヘレナの愛の記憶そのものが、アスナの魂を内側から強く抱きしめたのだ!
(お姉ちゃん……!)
『お前は、私とは違う。同じ地獄を生きながら、絶望の底で互いを求め合い、手を取り合う尊さを信じられる、強い子だわ』
そうだ。
人間は、底抜けに愚かで、残酷で、救いようがない。
他者を裏切り、自分の欲望のために平気で命を踏みにじる。
だが。
あの狂気と復讐の化身であったヘレナでさえ、最後に私を愛し、すべてを託してくれたではないか。
エラーラは、己の過ちを悔い、涙を流してくれたではないか。
ニーアは、誰よりも他人のために笑い、そして私のために泣いてくれたではないか。
どんな泥水の中でも、どんな絶望の底にあっても!
人間の中には、必ず「誰かを愛し、手を取り合う」という、一筋の光が眠っている!
その光がある限り!
そのたった一つの尊い奇跡がある限り。
私は、この世界を、人間を、決して見捨てない!!
「オオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
瀕死の飛竜の体から、黄金色の光の柱が天を衝くように噴き上がった!
それは、ヘレナから託された宇宙創生のエネルギーと、アスナ自身の「人間讃歌」の魂が完全に融合し、暴走を始めた光だった!
振り下ろされた絶望の冠の大剣が、その黄金の光に触れた瞬間、ボロボロと音を立てて崩れ去る!
『……!?』
怪物が、たじろぐような動きを見せた。
「これが!私の!……命の!愛の力だァァァッ!」
アスナは、黄金の光の奔流となって怪物に突撃した!
絶望の冠が両手で防御の姿勢をとるが、無駄だった!
アスナの巨大な顎が、怪物の頭部を兜ごと噛み砕き、そのまま凄まじい推進力で概念の海の彼方へと押し込んでいく!
黄金の魔力が、怪物の体内へと直接注ぎ込まれ、その絶望の概念を根底から浄化し、破壊していく!
「終わりだ!すべての悪意よ!」
極大の、そして最強の『黄金のブレス』が至近距離で放たれた!
絶望の冠は、断末魔の悲鳴すら上げることなく、その絶対的な光の中に包まれ、完全に塵となって消滅した!
静寂。
果てしない戦いが、終わった。
数億の怪物を鏖殺し尽くし、概念空間に渦巻いていたすべての悪意の残滓は、アスナの黄金の炎によって完全に焼き尽くされた。
後に残されたのは、再び純白を取り戻した、美しく穏やかな空間だけだった。
アスナは、満身創痍の体で、空間の中心に静かに横たわっていた。
もはや、指一本動かす力も残っていない。孤独な戦いは、彼女の精神と肉体のすべてをすり減らしていた。
だが、彼女は、優しく、そして誇り高く光り輝いていた。
「……終わったよ。お姉ちゃん」
アスナは、静かに呟いた。
「この世界は、やっぱり酷いところだった。人間の悪意は、深くて、汚くて……心が、折れそうになったよ。でもね……見つけたよ。人間の強さを。誰かを想う心の温かさを。だから、私は選ぶよ。この醜くも美しい世界を、もう一度……やり直すことを」
アスナは、自らの胸の奥で静かに燃え続ける、ヘレナから託されたエネルギーの核を解放した。
それは、戦いの中でさらに純度を高め、究極の「救済の光」へと昇華されていた。
虚無の空間の奥底で、巨大な心臓の鼓動のような音が響いた。
「みんな、待ってて」
アスナの肉体が、黄金の、光の粒子となって、空間全体へと拡散していく。
それは、絶望を切り裂き、すべてを温かく包み込み、すべてを赦し、すべてを再生させる光。
破壊された事象が巻き戻るように、再構築されていく……
時に、新暦208年。
レイジ・シュピーゲルが過去へと飛び去った焦土の世界に。
たった一人で戦い抜き、血と泥にまみれながらも人間を信じ抜いた一匹の飛竜の、愛と自己犠牲の果てに放たれた『創世の光』が降り注いだ。
光はすべてを包み込み、時間を遡り、空間を書き換え、あの場所へと、すべての魂を優しく運び去っていく。
誰も知らない!
平和が、どれほどの苦しみと、どれほどの孤独な戦いの上に成り立っているのかを!
誰も知らない!
一人の無垢な竜の少女が、宇宙の悪意を、たった一人で背負い、そして打ち砕いたことを!
だが、それでいい!
彼女が守りたかったのは、名誉でも称賛でもない!
大好きな家族たちが!
そして子供たちが!
ただ、当たり前のように笑い合える、その、他愛のない日常だったのだから!
光が、すべての絶望を優しく包み込み、そして、閉じていく……




