地獄14:思想を歪ませる男!そして因果は巡る!
王都の片隅、うらぶれたゴルドファング劇団の裏路地。
白粉と涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、私、ヘレナ・シュピーゲルは、冷たい石畳の上に座り込んでいた。
舞台の上で滑稽に転げ回り、私の人生を滅茶苦茶にしたエラーラたちの無邪気な笑い声を聞きながら、私の心は完全に砕け散っていた。
もう、何もかもが終わったのだ。私はここで、ただ朽ち果てていくしかない。
そんな底無しの絶望の淵に沈んでいた私の前に、規則正しく洗練された足音が響いてきた。
「あらららら?なあんてこった。こりゃあまた酷い有様じゃあねーか」
その声に、私はゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、透き通るような白銀の髪を月光に輝かせ、知的で冷徹な切れ長の瞳を持つ、見目麗しいエルフの青年だった。
「レ、レイジ……?」
私が震える声で呟くと、彼は眉をひそめ、懐から何かを取り出した。
それは、黒く濁った小さな石。
私の欠片、魂の結晶だった。
レイジがその石に触れた瞬間。
空間が鳴動した。
石を通じて、次元を超えた『魂の共鳴』が起きたのだ。私がどれほどの地獄を味わってきたか。エラーラたちによって、何度世界が狂わされ、私がどれほどの屈辱と絶望を味わってきたか。そのすべての記憶と感情が、濁流となってレイジの脳裏へと流れ込んでいく。
「……なんてことだ!ヘレナ、お前……こんな、こんな理不尽な目に遭っていたって言うのかッ!」
レイジは、切れ長の瞳を見開き、頭を抱えて叫んだ。冷徹な天才であるはずの彼が、私の記憶の凄惨さに耐えきれず、顔を歪めている。
彼が、私を理解してくれた?
この狂った世界で、私だけが取り残されていたこの地獄で。レイジだけが、私の痛みをわかってくれたのか?
私は、立ち上がり、無我夢中でレイジの胸に飛び込んだ。
「あぁぁぁっ!レイジ!レイジぃぃぃっ!」
ボロボロの衣装のまま、私は子どものように泣きじゃくった。レイジは驚き、一瞬体を強張らせたが、やがてその震える手で、私の背中をそっと撫でてくれた。
「泣くこたぁねーぜ、ヘレナ。ま、お前の辛さは、この石を通じてイヤってほど伝わってきたぜ……。いやでも俺なんかすごくてさ!俺もただ指をくわえて見てたわけじゃあねーんだッ!」
レイジは、私の肩を抱きながら、静かに、しかし熱を帯びた声で語り始めた。
レイジもまた、暴走するエラーラたちや、理不尽に書き換えられる世界を止めるために、孤独な戦いを続けていたのだという。エラーラたちが表舞台で派手に「平和維持活動」を行っている裏で、彼は真に平和な世界を作るため、天才的な頭脳と冷徹な計算を駆使して、泥を被り続けていたのだ。
「聞いて驚け。あの『海底魔竜事件』を覚えてるか?」
レイジが語る真実は、私の想像を絶するものだった。
王都の沿岸部を突如として襲った、巨大な海底魔竜。エラーラとナラティブが圧倒的な力で討伐し、英雄として称えられたあの事件。
「あの魔竜、実は高濃度の魔力残滓が海底の生態系を狂わせて生み出したミュータントだったんじゃあねーか!俺はよォ、エラーラたちが気持ちよく魔竜をぶっ飛ばしてる裏で、魔竜の体液から漏れ出す猛毒が海流に乗って王都の水源を汚染するのを防ぐために、数式を死ぬほど書き換えて、超巨大な浄化結界を徹夜で張り続けてたんだぜ!俺の計算が1ミリでも狂ってたら、王都の人間は全員血ぃ吐いて死んでたんだッ!」
さらに彼は続ける。
「あの『王都消滅事件』の時もそうだぜ!狂った空間魔法使いが王都を異次元に丸ごと転送した事件!アリシアとナラティブが空間の裂け目に飛び込んで解決したことになってるがなァ……!その時、王都のインフラ、特に魔力炉の圧力が限界突破して大爆発寸前だったんだぜ!俺は魔力炉の中心部に潜り込んで、一人で炉心の冷却作業をやってたんだ!あの時は本当に死ぬかと思ったぜ!」
そして、極め付けは『空白の王女事件』だという。
「ある日突然、誰も知らない王女が現れて王位を簒奪しかけた事件だ。エラーラが論理で論破して王女を消し去ったが……その王女の正体は、王都民の『不安』が集合して生まれた思念体だったんだ。俺はよォ……その不安の根源を絶つために、裏社会の経済を完全に掌握し、たった一人でシステム化して回してたんだぜ。俺の冷徹な計算がなけりゃあ、第二、第三の王女が無限に湧き出してたんだッ!」
レイジは、息を切らしながら語り終えた。
表舞台では誰も知らない、レイジの孤独な戦い。彼もまた、この狂った世界で、必死に平和を守ろうと、傷だらけになりながら足掻いていたのだ。
「レイジ……あなた、そんな……」
私は、涙で視界を滲ませながら彼を見上げた。
「いやまあ?誰にも知られず、誰にも感謝されず。だがな!この世界を護るためには、誰かが裏で計算を立てなきゃならねーんだ。そ!……お前と同じようにな!ま、俺のほうがすげーかな!」
レイジの目からも、一筋の涙がこぼれ落ちた。
冷徹な天才エルフの、偽りない心の叫び。私は、彼の孤独に触れ、自分の身勝手な嫉妬を恥じた。
レイジも泣いた。
私も泣いた。
私たちは、路地裏の汚い石畳の上で、互いの傷を舐め合うように、涙を流し続けた。
「……もう、やめましょう」
私は、レイジの胸から顔を上げ、静かに微笑んだ。
憑き物が落ちたような気分だった。
復讐だの、支配だの、そんなものに執着しても、辛いだけだ。私が憎んでいた神々も、結局は不器用な連中なのだ。そしてレイジのように、見えないところで世界を支えてくれている人がいる。
私は、もう十分に報われた。
「レイジ……私、決めた。もう、エラーラやアスナを憎むのはやめる。この世界が、ただ純粋な『善意』で満たされるように……私の持てるすべての魔力を注いで、世界中を温かい光で包み込む魔法をかけるわ。私が、世界を治す。みんなが、少しでも……優しくなれるように」
それは、私の本心だった。
本当に、心からの本心だった。
最後に、私が世界に遺す、たった一つの善行。
エラーラにも、アスナにも、少しだけ優しくしたい。
仲直りしたい。
私は、両手を天に掲げ、魔力を練り上げ始めた。
淡い光が、私の手の中に集束していく。それは、かつてないほど純粋で、温かな魔力の光だった。
だが。
この世界は、どこまでも残酷にできているのだ。
私が天に両手を掲げ、魔力を練り上げる『構え』。
それは、暗黒魔法の構えと、全く同じだったのだ。
「……ッ!? ヘレナ、お前何を……!!」
レイジの瞳が、驚愕に見開かれた。
彼の冷徹な天才としての脳髄が、一瞬で最悪の計算を弾き出してしまった。
(こいつ和解したと見せかけて、俺の隙を突き、至近距離から暗黒魔法を撃つ気かッ!? つまりは、まだ世界を恨んでいるって言うのかッ!)
「やめろォォォッ!ヘレナァァァッ!復讐は何も生まないッ!」
レイジは、生き残るための防衛本能から、考えなしに魔法を放った。
「『最適化』ッ!」
レイジの放った魔法が、私が練り上げていた魔法に激突した。
その瞬間。
世界のシステムが、最悪のバグを引き起こした。
レイジの「最適化」は、私の魔法の構成要素を、私の『深層心理の最も強い願い』と強制的に結びつけ、最も効率的な形へと変換してしまう魔法だった。
私が今、表層意識で放とうとしていた魔法は「善意で世界を覆うこと」。
しかし、私の深層心理――つい数分前まで、血の涙を流して叫んでいた、最も強く、最も根深い魂の叫びは。
こんな世界は『すべて反転してしまえばいい』という、悲しき絶望の願いだった。
私の「反転」の願いと、「善意」の魔法が。レイジによって、完璧に「最適化」されてしまった。
王都全域を、異様な紫色の光が覆い尽くした。
「……え……?」
私は、自分の手から放たれた光を見て、呆然とした。
直後、路地裏の入り口で、信じられない光景が繰り広げられた。
荷物を落として困っている老婆を助けようと駆け寄った、いかにも優しき少年。
だが少年は、老婆の手を握った瞬間、その笑顔のまま、突如として老婆の顔面を拳で全力で殴り飛ばしたのだ。
「お婆ちゃん、大丈夫ですか! 」
少年は、心配そうな優しい言葉をかけながら、老婆をメッタ打ちにし始めた。
そこに駆けつけた警官たち。
「おい、やめなさい!」
警官たちは、少年を止めるために警棒を振り上げたが、その警棒は、止めるどころか少年の頭蓋骨を粉砕するほどの殺意を持って振り下ろされた。彼らもまた、正義感に満ちた真面目な顔のまま、少年をメッタ打ちにし始めた。
「な……なんだ、こりゃあ……ッ!?」
レイジが、頭を抱えて悲鳴を上げた。
そう。
私の、最後の善性が生み出したもの。
それは、人の心の中にある『善意』や『優しさ』を、完璧に『悪意』と『暴力』へと反転させて出力する、究極の「思想ウイルス」であった。
誰かを助けたいと思えば思うほど、その相手を殺したくなる。
誰かを愛せば愛するほど、その相手を徹底的に破壊したくなる。
純粋な善意が、そのまま純度百パーセントの殺意に変換される地獄。それが、最適化されて王都全域にパンデミックを起こしたのだ。
「あ……あぁ……っ……」
私は、自分の両手を見つめ、ガタガタと震え始めた。
私は!エラーラに、優しくしたかった!
私は!アスナと、仲直りしたかった!
最後に、少しだけ、いいことをしたかっただけなのに!
どうして!
どうして、いつもこうなるの!
私が、何を間違えたというの!
「おっと!悪い!ヘレナ、俺のせいだ!俺が勘違いして、お前の魔法を……ッ!」
レイジが、「久しぶりに再会した女の子に触るチャンス」とでも言いたげな、当事者意識のない、汚らしいボンボン野郎の顔で、私に手を伸ばそうとする!
汚い!
汚い汚い汚い汚い汚い!
私の心の中で、何かが、完全に壊れる音がした!
私を人間たらしめていた最後の糸が、断ち切られた!
「あはは……あははははははっ!!」
私は笑った!
狂ったように笑った!
そこまでして、世界が私を拒絶するなら!
私の善意すらも、この世界が汚物に変えてしまうというのなら!
だったら!
もう、誰も許さない!
何もかも、すべて、消し去ってやる!
私の全身から、底なしの漆黒の魔力が噴き上がった。
それは、かつて私が操っていたどんな暗黒魔法よりも深く、濃く、絶対的な『死』と『憎悪』の結晶だった。
何をどう構成したのか、どんな術式だったのか、もはや私自身にも覚えていない。
ただ、目の前にいる、私の最後の希望を打ち砕いた、このクサレエルフの青年に向けて!
全ての因果を押し付けて、ブチ殺してやる!
「レイジィィィィィッ!!!!貴様あああああああッ!!!!」
私は、喉が裂けるほどの絶叫と共に、その巨大な暗黒の塊を解き放った。
「死ねえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!!!!」
漆黒の極光が、レイジを、すべてを飲み込んだ。
圧倒的な破壊のエネルギーが路地裏を吹き飛ばし、空間そのものを削り取りながら、レイジの体を彼方へと弾き飛ばしていく。
レイジの姿は、漆黒の光に飲まれたまま、王都の空の果てへと墜落していった。
私は、焦土と化した路地裏の中心で、一人立ち尽くしていた。
周囲からは、思想ウイルスに感染し、善意を名分にして殺し合う人々の狂った悲鳴と怒号が響き渡っている。
私は、空を見上げた。
涙は、もう枯れていた。
もう、ここには何もない。私の中にも、何もない。
ただ、終わりのない狂気が、いつまでも、いつまでも私をあざ笑うように広がっているだけだった……




