地獄12:ナラティブ・ヴェリタス編要約
私は、この世界の理を完全に理解していると自負していた。
あの、エラーラ・ヴェリタスという巨大な『規格外のバグ』を除いては。
だが、そのエラーラが、私の想像力という概念そのものを粉砕する、異常極まりない行動に出たのだ。
彼女は、突如として『未来』へ行った。
……もう一度言おう。未来へ行ったのだ。
空間を転移するのではない。時間軸の跳躍を、彼女は散歩にでも行くような感覚で実行し、そうして……帰ってきた。
それだけではない。帰ってきた彼女の背後には、見知らぬ少女が立っていた。
名を、『ナラティブ』といった。
エラーラは、素性も知れぬその少女を自らの養子にしたと宣言した。
意味が、わからなかった。
なぜ未来へ行く必要がある?
なぜ、その少女をお持ち帰りする必要がある?
その少女、ナラティブから感じる魔力は『皆無』だった。王都の最底辺を這いずるネズミ以下の魔力しか持っていない。ただ、その眼差しだけが、底知れぬ漆黒の虚無を湛え、一切の感情を排した暴力の結晶のように不気味に静まり返っていた。
私の知能は、その行動の『意味』を探ろうとした。未来の知識?特殊な血脈?それとも、何かの儀式の生贄か?
だが、どれほど計算式を組み替えても、答えは出なかった。すべての情報が、論理の枠組みから滑り落ちていく。
「……考えるのは、やめましょう」
私は、鏡の前で自らに言い聞かせた。
エラーラは狂人なのだ。狂人の行動に、合理的な理由など存在しない。ただの気まぐれで、未来から粗大ゴミを拾ってきただけだ。そうに違いない。
そうでなければ。もし、あそこに私の想像を絶する意味があるのだとしたら。
私は、自分の知性そのものを否定しなければならなくなる。
私は無意識のうちに、理解することを放棄した。それが、私がこの時点で犯した、そして世界そのものが直面することになる『絶望の始まり』であった。
それからの半年間は、まるで熱病にうなされているかのような、目まぐるしく、そして吐き気を催すような日々だった。
最強の魔導師エラーラと、魔力ゼロにして最強の武闘派探偵となったナラティブ。
この二人が王都の裏社会に介入し始めてから、目に見えて犯罪件数は激減していった。彼女たちの圧倒的な暴力と、常軌を逸した解決手法が、犯罪者たちに恐怖を植え付けたからだ。
だが。
数が減った代わりに、残された犯罪の『凶悪さ』、いや、『異常さ』は、日を追うごとに指数関数的に増大していったのである!
もはや、怨恨や金銭目的といった「人間らしい犯罪」は姿を消した。
残ったのは、前提となる因果律が完全に壊れた、純粋な狂気の奔流であった。
ある日の出来事を言おう。
ある青年が、実家のダイニングで珈琲を飲んでいた。その際、通りすがりの母親に、ほんの少し肩を小突かれた。
ただそれだけのことだ。日常の、些細なノイズ。普通なら、舌打ちをして終わる程度の出来事だ。
だが、青年は激怒した。
なぜか?
青年の狂った論理回路は、瞬時にこう弾き出した。
『母の機嫌が悪いのは、最近買った包丁の切れ味が悪かったからだ。つまり、不良品を売った金物屋が悪い』
ここまでは、まだ百歩譲って理解できる。極度の被害妄想に憑かれたマザコン野郎なら、その程度の論理の飛躍は起こし得る。
異常なのは、その先だ。
青年は、空間魔法を駆使し、元凶であると認定した金物屋を、店内にいた店主や客ごと、空間の座標ごと『海の底』へと沈めて溺死させたのである。
さらに青年の思考は、おぞましい博愛精神へと飛躍した。
『ああ、なんてことだよ。この王都には、まだ、金物屋が存在している。他の人も、私のように金物屋のせいで不機嫌になった母親に小突かれたら可哀想だ。よし、他の人にも幸せのお裾分けしてあげよう』
彼は、真心を込めて、一切の悪意を持たない純度百パーセントの善意と優しさをもって、王都全域に存在するすべての金物屋を、次々と空間ごと切り取り、真っ暗な深海へと沈めてさしあげたのだ。
数千人の命が、たった一人の青年の「母親に小突かれたから」という理由で、水圧に潰されて消えた。
私は、その記事を読みながら、胃液が込み上げてくるのを感じた。
動機と結果のスケールが、乖離している。
これは……犯罪ではない!
天災だ!
地震、雷、火事、大山嵐!
オヤジだ!
人間の形をした、意味を持たない暴力の自然現象だ!
私がこれまで操ってきた「欲望」や「恐怖」といった感情のアルゴリズムが、ついに、とうとう、一切通用しない世界になってしまったのだ!
私がどれだけ完璧な罠を仕掛けても、「今日は靴紐がほどけたから、もちろん、あなたを世界ごと消滅させてあげますね」と微笑みながら殺してくるような連中が、王都に次々と溢れ出し始めていたのだ!
だが、真の恐怖は、犯罪者側にあるのではなかった……
このような、完全に狂った事件を解決する側に回っている、あの二人の存在こそが、世界を終わらせる、真の病魔であった。
王都全域の金物屋が海に沈んだ事件。
それを解決したのは、もちろん、エラーラとナラティブだった。
その捜査手法は、私の残されたわずかな正気を根こそぎ刈り取るものだった。
金物屋が消滅した跡地には、虚無の空間である『暗黒座標』だけがポッカリと口を開けていた。
魔力を一切持たないナラティブは、その事件現場に到着するなり、何の躊躇いもなく、生身のままその暗黒座標へと飛び込んだのだ。
彼女の肉体は、空間の裂け目を通り抜け、直接、数千メートル下の深海へと投げ出された。
当然、ナラティブ肉体は、想像を絶する水圧によって瞬時にペシャンコに潰れ、眼球が飛び出し、内臓が弾け飛び、凄惨な圧死を遂げた。
だが。
彼女は死のその刹那、深海に沈められた金物屋の座標データと、犯人が残した魔力の残穢を正確に掴み取り、それをエラーラへと送信していたのである。
地上でそのデータを受け取ったエラーラは、欠伸をしながら指を鳴らした。
彼女の規格外の魔力が王都全域を覆い、深海に沈められていたすべての金物屋を、圧死した人々の命ごと、瞬時に空間の元の位置へと『蘇生』させたのだ。
ここからが、私の脳髄を本格的に破壊した光景である。
深海で完全に肉塊と化し、死んだはずのナラティブが。
エラーラが金物屋に向けて放った蘇生魔法の残滓、大気中に漂っていた僅かな魔力の余波を、死にながら、まるで道端に落ちているパン屑を拾って食べるかのように勝手に『つまみ食い』し、ケロリとした顔で蘇生したのだ。
「……は……?」
私はあの日、監視用の水晶玉の前で、間抜けな声を漏らした。
他者への蘇生魔法を、死体が自らつまみ食いして生き返る? そんな理論は、理屈は、宇宙のどこにも存在しない。魔導法則への冒涜だ。
さらに狂気は続く。
蘇生したナラティブは、服についた海水を払いながら、現場の近くで呆然と立ち尽くしていた一人の男にツカツカと歩み寄った。
その男は、どう見てもただの野次馬だった。魔力も低く、アリバイもあり、動機もない。捜査線上にすら上がらない『この世界で一番怪しくない男』だった。
ナラティブは、無言のまま、その男の顔面に拳を叩き込んだ。
鼻骨が砕ける音。男が悲鳴を上げる間もなく、ナラティブの拳は機関銃のように男の全身を打ち据え、骨を砕き、肉を千切り、内臓を破裂寸前まで痛めつけた。
一切の尋問も、証拠の提示もない。ただの純粋なリンチである。
そして、血だるまになった男は、泣き叫びながらこう言ったのだ。
『ご、ごめんなさい……!僕がやりました……! 母に小突かれたのがムカついて、金物屋を全部海に沈めましたぁぁぁッ!』
本当に、その一番怪しくない男が、犯人だったのだ。
証拠も、論理も、因果関係も、あの少女の前では何の意味も持たない。彼女が、野生の勘に従って、たまたま殴り飛ばした相手が、たまたま犯人だった。
すべてが狂っている!
狂い果てている!
私は、水晶玉を抱えたまま、ガタガタと震え始めた。
寒いわけではない。熱があるわけでもない。
私の内側にあった『知という絶対的な防壁』が、音を立てて崩れ落ちていく恐怖の震えであった!
異常な事件!
異常な捜査!
狂気と狂気の果てしないイタチごっこは、ついに現実を、狂気のその先へと押し上げた。
それまでにも常軌を逸した事件は多々あった。しかし、次に現れた怪物は、これまでとは次元が違った。
『アウクトル』。
そう名乗る連続殺人鬼が、王都に降臨したのである。
彼は、直接手を下さない。「リベラルの呪い」と呼ばれる、人類が未だかつて観測したことのない最新型の呪いを用いて、人々の『立場』や『関係性』という概念そのものを強制的に書き換えるのだ。
ある日、王都の大通りを歩いていた、罪もない善良なパン屋の青年。
アウクトルが彼を指差し、呪いをかけた瞬間。周囲の空間の認識が歪んだ。
居合わせた警官たちの目には、そのパン屋の青年が『血に飢えた極悪非道の殺人鬼』にしか見えなくなった。警官たちは正義感に駆られ、悲鳴を上げて逃げ惑う青年を、問答無用で蜂の巣にして射殺した。
またある時は、広場で花を売っていた心優しい女性。
アウクトルが呪いをかけると、周囲にいた老人たちの目に、彼女が『全財産を奪いに来た伝説の大泥棒』として映るようになった。
正義感と恐怖に駆られた老婆たちは、手にした杖や石で、泣き叫ぶ女性を囲んで撲殺したのである。
間接的な殺戮!
認識の改変による、正義と悪の強制的な反転!
未知の脅威であった。
これはもう、魔法ですらない。
魔法とは、単なる物理法則と心理学を用いた科学技術である。
つまり、アウクトルは、真の、文字通りの「魔法使い」だった。
アウクトルは、人間が社会を構築する上で絶対の前提となる「意味」の破壊を始めたのだ。
私は……恥ずかしながら、これまでずっと、自分のことを冷酷なサイコパスだと思っていた。
他人の命を数字のように数え、苦しむ顔を見てクククと笑いながらワインを傾ける。そんな自分の計算高い残虐性を……密かに『かっこいい』と思い……酔いしれていた。
だが!
真の狂気を前にして、私のその薄っぺらい自尊心は、粉々に吹き飛んだ。
私は、ルールの範囲内で、自己保身をしながら、弱い相手の盤面の駒をいじめて喜んでいたに過ぎない。
アウクトルは、盤面そのものを素手で叩き割り、そのまま自分の腕も叩き割り、概念自体を捻り潰して笑っているのだ。
今の私の心にあるのは、怒りでも嫉妬でもない。
たった一つの感情。
『恐怖』である。
未知なるもの。
自分の理解が決して及ばない、絶対的な他者に対する、圧倒的で生理的な恐れ。
私は、自分の手が震えているのを見つめながら、自分がただの「少し賢いだけの小悪党」に過ぎなかったことを、絶望と共に悟った。
私の狂気は、単なるファッションにすぎなかった……
そして、その恐怖は、さらなる究極の恐怖によって上書きされることになる。
アウクトルの暴走を止めるべく現れたのは、やはりあの少女、ナラティブ・ヴェリタスであった。
王都上空。
アウクトルは重力すらも無視し、悠然と空中に佇んでいた。
彼はナラティブを見下ろし、その「リベラルの呪い」をかけようとした。彼女を極悪人に仕立て上げ、民衆に殺させようとしたのだろう。
だが。
魔力のかけらもないナラティブは。
ただ、地面を強く蹴って『ジャンプ』した。
それだけだ。魔法でも飛翔術でもない。ただの物理的な跳躍。
しかし、その脚力は空間を蹴り破り、重力の法則を完全に無視して、上空数十メートルのアウクトルの眼前にまで到達した。
アウクトルが驚愕に目を見開いた瞬間。
ナラティブの拳が、空中で彼の顔面を捉えた。
凄惨な音!
アウクトルの顔面の半分が陥没した!
脳漿と眼球が夜空に飛び散った!
空中での、一方的な殴殺!
ナラティブは落下しながらも、アウクトルの体を足場にして何度も拳を振り下ろし、地上に激突するまでに、その肉体をただの赤い挽肉に変えてしまった……
アウクトルは死んだ。
完全に、絶命した。
だが!
恐怖の頂点はここからだった!
地上に降り立ったナラティブは、挽肉になったアウクトルを見下ろし、何かを呟いた。
すると、どういうわけか……ただの物理的な暴力しか使えないはずの彼女が、アウクトルを『なんか……もう一度生き返らせた』……のだ。
千切れた肉が繋がり、アウクトルが息を吹き返し、悲鳴を上げた瞬間。
「……王都条例第68条、『仇討ち』」
ナラティブは、まるで役所の手続きでも読み上げるような平坦な声でそう宣言し……生き返ったばかりのアウクトルの頭部を、今度は自らの足で、スイカのように踏み潰して惨殺したのである!
「ヒッ……ァ……アァァァッ!!!」
私は、水晶玉から目を背け、床に這いつくばって絶叫した。
狂っている。異常だ。
殺して、生き返らせて、条例という大義名分の元に、もう一度殺す。
ナラティブは、人間ではない。この世のものではない。正義の探偵などという皮を被った、純粋な『破滅の概念』そのものだ。
私は、生まれて初めて……『自分がいま、生きていること』が、心底怖いと、悲しいと、悔しいとさえ、思った!
ああ!思ったさ!
ダサいかい?いや、分かってくれよ!
死んでしまえば、すべては無になる!
もう死ぬことはない!
痛みも恐怖もない!
だが、生きている限り……
いつ、どの瞬間、あのナラティブというバグに目をつけられ、理由もなく殴り殺され、生き返らされ、そしてまた殺されるか、わかったものではないのだ!
明日、私が珈琲を飲んでいる時に。明日、私が息をした瞬間に。
彼女が申し訳なさそうな顔をしながら、仕方なさそうに、私の脳髄を素手で「引き摺り出してくれる」かもしれない!
論理が通じない相手に、防衛策など存在しない。
生存本能そのものが、生を拒絶し、死を懇願する。
私は、自分の爪を腕に突き立て、血が出るまで引き裂きながら、ただ恐怖に震え続けた。
そして。
私の精神を崩壊させるような、この狂気に満ちた世界は。
ついに、私にトドメを刺す、究極の『不条理な結末』を迎えることになる。
あれほど絶対的な力と暴力を見せつけ、因果律すら捻じ曲げていた最強のエラーラとナラティブ。
彼女たちが、ある日突然、姿を消した。
そして発見されたのは。
私がかつてお世話になっていた、ファントム・シュピーゲル博士のしがない部下、『レジュダンボ』なる男の薄暗い地下室であった。
いつの間にか。本当にいつの間にか。
最強の二人は、その雑魚同然のレジュダンボに捕らえられており。
椅子に縛り付けられた状態で、頭蓋骨を開かれ、何故かレジュダンボに『脳を食われていた』のである。
……どういうことだ?
最強の二人が、なぜあんな乞食野郎に捕まった? なぜ抵抗しない? なぜ脳を食われている?
私の頭脳は、必死に答えを探した。罠か? 幻術か? 新たな呪いか?
そこに、さらにシュピーゲル博士が現れた。
彼は、エラーラたちを助けるために来たのではない。
彼はただ、血まみれのレジュダンボを見て、こう言ったのだ。
『お前は最近、脳を食べ過ぎている』
意味がわからない。栄養指導か?
そして博士は、彼が乗ってきた巨大な蒸気自動車で、そのままレジュダンボを無残に引き殺した。
結果として、エラーラとナラティブは助け出された。
だが、狂気はまだ終わらない。
助け出され、脳を少し齧られた状態で呆然としている二人の前に。
シュピーゲル邸で長年虐待を受け、心を壊していた少女、アスナ・シュピーゲルが現れた。
彼女は、エラーラとナラティブを見て。
『私より、あなたたちの方が幸せそう……嫉妬するわ』
と呟き。
脳を食われて瀕死の二人に嫉妬するという、完全に破綻した感情のまま。
屋敷の屋上から、自らコンクリートの地面へと飛び降りたのだ。
しかし、そこに死体は『無かった』……
まるで、未来から来た大賢者が、その座標の存在を抉り取っていったかのように。
「…………な、んだ、これは?」
私は、自室の壁に頭を打ち付けながら、虚ろな目で宙を睨みつけた。
「いや、なんなんだ、これはぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
私の巨大な脳髄が、悲鳴を上げていた。
因果関係がない。AだからBが起きる、という世界の前提が、すべて死に絶えている。
最強が最弱に食われ、救済が暴力になり、嫉妬が自死に繋がる。
人は、本当に悩むと、震えが止まらなくなる。
恐怖なのだ!
『わからない』ということが、究極の恐怖なのだ!
知的好奇心などというものは……そんなものは、安全地帯から怠惰に世界を観察している時にだけ成立する、お利口さんたちの平和なお遊びに過ぎない!
それ以上知ったら。深淵の奥底に触れてしまったら。
確実に、こちらの精神が引き裂かれ、悲惨な目に遭うとわかっている。
でも、死にたくないから、生き残るために、そのルールのない世界を『知ろう』としてしまう。
だが、関わった瞬間に、意味の消失という巨大な闇に飲み込まれ、間違いなくこちらも殺される。
これが、恐怖である!
人類が、太古の昔から、理由もなく『暗闇』を恐れてきた、本当の理由である!
暗闇の中には、論理がない!
意味がない!
ただ、自分が理不尽に食い殺されるという絶対的な事実だけが口を開けて待っているのだ!
「あ……あぁ……うぅぅぅぅ……っ」
稀代の悪女、ヘレナ・シュピーゲル。
世界を裏から支配しようと企んだ私の野望も、プライドも、知性も。
すべては、この意味を持たない巨大な不条理の前に消え去った。
王都の冷たい雨が降る、薄汚れた街角の掃き溜め。
生ゴミと汚水が混ざり合う悪臭の中で。
私は、高級なドレスを泥まみれにしながら、膝を抱えてうずくまっていた。
「だれか、たすけてよぉ……こわいよぉ……っ」
私はもう、考えることを完全にやめていた。
ただ、ひたすらに。
永遠に明けることのない真の暗闇の底で、迷子になった子供のように、歯の根を鳴らして泣きじゃくっていることしか、私には……残されていなかったのである!




