表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/34

豚の食卓

大聖堂の奥深く、「真理の間」。

そこは、香炉から立ち昇る白檀の香りと、神への冒涜的なまでの装飾に満ちていた。

正面の豪奢な椅子に深く腰掛けているのは、丸々と太り、宝石を散りばめた法衣を纏った枢機卿、マクシミリアン。

「――ほう。これが、四年も野に放たれていた『鍵』か」

マクシミリアンの濁った瞳が、私を頭の先から爪先まで舐めるように動く。

それは信仰者の眼差しではない。競り市で馬の歯並びを確認する商人のそれだ。

「……随分と薄汚れたものだな。エドモン・ド・ヴァランタン、運搬中に不備はなかったか? 聖女の魔力核にヒビでも入っていれば、儀式の効率が落ちる」

私の隣で直立不動の姿勢をとるエドモンの拳が、鎧の中で僅かに軋んだのを私は感じた。

「……外傷はありません。魔力の反応も、規定値を維持しております」

「よろしい。……おい、こっちへ来い。その蜂蜜色の髪を近くで見せろ」

マクシミリアンが太った指を動かす。エドモンに背中を押され、私は跪くこともせず、枢機卿の目の前まで歩み寄った。

「あら、ごめんなさいね、枢機卿。あいにくメルセールの安酒の臭いが染み付いていて、高貴な鼻を曲げさせてしまうかしら」

「口を慎め、娘。貴女は今や一人の女ではない。この国を動かすための『聖なる触媒』なのだ」

枢機卿は私の顎を、肉厚な指で強引に持ち上げた。

彼の視線は私の瞳ではなく、その奥にある魔力の波動だけを「検品」している。

「ふむ……鮮度は悪くない。この生命力を祭壇に固定すれば、あと五十回は冬を越せよう。……エドモン。儀式までの二日間、この装置を『沈黙の銀』で徹底的に縛り上げろ。余計な感情が魔力を不純にする。魂など、器には不要なものだ」

「……」

エドモンは答えない。ただ、彼の放つ殺気が、冷たい大気となって部屋に満ちていく。

「さあ、お帰り。二日後、貴女はこの国のいしずえとして永遠を得る。……誇りに思うがいい、アンジェリカ。貴女の死は、我々の贅沢な明日を保証するのだから」

枢機卿は、食べ残しの果実でも片付けるかのように手を振った。


回廊へ戻ると、私は耐えきれず壁に背を預けて立ち止まった。

手首の銀枷が、重く、冷たく、骨を削るように響く。

鉛のような魔力抑制の枷が、手首の皮膚を赤く擦りむいている。

「……あいつらの目、見た? エドモン」

私は震える手で、わざとらしく口角を上げ、エッジの効いた笑みを作った。

「私を人間だと思っていないわ。あれは、冬を越すために備蓄した穀物の量を確認する、農夫の目よ。……三日後の夜、私がどんな顔をして消えるかなんて、誰も興味がない。あんたもあんな風に、私の『賞味期限』を数えてるの?」

エドモンは私の隣で、ただ一点、前方の闇を見つめていた。

だが、彼が私の手首の傷――沈黙の銀が刻んだ痛々しい痣――に目を落としたのを、私は見逃さなかった。

「……黙れ。傷を増やすなと言ったはずだ」

彼は乱暴に私の腕を掴むと、隠し持っていた包帯を取り出し、無造作に私の手首に巻き始めた。

いたわりなどではない。ただ、商品に傷をつけないための補修作業。

「あら、優しいこと。でも無駄よ。三日後には、この腕も、髪も、あんたがさっきから必死に無視している私の『声』も、全部この国を動かすための塵になるんだから」

私は巻きかけの包帯を握りしめ、彼の顔を覗き込んだ。

「ねえ、教えてよ、堅物騎士様。あんた、一度でも私に『死ぬな』って言いたいと思ったことはないの? 任務じゃなくて、あんた自身の汚い本音でさ」

エドモンの指先が、一瞬だけ止まる。

至近距離で交差する、氷のような鋼の瞳と、毒を孕んだ蜂蜜色の眼差し。

「……私の本音など、この国には不要だ」

「逃げたわね。臆病者」

私は彼の胸当てを突き放した。


部屋に戻ると、夜のとばりが全てを飲み込んでいた。

エドモンはいつものように扉の前に立つ。

だが、その背中は、メルセールで私を見つけた時よりも、どこか重苦しく見えた。

私は寝台に腰を下ろし、蜂蜜色の髪を指で弄ぶ。

「……四年前、私が逃げた夜も、こんな月が出ていたわ。……誰も信じてくれないけれど、私はあの時、この国が大好きだったのよ。だから、私が消えれば全てが救われるっていう神託を、信じたかった」

独り言のように、私は言葉を落とす。

エドモンが僅かに肩を動かした。

「……だが、あんたは逃げた」

「ええ。逃げたわ。……自分が犠牲になるのが怖かったからじゃない。私が犠牲になった後、あの枢機卿たちや、広場で老いさらばえた男を蹴り飛ばしている連中が、『聖女様のおかげで助かった。さあ、次は誰を搾取しようか』って笑いながら生き続ける未来が、耐えられなかったの」

私は膝を抱え、低く笑った。

「一人の死の上に成り立つ平和なんて、ただの巨大な共食いでしょ? ……そんな世界、一度壊して、更地にした方がずっとマシだと思ったのよ。……私の言ってること、理解できる? 正義の味方さん」

エドモンは長い沈黙の後、一度だけ振り返った。

月の光に照らされた彼の顔は、相変わらず冷徹だったが、その唇は微かに震えていた。

「……理解はできん。だが……貴女がただの『装置』ではないことだけは、認めざるを得ないようだ」

「……っ」

予想外の言葉に、喉の奥が熱くなる。

皮肉で塗り固めた私の心が、ほんの一瞬、その「一言」で剥がれ落ちそうになる。

「……馬鹿じゃないの。今更そんなこと言っても、あんたは私を祭壇へ運ぶんでしょう? ……本当に、救いようのない男ね」

私は顔を伏せ、無理やり毒を絞り出した。

だが、胸の奥で、今まで感じたことのない、不吉なほど熱い「何か」が疼き始めていた。

あと二日。

私たちの終わりの始まりまで、残された時間は砂時計の底に溜まっていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ