不実の安息
聖都の夜は、熱病に浮かされたような静寂に包まれている。
窓の外、遥か下方からは、儀式の準備を進める石工たちの槌音が、地響きのように微かに届いていた。規則正しく、冷酷に響くその音は、まるで私の棺に打ち込まれる釘の音だ。
私は寝台の上で、エドモンに巻かれた包帯の端を指でなぞっていた。
「商品管理」にしては丁寧すぎる、彼の指の温度が布越しに残っているような気がして、私は忌々しくそれを引き剥がそうとした。けれど、魔力を封じられた指先は思うように動かず、ただ白布を虚しくなぞるだけだ。
「……ねえ、エドモン。あんた、さっき枢機卿の前で殺気を漏らしていたわね」
部屋の隅、月の光も届かない闇の中に佇む彼に、私はわざと明るい、エッジの効いた声を投げた。
「意外だわ。冷徹な『王の猟犬』様が、あんな太った飼い主に牙を剥こうとするなんて。……あの豚が私の髪に触れたのが、そんなに気に食わなかった? それとも、自分の獲物を横取りされるのが嫌だったのかしら」
「……。無意味な憶測はやめろ。私は、不潔な指で聖なる媒介に触れる行為が、儀式の精度を下げることを危惧しただけだ」
闇の中から返ってきたのは、相変わらずの、感情を排した硬質な声。けれど、その声は以前よりも僅かに低く、重い。
「相変わらず、可愛げのない回答。でも、その割には包帯を巻く手が震えていたみたいだけど? 私の肌がそんなに冷たかった? それとも、死に行く女の体温に当てられたのかしら」
私は寝台から滑り降り、重い鎖を鳴らして彼に歩み寄った。
魔力を封じられた反動で、一歩ごとに肺が灼けるように熱い。視界の端がチカチカと明滅する。それでも私は、彼を嘲笑い、その平穏を完膚なきまでにぶち壊すためだけに、その至近距離まで詰め寄った。
「あんた、本当は気づいているんでしょう? 私を祭壇に捧げても、誰も救われないことに。……あんたが命懸けで守ろうとしているのは、あの枢機卿のブヨブヨした腹を満たすための『時間』でしかない。私が一滴ずつ溶けて、この国の歯車に変わった後、あいつらはまた贅沢な食事をして、新しい搾取の対象を探すだけよ」
「……」
「ねえ、エドモン。今ならまだ間に合うわよ」
私は、彼の重厚な鎧の胸当てに、両手をそっと置いた。鉄の冷たさが、熱を持った私の指先に突き刺さる。
「私の首を、今すぐここで絞め落として。このクソッタレな儀式を、あんたの手で台無しにするの。それが、あんたがこの私に与えられる、唯一の『騎士の慈悲』ってものよ」
私は彼の大きな手に、自分の細い喉を無理やり押し当てた。
彼の手は、鎧越しでも分かるほど強張っている。指先が微かに震え、鋼が擦れ合う小さな音を立てた。
「……殺せ。道具が壊れれば、計画は頓挫するわ。あんたの手を、私の返り血で汚してよ。……英雄として私を運ぶより、人殺しとして私と一緒に地獄へ落ちる方が、よほどあんたにお似合いだわ。ねえ、やってよ、エドモン!」
「……黙れと言っている!」
エドモンの声が、今までで一番激しく、獣の唸りのように響いた。
彼は私の喉を掴む代わりに、私の両肩を掴んで、そのまま石壁へと乱暴に押し込んだ。
「あぐっ……!」
背中に冷たい、硬い衝撃。
至近距離で見下ろす彼の瞳は、もはや無機質な鋼ではなかった。そこには、怒りとも、絶望とも、あるいはもっと別の、名付けようのないドロドロとした熱い光が宿っていた。
「貴女を殺しはしない。……だが、貴女の言う通り、この国が既に腐り落ちているのだとしたら……私がこれまで命を賭して守ってきたものは、一体何だったのだ」
エドモンが言葉を切った。
その顔は、月の光に照らされて、幽霊のように青白い。
鉄の面影しかなかった彼の顔に、初めて「迷い」という人間臭い影が、深く、深く刻まれていた。
「……だとしたら、私は何を信じて剣を振るえばいい。何を信じて、貴女をその祭壇へ……」
「……っ。そんなの、自分で考えなさいよ。私は、あんたの教師じゃないわ。あんたが勝手に私をここに連れてきたのよ。責任を取りなさいよ、最後まで」
私は言い返したが、彼の瞳から目を逸らすことができなかった。
冷酷な騎士の仮面が、私の毒言によって、ついに取り返しのつかないほど崩れ始めている。
その亀裂から漏れ出すのは、彼が押し殺してきた「心」という名の重圧だった。
「……アンジェリカ。貴女は、どこまで私を壊せば気が済む」
「壊れるまでよ。あんたが私の目の前で、ボロボロになって膝をつくまで、私は何度でもあんたの心臓に針を刺してあげるわ」
私は喘ぎながらも、歪んだ笑みを浮かべた。
彼の肩を掴む手に、力がこもる。
この男を壊したい。同時に、この男にだけは、私の最期を見ていてほしい。
そんな矛盾した熱が、喉の奥までせり上がってくる。
その時、遠くで深夜を告げる鐘が鳴った。
地を這うような重い音。
あと一日。
私たちが、互いに呪い、憎み合う「人間」でいられる時間は、もう一欠片も残されていなかった。




