不忠の誓約
背中を壁に叩きつけられたまま、私は荒い息を吐いた。
肺の奥が焼けるように熱い。魔力を封じられた不快な痺れと、目の前に立つ男の放つ圧倒的な熱量が、私の思考をかき乱していく。
エドモンの指は、まだ私の両肩を万力のような力で掴んでいた。鎧の冷たさと、その奥から伝わってくる肉体の震えが、薄いコットン生地のワンピースを通り抜けて私の肌を刺す。
「……何を信じればいい、って? 傑作ね」
私は至近距離にある彼の鋼の瞳を、潤んだ瞳で挑発的に射抜いた。
「あんた、自分の意志で何かを決めたことが一度でもあるの? 王が命じれば人を斬り、枢機卿が命じれば私を運ぶ。あんたの剣は確かに重いけれど、その中身は空っぽだわ。……そんな男が、処刑台の階段を登る間際になって『何を信じるか』なんて、笑わせないでよ」
「……黙れと言ったはずだ」
エドモンの声は、ひどく掠れていた。
それは、私が四年間メルセールで浴びせてきた、どんな罵倒よりも重く、湿っている。氷の仮面が剥がれ落ち、その下に隠されていた剥き出しの人間が、呻き声を上げているようだった。
「……貴女の言う通り、私の人生は借り物の正義で塗り固められていた。だが、この四日間。貴女の吐く毒を聞き、その傷跡を見て……そして、あの枢機卿の澱んだ瞳を見た時、私は初めて、自分が何を運んでいるのかを理解した」
エドモンは、ゆっくりと私の肩から手を離した。だが、彼が引いたのはわずかな距離だけだ。
逃げ場を塞ぐように、彼は私の顔の横に手をつき、影のように私を覆い尽くす。
「私が運んでいたのは、王国の救済でも、神の奇跡でもない。……一人の女の、尊厳ある死だ」
「……っ」
「それを『装置』と呼び、思考を止めることで、私は自分を守っていたのだ。……だが、今日あの部屋で確信した。私は、神ではなく、欲に溺れた獣たちのために、貴女を屠殺場へ引いてきたのだと。……そんなものに、私の騎士道は売っていない」
エドモンが自嘲気味に、低く、低く笑った。
その乾いた笑い声は、私の心臓に冷たい杭を打ち込むような響きを持っていた。
「……遅すぎるのよ、堅物。今更そんなことに気づいても、明日には私がいなくなる事実は変わらないわ。あんたがどれだけ悔やもうと、私は祭壇の上で灰になるのよ」
私は顔を背け、震える声で吐き捨てた。
彼の瞳にある「痛み」が、私の防御膜を容赦なく削り取っていく。彼を壊したかったはずなのに、いざその仮面が剥がれ落ちた今、私はどうしようもなく動揺していた。
彼という鏡に映る自分は、あまりにも弱く、そして彼を欲しがっている。
「……変えられる。まだ、一欠片の時間は残されているはずだ」
エドモンは、私の手首に嵌められた「沈黙の銀」の枷に、その大きな、節くれ立った手を添えた。
金属と金属が触れ合う、嫌な音が静寂に響く。
「……何をするつもり?」
「任務を放棄する。……貴女をここから連れ出し、メルセールの海へ戻す。……王命でも、神託でもない。これは、私の、私自身の意志による『不忠』だ」
「……馬鹿じゃないの!? こんな厳重な聖堂から、枷を嵌めた女を連れて逃げ出せるわけないでしょ! それに、あんたがそんなことすれば、あんたの首が飛ぶだけよ。私は死ぬ運命なの。聖女として生まれ、装置として消える。それが、このクソッタレな世界の決まりなのよ!」
私は彼の胸当てを激しく叩いた。
自分でも気づかないうちに、頬を熱いものが伝っていた。
「……地獄なら、貴女を連行したあの日から、既に共に歩んでいる」
エドモンは私の手首を掴み、その指先に、祈るような、あるいは呪うような力を込めた。
「アンジェリカ。……貴女が言っただろう。私と一緒に地獄へ落ちる方が、お似合いだと。その言葉に、一筋の偽りもなかったか」
その厳格な響き。忌々しい聖女の名。
四年間、必死に捨て去ろうとしてきた「私」を繋ぎ止める呪文。
けれど、彼が口にするその名は、今やどんな聖句よりも切実に私の胸を抉り、熱を灯す。
「……最低な男。本当に、最悪のタイミングで、そんな顔を見せるなんて」
私は唇を噛み締め、彼の首元に腕を回した。
枷の鎖がジャラリと鳴り、二人の影が月の光に溶け合う。
「いいわよ、地獄の果てまで付き合いなさい、エドモン。……あんたのその誇り高い騎士道が、どれだけ無惨に汚れ、泥を啜ることになるか……私が最後まで、一番近くで見届けてあげるから」
私たちは、一秒先の死さえも抱きしめるように、静寂の中で互いの絶望と決意を共有した。
聖都の鐘が鳴る。
それは終焉の合図ではなく、二人による、神への宣戦布告の音だった。




