剥離する聖域
決行の刻限は、夜の帳が最も深く降りる午前三時。
隔離の間を満たす沈黙は、もはや安息ではなく、処刑台への階段を一段ずつ登るような不穏な重圧を孕んでいた。
私は寝台の端に座り、月明かりに照らされた手首の「沈黙の銀」を見つめていた。魔力を封じられた不快な痺れは、心臓の鼓動に合わせて波打ち、私の体力を確実に削り取っている。
ふと視線を上げると、エドモンが部屋の入り口で、自分の剣を静かに研いでいた。
砥石が刃を滑る、微かな、けれど冷徹な摩擦音。
いつもなら職務の一環として聞き流していたその音が、今夜はまるで、世界を切り裂くための準備音のように響く。
「……ねえ、エドモン。本気なのね」
私は喉の奥から絞り出した、酷く掠れた声を投げた。
「今ならまだ、間に合うわよ。私が寝ぼけていたと言えば、枢機卿もあんたの忠誠心を疑わない。……あんな豚たちのために名誉を捨てるなんて、あんたらしくないじゃない」
エドモンは手を止めなかった。一度、二度、丁寧に刃を撫で、満足したようにそれを鞘に収める。金属が噛み合う「カチリ」という音が、私たちの日常の終わりを宣告した。
「名誉など、貴女の命の重みに比べれば、ただの言葉に過ぎない」
彼は立ち上がり、影のように私に近づいた。
鎧の軋む音が、この部屋の豪華な装飾を否定するように響く。彼は私の前に膝をつくと、まるで祈りを捧げる騎士のように、私の汚れた手を取り、その手首の枷をじっと見つめた。
「……貴女は私を、魂のない自動人形と呼んだ。その通りだ。私はこれまで、王の剣として、誰の感情も、自らの意志も介在させずに生きてきた。……だが貴女を連行したあの日から、私の歯車は狂い始めた」
エドモンが顔を上げ、その鋼の瞳を私に固定する。
そこには、四年間隠し続けていた迷いも、任務としての冷酷さもなかった。あるのは、ただ一つ、自分自身の魂を賭けた「決意」だけだ。
「貴女という『毒』に冒され、私は初めて、自分が何を守り、何を殺してきたのかを知った。……この枷を嵌めたまま死なせることは、私のこれまでの人生全てを、無意味な屑鉄に変えることと同義だ」
「……はは、大げさな男。私の命に、そんな価値なんてないわよ」
私は笑おうとしたが、唇が震えてうまく動かなかった。
彼が私を「アンジェリカ」と呼ぶたびに、その重厚な響きが、私が捨てたはずの「人間」としての誇りを、無理やり繋ぎ止めてしまう。
「価値があるかどうかは、私が決める。……行くぞ」
エドモンは私の腰を抱き寄せ、立ち上がらせた。
枷の鎖を自分の左手に巻き付け、短く引く。それは支配ではなく、深い闇の中で私という存在を繋ぎ止めるための、命綱の感触だった。
部屋を出ると、大聖堂の回廊は死のような静寂に包まれていた。
エドモンは私の手を引き、隠し通路の重い扉を音もなく開ける。そこは、歴代の聖女たちが「部品」としての役目を終えた際、秘密裏に運び出される「死者の道」だった。
「……私の背を離れるな。何があってもだ」
低く、断固とした声。
私たちは、カビと死の匂いが立ち込める狭い通路を、影のように突き進む。
魔力を封じられた私の体は、一歩ごとに肺が灼けるように痛み、視界が白む。
「……ねえ、エドモン。あんた、後悔してない? 明日の朝には、あんたは王国最大の反逆者よ。騎士団の仲間も、あんたを殺しに来るわ」
「……構わない。不誠実な平穏の中で生き長らえるより、貴女という地獄に寄り添って死ぬ方が、よほど清々しい」
エドモンは一度も振り返らず、私の手を強く、強く握り直した。
その時だった。
背後から、聖都の平穏を切り裂くような、鐘の音が響き渡った。
『脱走だ! 聖女が消えた!』
怒号が回廊を駆け抜け、無数の松明の火が窓を赤く染める。
追っ手の足音が、雪崩のように地下へと降り注いでくる。
「見つかったわね……。堅物男、あんたの不忠もここまでよ」
私は毒を吐きながら、絶望に目を細めた。
だが、エドモンは迷わず私の前に立ち、腰の長剣をゆっくりと抜き放った。
月の光が、磨き上げられた銀色の刃に反射し、暗闇の中で冷たく、美しく煌めく。
「……ここから先は、地獄への特等席だと言ったはずだ、アンジェリカ。……一歩も引くな」
エドモンの背中から、今まで見たこともないほど濃密な殺気が立ち昇る。
それは、誰かを守るための盾ではなく、この腐りきった世界を斬り伏せるための、剥き出しの牙だった。
最初の追っ手が通路の角から飛び出してきた瞬間、エドモンの剣が閃いた。
肉を断つ音、そして短い悲鳴。
私たちの、血と呪いにまみれた逃亡劇は、今、本物の戦場へと変わった。




