地獄への序章
降り注ぐ松明の赤が、地下の湿った壁に不吉な影を踊らせる。
逃げる。ただ、その一点だけが、剥き出しの生存本能となって私を突き動かしていた。
金属の擦れ合う音、背後から迫る無数の軍靴の地響き、そしてエドモンの大きな手から伝わる、痛いほどの確かな体温。
私たちは今、王国の聖域――その心臓部を無残に抉り取りながら、出口へとひた走っていた。
「――逃がすな! 不忠者エドモンを、その毒婦ごと討ち取れ!」
怒号が石造りの回廊に反響し、鼓膜を震わせる。
エドモンは私を背後に庇ったまま、一度も足を止めない。曲がり角の先から現れた近衛兵の喉を、彼は呼吸を整える間もなく長剣で貫いた。
「……アンジェリカ、伏せろ!」
彼の低い叫びと同時に、私は床に這いつくばった。頭上を鋭い風が通り過ぎる。矢だ。
エドモンは、かつて王の敵を屠るために磨き上げたその技術のすべてを、今は私一人の命を繋ぐためだけに、そして王への反逆のために捧げている。
「はぁ、はぁ……っ。ねえ、エドモン。あんた、本当に、後戻りできないところまで来ちゃったわね」
私は壁を背に立ち上がり、震える足で再び走り出した。
枷の鎖を自らの手に巻き付け、私の腕を引き寄せる彼の背中は、返り血を浴びて黒ずみ、獣のような荒々しさを纏っている。
「……前だけを見ろ。貴女をこの穴倉から連れ出す。それが今の私の、唯一の職務だ」
「……職務、ね。どこまでいっても堅物なんだから」
私は毒を吐きながらも、彼のマントの端を強く、指が白くなるまで握りしめた。
聖堂の心臓部を貫く隠し通路。
カビと腐敗した祈りの匂いが立ち込める中、私たちはかつての名誉を泥にまみれさせ、出口へと肉薄する。
「――そこまでだ、エドモン・ド・ヴァランタン!」
重厚な納骨堂の出口を塞いだのは、エドモンのかつての部下たちだった。
彼らの顔には、驚愕と、それ以上の憤怒が張り付いている。王国で最も高潔と謳われた男が、生贄の装置を連れて逃げる。その裏切りは、彼らにとっては世界の法則が崩壊するに等しかった。
「エドモン卿! 正気か! その女は国を救う『部品』だぞ。狂ったか、その毒婦に惑わされたのか!」
「……どけ、若造」
エドモンの声は、地底から響く地鳴りのように低く、揺るぎない。
彼は私を左腕で背後に押し込み、右手一本で長剣を構えた。その構えには、迷いも、かつて彼を縛っていた「加減」という名の美徳も、もはや存在しない。
「貴女たちが守ろうとしているのは国ではない。一人の少女の絶叫の上に成り立つ、まやかしの安寧だ。……私は今日、その虚飾を斬り捨てる」
「反逆だ! 全員、構えろ!」
狭い回廊に、剣と剣が激突し、火花が散る。
エドモンの剣筋は、いつもよりずっと重く、そして容赦がなかった。かつての仲間の喉を突き、関節を砕き、一切の慈悲を排して道を切り拓く。
「……あは、最高だわ。見てよ、エドモン」
私は彼の背中にしがみつきながら、喉の奥で震えるように笑った。
揺さぶられるたびに、彼の掌から伝わる熱。冷徹だったはずの彼の肉体が、今は生々しい熱を持って、私の「生」を、その罪を、丸ごと肯定している。
「あんたの立派な白銀の鎧が、仲間の返り血で真っ黒に汚れていく。……これが、あんたが欲しがった『自分の意志』の代償よ。ねえ、どんな気分? 誇りがドロドロに溶けていく味は。これまでの名誉を、自分の手で抉り出す気分は!」
「……悪くない。貴女の毒言よりも、よほど現実の味がする」
エドモンは最後の一人を壁に叩き伏せ、一瞥もせずに私の手を掴んで再び走り出した。
逃走の果て、辿り着いたのは聖都の北端、断崖に面した「不浄の門」。
処刑された罪人が投げ捨てられるその場所には、夜霧が濃く立ち込め、一頭の黒馬が繋がれていた。
「……乗れ。アンジェリカ」
私は限界を訴える足を震わせ、エドモンの手に支えられて馬の背に跨った。
背後に聳え立つ大聖堂からは、今や無数の松明が列をなし、龍のようにこちらへ向かってきているのが見える。
エドモンが私の背後に飛び乗り、手綱を握る。
その重厚な肉体の厚みが、私の背中に直接伝わってくる。鉄の匂いと、微かな血の匂い。
「……エドモン。ここから出れば、あんたに居場所はないわよ。世界中があんたの敵になる」
「……慣れている。戦場では、常に周囲は敵ばかりだった。……アンジェリカ。貴女に、約束しよう」
風を切り、闇を裂く速度の中で、彼の低い声が私の耳朶を打った。
「貴女が祭壇の上で消えることも、誰かの装置として死ぬことも、私が許さない。……たとえ、この世界全てを敵に回してでもだ」
「……っ。勝手なこと言わないでよ、堅物」
私は顔を伏せ、彼のマントを強く握りしめた。
手首を繋ぐ鉄鎖が、夜風に吹かれて寂しく鳴る。
冷酷だった騎士が放つ、不器用で、一方的な執着。それが、四年間凍りついていた私の心を、呪いよりも深く縛り付けていく。
「……いいわ。逃げてあげる。メルセールの海よりずっと遠く、神様の視線も届かない、世界の果てまで」
背後で、聖都の鐘が鳴り響く。
それは私たちの「敗北」を告げる葬送の鐘ではない。
神から逃げ出し、人として堕ちていく、二人のための祝典の音だった。




