名誉を捨てた温度
聖都の灯が遠ざかり、闇が私たちを飲み込んでいく。馬の蹄が夜の静寂を乱暴に削り、冷たい風が切り裂かれた頬を麻理させた。背後で鳴り響く鐘の音は、もはや怒号というより、死にゆく王国の悲鳴のように聞こえた。
逃走を開始してから数時間。馬を潰さんばかりの勢いで駆け抜け、私たちは聖都を囲む険しい山脈の入り口へと辿り着いた。不意に、空が重く湿った溜息を吐き出し、氷のような雨が降り始める。
「……っ、う、あ……」
私の体は、とうに限界を超えていた。
魔力抑制の枷は、走る衝撃のたびに骨を軋ませ、内側に堰き止められた魔力が逃げ場を失って神経を逆なでする。雨に濡れた指先はとうに感覚を失い、手綱を握るエドモンの腕に縋り付くことさえ、今の私には酷な重労働だった。
馬の背から滑り落ちそうになった私の腰を、エドモンの太い腕が強引に引き戻し、自らの胸板へと叩きつけるように抱き寄せた。
「……耐えろ、アンジェリカ。ここで止まれば、夜明けと共に騎士団に追いつかれる」
「……分かって、るわよ。でも、あんたのこの馬……そろそろ、心臓が爆発しそうじゃない。私と一緒に、無理心中でもするつもり?」
私は彼の鎖帷子の冷たさに顔を押し付け、震える声で毒を吐いた。馬の鼻息は白く、荒い。エドモンは低く唸ると、街道を外れた鬱蒼とした森の中へ馬を向けた。
岩陰に隠された小さな洞窟を見つけ、彼は私を抱きかかえるようにして泥濘の上へと下ろした。
「……はぁ……はぁ……っ。最悪。泥と雨と、血の匂い。ねえ、エドモン。これがあんたの選んだ『自由』の正体よ。惨めなものね。王宮のふかふかのベッドが恋しくなったかしら?」
私は洞窟の壁に背を預け、震える手で蜂蜜色の濡れ髪をかき上げた。
エドモンは答えず、手早く馬の様子を確認し、それから私の足元に跪いた。彼は無言で、雨に濡れて赤く腫れ上がった私の手首の枷に触れる。
「……痛むか」
「……今更何を。あんたが嵌めたんでしょうに。それとも、商品が壊れるのが心配? ……ねえ、外してよ。この忌々しい鉄屑。今の私には、あんたの喉元を掻き切る力なんて、一ミリも残っていないわ」
エドモンは沈黙した。
魔力抑制の枷を外せば、私の命の灯は一時的に強まるが、同時に聖都の追跡者たちに私の「位置」を知らせる篝火にもなる。枢機卿たちは、聖女の魔力の残滓を追う猟犬――異端審問官や魔導兵を放っているはずだ。
「……外せば、奴らに見つかる。貴女を、あの祭壇へ戻すことになる」
「……そうね。だから、あんたは私に『装置』のまま、死なない程度に衰弱してろって言うわけ。結局、場所が変わっただけ。あんたは私の番人で、私はあんたの荷物よ。……いっそ、そのままその剣で、楽にさせてくれたらいいのに」
私は冷たく笑い、彼を突き放そうとした。
だが、エドモンは私の手を離さなかった。それどころか、彼は私の冷え切った両手を、自らの大きな掌で包み込み、硬い手袋を脱ぎ捨てて、直に体温を分け与えるように強く握り締めた。
「……荷物ではない」
エドモンの瞳が、暗闇の中で静かに燃えていた。
それは任務の光ではなく、一人の男としての、執拗なまでの意志。
「私は、貴女を死なせない。聖女としても、生贄としてもだ。……アンジェリカ、貴女をただの一人の女として、メルセールの海へ……あるいは、神の届かぬ場所へ連れて行く。それが、今の私の唯一の生存理由だ」
「……っ。勝手なこと、言わないで。そんなの、余計なお世話よ。……あんたに救われるくらいなら、泥の中で野垂れ死ぬ方が、よっぽど私らしいわ」
私は視線を逸らした。
彼の掌が、痛いほどに熱い。雨に濡れて芯まで冷えた体には、その熱が、猛毒よりも深く、甘く、私の内側を犯していく。皮肉で塗り固めた私の心が、彼の直球すぎる言葉に、一歩ずつ追い詰められていくのが分かった。
「……エドモン。あんた、いつかきっと、私を助けたことを後悔するわよ。私はね、あんたが思っているような、守る価値のある人間じゃないの」
「価値を決めるのは私だと言ったはずだ」
エドモンは私の手首に顔を寄せ、枷によって刻まれた傷跡に、誓いを立てるようにそっと唇を触れた。
金属の冷たさと、彼の熱い呼応。
外では、激しさを増す雨が世界の境界線を塗り潰し、私たちを既存の秩序から切り離していく。
帰る場所も、信じる神も、明日を保証する名誉も、もう何もない。
あるのは、ただ、闇の中で互いの絶望を探り合う、二つの不確かな体温だけだった。




