献身の嘘
ガッサの邸宅から船底へと戻る足取りは、いつにも増して重かった。
昨夜は、魔力の暴走を望む酔った豪商のために、限界を超えて力を絞り出した。視界は今も白く霞み、体中の血管に、焼けた鉄を流し込まれたような熱い痛みが残っている。
ドレスの裾はワインと泥で汚れ、露出した肩には、誰のものか分からない不快な手の痕が赤く浮き出ていた。
「……っ」
私は扉の前で一度立ち止まり、冷たくなった指先で頬を叩いた。
死んだような顔をしていてはいけない。エドモンを不安にさせてはいけない。
私は震える手で、ガッサから「報酬」として受け取った特効薬の瓶を、宝物のように胸に抱きしめた。
「……あ、エドモン。起きてたの?」
扉を開けると、エドモンは壁を支えに立ち上がろうとしていた。
数日前まで死の淵にいたとは思えないほど、驚異的な回復力だ。……それは皮肉にも、私が魂を切り売りして手に入れた薬の、確かな効能だった。
「アンジェリカ……。今、戻ったのか。こんな時間まで、恩人の手伝いを……?」
エドモンが近づいてくる。
彼は自分の着ていたボロ布を脱ぎ、私の肩を覆うようにそっと掛けた。
「震えているじゃないか。……無理をするな。私はもう、自分の足で立てる。次は私が貴女を助ける番だ」
「……助ける?」
私は、その無垢な言葉に喉の奥が引き攣るのを感じた。
あんたが守ろうとしているこの肩は、さっきまで豚のような男たちの指先に弄ばれていたのよ。
あんたが感謝しているガッサは、私の絶望を笑いながら、あんたの命を盾にして私を使い潰しているのよ。
「……そう。ありがとう、エドモン。頼りにしているわ」
私は、せり上がる吐き気を押し殺して、彼に背中を向けた。
嘘を吐くたびに、私の口の中には砂を噛んだような苦い味が広がる。
この男が「騎士」として、私を守ろうという誇りを取り戻せば取り戻すほど、私が隠している真実が、鋭い刃となって彼を傷つける準備を整えていく。
「アンジェリカ。……その腕輪、外さないのか?」
不意にエドモンが、私の手首に並ぶ豪華な金の腕輪に触れようとした。
私は悲鳴を上げそうになるのを堪え、乱暴に腕を引いた。
「だめ! ……これは、外せないの」
「なぜだ。……枷の痕を気にしているのか? それなら……」
「違うわよ! ……これは、異国の習慣なの。ガッサが、この国で暮らすなら付けておけって……」
私の声が震えている。
エドモンは、僅かに眉をひそめて私を見つめた。
彼は馬鹿ではない。長年、戦場を生き抜いてきた男だ。目の前の女が隠している「何か」に、その鋭い勘が少しずつ、けれど確実に触れ始めていた。
「……アンジェリカ。貴女は、自由になったんだ。……もう、誰かに命じられて何かを演じる必要はない」
「わかってるわよ! そんなこと、わかってるわ……!」
私は、彼の手を振り切り、奥の隅へと逃げ込んだ。
自由。
あんたが死ぬ気でくれた、その自由という言葉が、今の私にはどんな呪詛よりも残酷に響く。
自由になれたはずの場所で、私は今日も「聖女」という名の娼婦を演じ、あんたの命を買い戻している。
この矛盾を、いつまで隠し通せるだろう。
その時、ガッサの使いの者が扉を叩いた。
「聖女様、夕食の席に、連邦の知事がお呼びです。……今すぐ、着替えてください」
「……っ」
私はエドモンの視線から逃げるように、再びドレスに手を伸ばした。
鏡に映る私は、美しく着飾っていても、中身はボロボロに崩れた土人形のようだった。
「アンジェリカ、待て。知事とはなんだ。なぜ貴女が……」
「……大丈夫。ただの、食事会よ。……エドモンは、寝てて」
私は一度も目を合わさず、鉄の扉を閉めた。
扉の向こうで、エドモンが不審そうに私の名を呼ぶ声が聞こえた。
その声が、いつか「軽蔑」に変わる日を想像して、私は暗い廊下で、独り、声を殺して泣いた。




