無垢なる断罪
船底に差し込む朝日は、淀んだ海水の湿気と混じり合い、まるで毒のような鈍い金色を帯びていた。
私は昨夜の、男たちの脂と酒の匂いが染み付いたドレスを脱ぐ気力さえなく、ただエドモンの傍らで蹲っていた。心は死人のように冷え切っているのに、彼の微かな呼吸を確認するたびに、私の心臓は醜く、逞しく跳ねる。
昨夜、私は幾人の男に触れられただろうか。幾人の老人に魔力を吸わせ、その代わりにこの一瓶の薬を手に入れただろうか。
感覚はとうに麻痺していた。ただ、彼が生きていればそれでいい。そう自分に言い聞かせなければ、正気を保てなかった。
「……ぁ、……ん……」
寝台の上で、エドモンの指がシーツを強く掴んだ。
数日の間、死の淵を彷徨っていたその指に、明確な生への意志が宿る。
「エドモン……! エドモン、わかる? 私よ、アンジェリカよ!」
私は縋りつくように、彼の顔を覗き込んだ。
ゆっくりと、地獄の底から這い上がるようにして開かれたその瞳。かつては王国の秩序を守る鋭い刃のようだったその双眸が、混濁の淵から私を捉え、やがて焦点が合っていく。
「……アン……ジェ……リカ……?」
「そうよ、私よ。よかった……本当によかった……っ」
私は彼の胸に顔を埋めて、声を上げて泣き崩れた。
すると、エドモンはひどく困惑したように、けれど慈しむように、震える手で私の背中をそっと撫でた。
「……泣かないでくれ。私は……無事だ。……貴女が、ここまで運んでくれたのか」
その言葉に、私の心臓が凍りついた。
彼は何も知らない。
激流に身を投げたあの日から、この船底で死にかけていた時間まで、彼にとってはただの暗い空白なのだ。自分がどうやって生き延び、傷を塞ぎ、今こうして呼吸をしているのか――その「代償」を、彼は何一つ知らない。
「……ああ、そうだ。ここは、どこだ。王国ではないようだが……」
彼は上半身を起こそうとして、私の姿を見て動きを止めた。
不自然に肌を露出させた、異国の扇情的なドレス。手首にいくつも嵌められた、枷を隠すための金の腕輪。そして、私の体から漂う、安っぽい酒と男たちの香水の残り香。
「アンジェリカ……その格好は、どうした。……いや、その傷……」
彼は私の手首を掴もうとした。私は弾かれたようにその手を振り払う。
彼に触れられるのが、怖かった。
騎士として清廉に生きてきた彼の指が、昨夜、豚のような男たちに弄ばれた私の肌に触れることが、耐え難い冒涜に思えた。
「……気にしないで。ここはもう王国の外よ。この船の主人が、助けてくれたの。……この服も、彼が用意してくれた、ただの……異国の服よ」
「そうか……。恩人がいるのだな。……感謝しなければ。貴女を救い、私まで生かしてくれたのなら……」
「やめて!!」
私は叫んでいた。
何も知らないエドモンが、ガッサに感謝の言葉を口にしようとすることが、私には耐えられなかった。
あんたを救ったのは、神の慈悲でも商人の善意でもない。
私が、あんたが命を懸けて守った「自由」を切り売りして、その尊厳を泥水で洗って手に入れた、不浄の命なのよ。
「……アンジェリカ?」
エドモンが、不安げに私の名を呼ぶ。その瞳は、あの日断崖で私を見つめた時と同じ、澄んだ、真っ直ぐな光を湛えていた。
その「無垢」が、今の私にはどんな呪詛よりも鋭く突き刺さる。
(言えない。……絶対に言えない)
もし、この男が真実を知ったら。
自分の命が、アンジェリカが「聖女」として屈辱を売った金で繋ぎ止められたのだと知ったら。
彼はきっと、自分を生かした私の手を、そして何より自分自身の存在を、死ぬほどに呪うだろう。
騎士としての誇りも、私への愛も、すべてが汚泥にまみれて壊れてしまう。
「……なんでもないわ。……ただ、疲れているだけ」
私は無理やり微笑みを張り付けた。
かつて聖都の祭壇で浮かべていた、あの偽りの微笑を。
自由になれたはずの世界で、私は再び、今度は「愛」という名の鎖で自分を縛り、嘘という名の仮面を被る。
その時、鉄の扉が乱暴に開いた。
「おやおや、騎士様が目覚めたか。これは重畳。……さあ、聖女様、今日の『信者』たちが、あんたのその美しい光を待ち兼ねているぞ。薬のストックも、次の仕事次第だ」
ガッサが扉に寄りかかり、勝ち誇ったように笑う。
エドモンは、ガッサを警戒しながらも、彼の言葉に首を傾げた。
「……信者? 聖女、とはどういう意味だ、ガッサ殿」
「ああ、あんたは知らなくていい。……さあ、行きましょう、アンジェリカ」
私はガッサの瞳に宿る愉悦を見ないようにして、立ち上がった。
背後でエドモンが「アンジェリカ、待て!」と呼びかける声がする。その声に応える資格は、もう今の私にはない。
私は一度も振り返らずに、船底の闇を出た。
扉が閉まる瞬間、鏡のように磨かれた甲冑の隙間に映った自分の姿は、かつての聖女よりも、もっと醜く、虚ろな、ただの人形にしか見えなかった。




